今際の際、幸福論 ~黒猫と少年~

今際の際、幸福論 ~黒猫と少年~

 



     *


『おい。お前』

『……………』

『家(うち)、帰んなくていいのか?』


 鬼島(きじま)さんに出会ったのは引っ越してきて間もなくで。

 俺は、高校生。橘(たちばな)はまだ小学一年かそこらだった。

 何となく家に帰りたくなくて、近所の公園で遊んでたら。鬼島さんに声を掛けられたんだ──。


『お前…。それ………あんま、良くないぜ?』

『…?』

『それ。お前が今、遊んでる“そいつら”……。魑魅魍魎(ちみもうりょう)っつーんだ』

『……ダメなの? だって、かわいくない?』

『かわいいか、かわいくないかは。人それぞれかもだがな。そいつらは一端には、“良くないもの”だ』

『………。そうなんだ…。きっと、これも見えちゃいけない。触っちゃいけないものなんだね』

『そうだよ。…何だ、お前。物分りいい奴だな──』

 鬼島は少年の頭を撫でた。

『おかあさんがね。怖がるんだ。だから、父さんに怒られる───おかあさんはね、本当のお母さんじゃないんだ。だから、僕の事、少し怖いんだって』

『…そっか。おかあさん、怖がらせちゃ駄目だぞ? あんま』

『うん……』


 その後、俺は橘に妙に懐かれた。家も近かったから、それからは、まあ──…。






     * *


 僕には、過去の記憶がある。僕が、今の僕として生まれる前の…。とても短い生涯だったけれど。僕は───。



「鬼島さん! 起きてください! そろそろ仕事の時間ですよ!?」

「寒いから起きたくない」

「事務所、暖まってますんで。早く!」

「んー……」

「鬼島さんっ!!」




 僕は一匹の黒猫で。所謂(いわゆる)、捨て猫で孤児だった。まだ目も開かず、親兄弟の顔も知らない。衰弱していた所を運よく犬猫のボランティア団体に保護されて、一軒の家にきた。


『わー。真っ黒だ!』


 小さな手に鷲掴まれて、哺乳瓶の先を口に押し込まれた。あったかい手、こちらを覗き込む顔。お腹が満たされれば、口や顔を丹念(たんねん)に拭われた。


『名前、付けていい?』


 両手に掲げられて。相手は、ジッと見つめてくる。


『目の色、キレイな黄色だからさ───…』






「──橘! おい、橘!」

「!、鬼島さん。コーヒーですか?」

「馬鹿。やっぱ、聞いてなかったな? ちょっくら出てくる。留守番、頼むぞ」

「あ、はい。いってらっしゃい」


 静まり返った事務所内に柱時計の音が静かに響く。窓辺の観葉植物に水をやって、ソファーの一つに腰を下ろし、片膝を抱えた。


「また、置いてかれちゃった───」






     * * *


 その場所が、僕の新しい家で。ずっと居られると思っていた。君と一緒にずっと居られるんだと思っていた──…。


『今度の譲渡会。上手くいくといいね』


 小さな檻の中。たくさんの人間の気配。たくさんの“他人”の気配。…怖いよ。嫌だよ。早く家に帰ろ? ねぇ、イツキくん───。


『──この子がいいわ。』






 見知らぬ家。見知らぬ人間。…違う、僕が帰りたかった場所はここじゃない。


『あ! ユズちゃん! そっちは駄目よ──!!』


 僅かな窓の隙間をすり抜けて、飛び出した見慣れぬ住宅街。追い掛けてきた気配を察して、捕まりたくなくて車道へと飛び出した。


『…!』


 響くクラクション。大きなトラックのライトに照らされ、足が竦んで動けなかった。…鈍く重い衝撃。視界は真っ暗になった。









──サラッ…

「!」

 髪を梳かれ、驚いて目を覚ました。

「…お前。留守番の意味、知ってる?」

「鬼島さん!」

「ひっつくな。ヨダレ、拭け」

「ごめんなさい。暖房、温くて…」

「俺は寒くて死にそうでした。橘、コーヒー」

「はいっ!」


 貴方と一緒に居られる事が、今はそれだけで幸せで仕方がない。






『今際の際、幸福論 ~黒猫と少年~』

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短編集 くろぽん @kurogoromo

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