2 月項

 日も暮れ始め、この辺りはすっかり暗くなってきた。外の霧もやがて晴れ、窓の外に杉林が多く見受けられる。

 目の前の艶やかな刺身を箸で摘まみ、口に運んだ。

「美味しい?」

「あぁ、作って下さった方々に感謝を伝えといてくれ」

「ご飯装ったの私よ」

「そうか、だからご飯は一層美味しかったのか」

 彼女はニヤリと笑った。

「料理はもう来ないの?」

「えぇ、さっきのお造りが最後よ」

「帰るのか」

「帰って欲しく無いなら残りますけど」

「じゃあ居って、話し相手に為ってくれ」

 彼女は微笑の後、コクリとした。

「言葉に甘えて」と私の近くへ擦り寄って、麦酒を注ぎ、片肘ついて此方を見つめる。

「どうした」

 私が高らかに笑いながら云うと、彼女は恥ずかしそうに、

「そう云う仲でしょ」と呟いた。

 その時の表情が自棄に色っぽく、……しかしそれは十五の色気で、ひどく欲情させるものでは無かった。

「そうだな、僕の前では君の自然体を晒しても良いぞ。無礼を働いても何も思わないから」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 さらに彼女は足を崩し、だらしなく座った。その時、隙間から股の中が見えそうで、少し昂奮した。しかし、そのことを云おうにも、箭本さんは助平ですねと思われてしまうと深慮し、渋ってしまった。

 しばらく彼女と他愛もない会話を続けていると、何の拍子か分からぬが彼女が急いで足を組み直し、顔を赤らめた。

 その時の動作はまるで物を隠す幼子のように、されど彼女が隠したものは羞恥であり、あぁ、彼女は大人なのだとはっきり理解できた。

「中学は行ったのかい?」

「何です、いきなり。勿論、行きましたけど」

「高校は……行かなかったのか」

 彼女は少し口を噤んだ後、

「えぇ、片親なので……」と話した。

 私はその奥に潜んだ真意を汲み取り、

「十六になったら一緒に住まんか」と彼女の方を真っ直ぐに見た。

 彼女はまた顔を赤らめ、目を泳がした。

「何を云ってるんです?面白いお方ですね」

 と破顔している彼女の表情はふんだんな『喜』と少しの『哀』を見せていた。


 食事を終えて、しばらくボーッとしていると彼女が窓辺へ誘ってきた。

「あそこに明かりが見えるでしょう。……昔、私が暮らしていた街です」

 彼女が指差していたのは、山間の風前の灯火の如き光だった。そんなに遠くからここへ……。私は彼女の身の上の不憫さを憐れんだ。彼女の横顔を見つめる。美しく、整った、しかし悲しそうに、懐かしむようにあるその顔は唐突な愛情を生み出した。

 私は彼女を深く抱擁したのだ。ただ、優しく羽毛を愛でるように。

「箭本さん」

 彼女は詰まった声を出す。私は苦しくないか、と尋ねた。返事は無かった。ただ、華奢な腕で私を抱きかえしたのだ。

 少しして、ゆっくり手を解いた。彼女の頬に寂寥せきりょうが流れ出し、私の肩に染み付いていたが、気にしなかった。

「じゃあ、そろそろお風呂へ行こうかな」

 立ち上がって皿を重ねた。彼女はハッと我に返り、その作業を手伝いはじめた。

「お前はまだまだ子供だ」

 私の言葉に、彼女は頷いた。


 

 外気は冷えきって、虫の群がる白熱灯に照らされた露天風呂は、大きな湯気を上げ佇んでいた。

 小走りに浸かって、景色を見た。真っ暗い暗闇のなか、あの山間の灯火が見える。あそこは何千何万の人間が住む街だ。その膨大な数の人間が作り出した小さな灯火は、彼女を苦しめる癌であり、私を怒らせる火元なのだ。

 しかし、その狂った感情を静めるのはこの湯であり、彼女の笑顔であった。身体の隅々まで巡る鮮血はドクドクと流れ、湯の効能か分からぬがさっぱりした気分にさせる。そして、さっぱりすると彼女の顔が思い出され、あぁ、彼女の望むものは何なのかと、深く考えるのだ。


 小一時間の入浴の後、彼女の顔が見たくなり上がった。

 更衣を終え、左に曲がり、真っ直ぐ木の廊下を歩いていると、前から鴨川さんでない別の女中らしき人が駆けてやって来た。

「箭本様ァァ、申し訳ありません。わたくし、当旅館の女将舛川ますかわと申します。ご到着の際、紹介できませんでしたことお許しくださいませ」

 彼女は建前の言葉を連ね、半ば演技のような口調をし、座って頭を下げた。

「女将さんでしたか。頭をお上げください。所用がございましたのでしょう?」

 彼女は頭だけ上げ、嫌に笑いながら何度か小さく頷いた。

「箭本様、ありがとうございます」

 立ち上がった彼女の容姿は、顔は若作りをした厚化粧に、首元は肉の皺が二重三重連なり、体格は着物で隠れているが恐らく腹の肉が飛び出て、乳は垂れ、脂肪を多量に含んだ肌をしているのだろう。

「何かお気に召さないことはありましたでしょうか?」

 彼女の問いに「あなたです」と答えたくもなったが、「いいえ、居心地の良い宿ですよ」と澄ました微笑を浮かべた。

 彼女は気を良くし、「では」と去っていった。



 月夜の縁側。私は薄い小説を片手に寝転んでいた。そこは人が来ず、建物の仄かに温かい光が活字を照らす、私の望む最高の場所だった。

 夜も更けて、沢の音と一緒に音虫の歌が聞こえている。また、その背後に女中たちの桶を鳴らす音、湯を掛け流す音も聞こえ、まさに温泉宿の風情を醸していた。

 鴨川さんもそこに居るのだろうか。少し色めき、月を見上げた。爽やかな光──それは白く、悲しく、美しくあり、自ずと彼女を重ねてしまった。

「箭本さん、何してます?」

 後ろから彼女の声が聞こえた。振り返ると薄化粧を落とし、濡れた後ろ髪を団子に丸めた寝巻き姿の彼女が居た。

 私はその姿に唾を飲み、

「ちょっとね」と応えた。

「隣、宜しい?」

「あぁ」

 彼女は少し湿った空気を纏い、足を横にして座った。

「風呂上がりかい」

「えぇ、寝巻き姿ですいません」

「いや、構わんよ。何故ここに?」

「毎晩来てるのです。ほら、ずっと他の女中と一緒に居ますとに為りたくなるので」

「じゃあ、失敬しようか」

 私がスッと腰を上げると、

「いえ、そんな。居ってください」と彼女はそれを制した。

 眠たくなっているのか彼女は自棄に落ち着いて、前までの幼さを消失しているようだった。

「……そうか」

 私はゆっくり腰を下ろした。

「そう云えば、今日は私だけと云っていたが、明日は誰か来るのか?」

「えぇ、老夫婦の方が一組」

「そうか、少し忙しくなるな」

「はい……、でも私は、箭本さんの方へ行きますから」

「そうか、それは嬉しいよ」

 それからしばらく沈黙が続いた。

「月が綺麗でしょう」

 少しして口を開いた彼女は月を見上げていた。

「あぁ、綺麗だね」

「私とどちらが綺麗?」

 彼女は真剣な目をして、此方を見つめていた。その目は十五の目とは言わず、ただ覚悟をした人間の目とでも云うべきか、そんな気迫と高揚を含んだものだった。

 彼女に近付き、見つめて応えた。

「君だ」

 私の目は彼女にどう映っただろうか。さっきの私が見たと同じように見えていたならば、この上ない幸せである。

 彼女は顔を赤らめ、後ろを向く。その時に見えた、乱れた後ろ毛から覗かせる彼女の項は、月のように白かった。私はそのまま彼女を押し倒し、その項に顔を埋めた。少し汗ばんだ項は甘い匂いを放ち、彼女の口からは大きく息が漏れた。

 顔を離すと、彼女はまた顔を赤くし、軽く会釈をして去った。その様子はまるで学童のような、はたまた恋する乙女のように映った。


 明日は朝からここに居ようと思う。露天風呂の帰りに。

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