秘宿

江坂 望秋

1 温泉宿

 久しぶりに休みを取り、出掛けようと思ったのは遠くの温泉宿だった。仲間との話に偶に出てくるその宿は、所謂と呼ばれる場所にあり、木々生い茂る山道を車で二、三時間走らねば辿り着けぬと云う。その分、湯に浸かった時の感動は大層なもので、数日は泊まって興じるべきとも云う。

 私はその魅力的なものに少なからず惹かれ、きっと恋い焦がれていたのだろう。期間は平日の中日から末日までの二泊三日、人の少ない時期を選んだ。



 昼前、雨のそぼ降る中、風聞以上に鬱蒼とした山道を走り抜ける。山を一つ、二つ越えただろうか。突如として土地が開け、奥に湯煙立つ宿が見えた。そのさらに奥は巨大な山並が見え、普段では味わえ無いまさにがそこにあった。

 車を降り、大きな庇の下、濡れた身体をハンカチで拭っていると、旅館の女中が気を利かせて布を持ってきた。

「遠いところご苦労様です。さあさあ、早く身体を拭いて、温かい湯船に浸かって下さい」

 そう穏やかな口調で云い、その若い女中は屈んで、忙しく私の身体を拭きはじめた。

「自分でやりますよ」

 と私は呼び掛けるも、彼女は少しも手を止めず、少しして「良し!」と云い立ち上がった。

「さぁ、案内しますね」

 彼女は嬉々とした表情に幼さを、動作に愛くるしさを孕んでいた。


 玄関は石畳に、沓脱石くつぬぎいしが奥にあった。そこに足を載せ、靴紐を解き、若い女中が靴を棚へ運んでくれた。

箭本やもと様?」

「はい」

「畏まりました。わたくしは鴨川と申します。それでは参りましょう」

 彼女は私の荷物を全て持ち(と云ってもスーツケースだけだが)、私を先導した。

「今日はどちらから?」

「福岡です」

「まぁ、それは遠かったですね」

「えぇ、温泉に入るのが楽しみですよ」

 背を向けて、時折此方を見ながら彼女は絶えず話しかけ続けた。

「不躾ながら仲居さん、お幾つですか?」

「私は……十五です。どうされました」

「いえ……、てっきり私と同い年くらいかと」

 彼女は不思議そうに立ち止まって此方を見た。

「面白い方」

 彼女は微笑んだ。少女のように。


 しばらく進んで部屋についた。和室基調の広々二十畳。一人では有り余る広さだ。

「実は今日、箭本様だけなんですよ」

 彼女は部屋の窓を開けながら呟いた。

「へぇ、それは恐縮だ」

「すいません、余計でした」

「いやいや、良いですよ。伸び伸びと過ごさせて貰います」

 彼女は一礼して作業を続けた。

「箭本様はそう云えばお幾つでごさいますか?」

「僕は二十五です」

「二十五ですか……。わたし、そんなに大人に見えるんですね」

 彼女は頬を赤らめ、横顔に微笑を確認できた。

「えぇ、失礼でしたか……」

「いいえ、嬉しいですよ」

 その華奢な身体付きは、独楽のように勢い良く振り返り、破顔していた。

「それは良かったです」

 私は俯き、荷物の整理をはじめた。

 少しして、窓を開け終えた彼女は「では」と一声掛け出ていった。一気に部屋は沈黙した。ただ、彼女の甘美な匂いが残っていて、卑しくも私は胸を高揚させ、恍惚としていた。

 外では雨足が強まる。目が覚めた。取り敢えず、湯船へ行こうと思い腰を上げた。


 露天風呂は大きな雨粒によって大量巨大の水紋を描き、床に敷き詰められた石材はその雨粒を粉砕して、入り口に立つ私の足元にペチペチと掛けてきた。「風情だなぁ」と思いもしていないことを口にし、足早に湯に浸かった。水温は地獄の釜のように熱く、雨に濡れて冷えたことを後悔した。されど、時が経つほどに慣れが生じ、いつしか適温と思えてきた。その時、やっと露天風呂の興趣を理解できた。私はそれを鼻で笑い、夜にもう一度来ようと決心した。


 脱衣所を出ると、そこには先程の女中が居た。

「箭本様!」

 彼女は動転していた。

「どうかしました?」

「いえ、しばらく休憩なので箭本様とお話でもと……」

 彼女は意地らしい顔で此方を見つめる。

「良いですよ、私も暇ですし。何なら何時でも暇ですから」

 私は純粋にそう思った。


 ここから少し離れた廊下の横に、丁度良い縁側が或ると云う。そこへ向かうことに。

「箭本様、折角ですし敬語止めても宜しいですか?」

「えぇ、勿論」

「やったぁ、ありがとう」

 私は思わず笑った。二十五歳の笑みを見て、彼女は十五歳の笑みを作った。


 

 しばらく付いていくと、彼女は突然外へ出て座った。

「そこ?」

「ここ」

 彼女の隣に腰掛けた。

「確かに良いところだね。沢の音が聞こえる」

「でしょ。その沢の水はね、温泉にも少し入っているのよ」

「へぇ」

「そう云えば、お風呂どうでした?心地よくて?」

「えぇ、また夜に一回入ろうかなと」

「良かったわ。ゆっくりしていって」

 と云った具合に彼女との会話は続いた。

 彼女の話は大して面白くもないが、詰まらなくもない。云うなれば、丁度良い話し相手だ。また彼女の表情や言動は何処か落ち着かせ、やがて不可欠の存在へと変わっていった。


 「もう、そろそろ戻るわね、じゃあ」

 彼女は懐中時計を取り出し、立ち上がった。

「あぁ……また」

 私は少しジーンと寂しくなった。これが慕情か、と恥ずかしいことを考えているうちに、彼女は痕跡も残さず消えた。


 雨は止んだ。しかし、真っ白い霧がやや立ち込めている。その霧をじっと見た。次第に距離感が無くなり、気分が悪くなった。

「もう戻ろう」

 

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