追記 池田アカネ

 あれから、どれくらいの時間が経ったんだろう。


 10分のようにも思えるし、何十時間も経ったようにも感じる。


 私は教室内の、書類棚の1番下に入って膝を抱えている。


 外からはもう、足音や息遣いは聞こえなくなった。


 聞こえなくなって随分経つ。


 それでも、身体は硬直して動かない。


 もしも、外に出てゾンビがいたら。


 そんな思いが呪いのように身体を縛り付ける。


 姉はどうなったんだろう。


 姉は、私をここに押し込めて、その時、ちょうど教室内に入ってきたゾンビを引きつけるのに走っていった。


 最後に、私の顔を見て笑った。


 一瞬だけど、確かに笑った。


 私は、姉の笑顔が大嫌いだった。


 誰にでも媚びを売るように笑う、姉の笑顔が。


 媚びを売って、誰かに助けてもらおうとしているんだ。


 浅ましい女だ。


 そこまでして生きたいのか。


 ふつふつと、そんな考えが排水管のヘドロのように溜まっていった。


 息の詰まる閉鎖空間の中で、本来なら1番深く絆を結ばなければいけない相手に。


 私はそんな感情を募らせていった。


 それなのに、こんな私なのに。


 姉は身を呈して私を護った。


 私は去っていく姉に対して「待って」の一言も言えなかった。


 声を発すればゾンビがやってくる。


 あの状況でも、私はそんな浅ましい考えがよぎって言葉が出なかった。


 部屋から姉が出ていく時、「こっちよ!」と、大きな声でゾンビを引き付けていった。


 私から注意を逸らすために。


 心の中で、何度も何度も謝った。


 姉に対して何かを言った訳ではない。


 人に媚びを売るなとか。


 そんなにまでして生きたいのかとか。


 思っていた事を言った訳では無い。


 でもきっと、姉は私がそんなふうに思っている事に気づいていただろう。


 それなのに、姉は私を庇った。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 お姉ちゃん、ごめんなさい。


 偉そうなことばっかり、それなのに、土壇場になったら何も出来ない。


 何も出来ないくせに、こんな酷い妹なのに。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 お姉ちゃん。


 ちゃんと会って言いたい。


 謝りたい。


 ありがとうって言いたい。


 お願いだから、生きてて。


 ゆっくりゆっくりと、何度も手を触れては決心がつかなくて開かなかった扉に手をかける。


 少しづつ少しづつ力を入れて、ほんの少しの隙間を開ける。


 心臓が早鐘を打つように鳴り響く。


 狭いロッカーの中が自分の心音でいっぱいになっているように感じる。


 ゆっくりと開いた隙間から外を覗き見る。


 教室の中は夕暮れの紅い光がさしている。


 倉庫用に使われている教室の中は、さほど荒らされたような痕跡はない。


 積まれていたダンボールが少し倒れている程度だ。


 ゾンビも、いない。


 死体もない。


 アイツらは人間の気配のするところに寄ってきて、人間を見つけたら叫ぶ。


 人間を見ている間は叫び続けて仲間を呼ぶ。


 水分が欲しくなったら去っていき、雄叫びが聞こえればまた戻ってくる。


 雄叫びの続く限り、ゾンビは湧くように現れる。


 逆をいえば、雄叫びさえやめばゾンビはいなくなる。


 ルパンさんに言われた、もしもどこかに閉じ込められればとにかく静かにすること。


 雄叫びがやめば、半日もすればゾンビはいなくなる。


 まさかその言葉の真相を、こんな小さなロッカーの中で確かめるハメになるとは思わなかった。


 慎重に、ゆっくりゆっくりとロッカーの引き戸を開ける。


 ようやっと体が出せる程に引き戸が開いても、こわばって身体が動かない。


 床に手をついて、四つん這いで足を動かすとギシギシと音が聴こえそうな程に関節が固まっている。


 四つん這いのまま、そっと開きっぱなしの扉から廊下に顔を出す。


 何もいない。


 不気味な程に静かだ。


 ふと、喉がカラカラなのに気付いた。


 ダンボールから水のペットボトルを取り出す、音をたてないようにゆっくりと栓を開けて飲む。


 まるで身体に染み渡るような心地がする。


 キャップを閉めて地面に置いた。


 ゾンビは全ていなくなったんだろうか?


 この4階への階段の隙間はバリケードを崩したはずだ、それは見えた。


 あの混乱の最中、ルパンさんの作った隙間を通って少しづつ上がってくるゾンビを確実に仕留めていた。


 誤算は、完全に塞いだと思っていた別の階段からもゾンビが上がってきたこと。


 不意打ちでゾンビがやってきたせいで、ほとんどの人が屋上への階段の方へ行けなくなった。


 私とお姉ちゃんも。


 四つん這いのまま、廊下を進む。


 階段への曲がり角で、手すりに手を置いてゆっくりと覗き込む。


 数人の影が死体を貪っているのが見えてすぐに顔を引っ込めた。


 また心臓が跳ね上がる。


 気配を殺してもといた教室まで戻り、またロッカーの中に入る。


 どうしよう。


 4階のフロアにゾンビと閉じ込められてしまった。


 ちらっと見えたバリケードは完全に崩しきれていなくて、階段は中途半端に塞がっていた。


 他の階段は机と椅子で塞がっている、そこから通ろうとすれば音をたててしまいゾンビに気づかれるだろう。


 屋上へ行くにはゾンビの前を通らなくちゃ行けない。


 他に道は・・・


 もうダメだ。


 どうしようもない。


 誰か助けに来てくれるだろうか。


 膝を抱えて、ゆっくりと涙を流した。


 私は、なんて意気地がないんだろう。


 自分1人じゃなんにも出来ない。


 最低だ。


 最悪だ。


 嫌だ。


 最後の最後。


 こんな狭い場所でゾンビに怯えて、ゾンビに見つかるまで縮こまってるなんて嫌だ。


 涙を乱暴に拭う。


 引き戸を開けて外に出て、立ち上がった。


 こんなところで死んでたまるか。


 屋上への階段は、廊下の1番端。


 走り抜ければ私の方が早い、屋上へ出て扉を閉めたら大丈夫だ。


 ペットボトルを拾い上げて水をガブ飲みする。


 廊下に出て、階段の近くまで行くと足音を殺したまま一気に走り抜けた。


 そのまま廊下の奥の屋上へ続く階段まで走る。


 後ろから、ゾンビが追いかけてくる気配は無い。


 気づかれなかったのか、止まって振り返るが追ってくる気配は無い。


 よかった。


 後は屋上へ行くだけだ。


 階段への曲がり角を曲がると心臓が止まるかと思った。


 下り階段のバリケードに引っかかった死体にゾンビが覆いかぶさって死肉を漁っていた。


 ゾンビが私に気づいて振り返ると


「あ"あ"ぁぁぁっ」


 っと雄叫びをあげる。


 後ろへ下がったら挟み撃ちになっておしまいだ。


 ゾンビがこちらに踏み出す前に階段を駆け上がった。


 屋上へ出れば私の勝ちだ。


 2段飛ばしで駆け上がる、後ろでゾンビが転ぶ気配がした。


 運も味方してる。


 屋上の扉を開いて出た、扉をバタンと閉じて背中で押さえる。


 ドアノブを抑えて開かないように。


 すぐにドアが壊れんばかり叩かれる。


 手でドアノブを抑えたまま座り込んだ。


 涙がどんどん溢れてくる。


 一瞬見ただけでも分かった。


 下り階段でゾンビが喰っていた死体は


 お姉ちゃんだ。


 顔を見たわけじゃないけど、あの服は間違いない。


 お姉ちゃん。


 後ろからガンガン扉を叩くゾンビに、強烈な怒りが湧いてくる。


 怒りで頭が痛い。


 どうにかしてこいつらを殺してやりたい。


 お姉ちゃんを喰ったこいつらを。


 周りを見ても武器になりそうな物は何も無い。


 素手じゃ敵わない。


 屋上にはバケツしかない。


 目に入ったのは柱に括られたロープだけ。


 あのロープは、屋上まで追い詰められた時に地上へ降りるためにくくられたものだ。


 立ち上がって、ドアノブから手を離してロープに向かって走る。


 柱から地上へ繋がるロープを拾い上げたところでゾンビがドアを開けてなだれ込んできた。


 数は7体。


「こっちよ!」


 私を見つけると雄叫びを上げて走ってくる。


 迫るゾンビは顔の周りが、いや、上半身全部が血糊でベタベタだ。


 あの血のほとんどが姉の血だと思うとまた怒りが湧き上がってくる。


 ゾンビが私の服に触れそうになったところで、私は屋上から地上へ飛んだ。


 ロープを掴み、半円を描いて校舎の壁に足をつける。


 ゾンビは全員、そのまま地面へと落ちていった。


 ドパンと妙な音をたてて地面に激突して動かなくなる。


 本当なら自分が殴り殺したかったけど、これしか方法を思いつかなかった。


 下を見ると、今落ちた以外にも死体がたくさんあってそれにゾンビが群がっている。


 私を見つけると雄叫びをあげた。


 このままじゃ下には降りられない。


 ロープを伝って上がろうにも身体は持ち上がらない。


 目の前の窓を蹴破って中に入る。


 また4階に戻ってきてしまった。


 教室を出てグラウンド側の窓から下を見るとグラウンドは死体を喰うゾンビで埋め尽くされている。


 ダメだ。


 私はこの校舎から出られない。


 耳をすましていても、ゾンビが校舎内に入ってくる気配は無い。


 ここで静かに過ごしていれば、そのうちゾンビはいなくなるだろう。


 それまでの辛抱か。


 屋上へ続く階段へ向かう。


 下り階段のバリケードに絡むように、姉の死体はあった。


 酷い有様だ。


 四肢はどれも繋がっていない、顔も判別がつかない。


 どこもかしこも喰い破られて、何もかもがズタズタだ。


 抱き上げようとしたが、バラバラになってしまいそうでやめた。


 倉庫から寝袋を持ってきて、そこへ姉を綺麗に並べた。


 それだけだ。


 それ以上はどうすることも出来なくて。


 私は寝袋に収まった姉と数日を過ごした。


 謝ったり。


 話しかけて。


 昔話をしたり。


 数日が過ぎた頃。


 校舎の周りからゾンビがいなくなった。


 私は持てるだけの武器を持って校舎を出た。


 頭も心も、暗い感情でいっぱいになって。


 ゾンビ共を根絶やしにしてやる。


 皆殺しだ。


 皆殺しだ。


 皆殺しだ。


 皆殺しだ。


 殺してやる。


 殺してやる。


 コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス

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