第35話 想定できない気持ち
忘れるなんて、まだ無理だよね。この町から引っ越して、忙しい時間の流れに身を任せたらきっと忘れられるのかな。
マグカップの底が見えてきた頃、ふと、先生に合格した事を伝えるべきか考えた。今まで学業の面で気にかけてくれていたのは確かだし、もう会わないとは言ったけど、それだけは連絡したいと思った。たとえ返信は来なくても。
駅のホームでポケットからスマホを取り出すと、『第一志望、合格したよ』って、その言葉だけを送った。送信ボタンを押してから、『ありがとう』とかも入れた方が良かったかなとか、そんなことを気にしながら、来た電車に乗り込むと、すぐに着信してスマホが震えた。
こんなに返信が速いなんて、何のわだかまりもなく私の合格を喜んでくれたのかな。嬉しくなって急いで開くと、受信したのはただのエラーメッセージだった。
もうメールも届かないなんて――拒否されてる? いや、先生はそんなことしない。それを確かめたくて、電車の中にいるのに衝動的に電話を掛けていた。
『……お掛けになった電話は、現在電波の届かない場所にあるか……かかりません。 』
そんなアナウンスが流れて、キーンという音で耳が塞がれた。もう完全に、私は先生の世界から消えちゃったのかな。合格したこととか、私が悩んだり、傷ついたり、泣いたりしてももう先生には何も伝えることができないんだ。
そう思うと、本当に悲しくなった。
もう、あのマンションにも居ない気がした。引っ越してしまって、空っぽの部屋が残されているだけなのかなってそんな気がするのに、諦め切れなくて先生の家に足が向かってしまう。
ただ、合格したよって伝えて、先生の喜んでいる顔が見れたらいいの。褒めてもらえればいい。もう、ただそれだけでいいの。
先生が言うように、教師と生徒の関係なんだったら、最後までそうしてほしい。
先生の家の玄関まで辿り着くと祈るような想いでインターホンを押した。
2回押してみたけど、結局、返事はなかった…
ドアノブに手を掛けて、ゆっくりドアを引く。すると、カチャッと音を立てて、扉が開いてしまった。
やっぱり……中は空っぽで、何も無かった。
もう先生に逢う術はひとつも思いつかなかった。もう、諦めなきゃな。
2人で過ごした空間が、別の場所かのようにとてもとても広く感じた。もう、居ないんだ。寂しくて、世界でひとりぼっちになってしまった気分。
「先生、合格したよ」って、心の中で呟いた。いつか、街で偶然出会えたとしたら先生は気付いてくれるのかな。その日までに、自立した女性になっていよう。
もう、泣かないよ。先生にフラれちゃったけど、大学に合格して失うものもあったけど、得られたものがあって本当に良かった。
家までの帰り道、そんな風に自分を客観的に見つめなおしていた。
これからは、人を頼れない場面も増えるだろうし、もっともっと強くならなきゃな……
自宅のある駅で降りると、颯爽と改札を抜けた。まだ肌寒い北風が今日はなんだか心地良くて、前を向いて歩けている気がした。もうきっと涙は出ない。
蒼にも連絡しておいた方がいいかな。なにかと背中を押してくれたし、応援もしてくれたから、電話で直接言おう。
そう思って、またスマホを手にした。
「―—唯」
人混みから、呼ばれた気がした。
どこから声がするんだろう、前を見ても誰もいなくて、ふと後ろを振り返ると車道に停めた車の前に先生が立っていた。
「唯、良かった」
突然すぎて本当に驚いてしまった。夢なんじゃないかって疑うほど、驚いて全身の鳥肌が立っていた。
「先生……どうしたの?」
「ほら、合格発表、今日だったよなーって思って、気になってさ」
先生は人差し指で鼻をツンツンしながら話していて、私はその懐かしい仕草をぼんやりと見ていた。まだ、逢えるんだなって心の中で安堵していた。
「家まで、送ろっか」
そう言うと、助手席のドアを開けてくれた。
先生がどういうつもりなのかは分からないけど、期待だけはしないようにしよう。これ以上傷つくことがないように祈った。やっと前向きになれたのだから。
車に乗り込むと、久しぶりの距離感に少し緊張する。
――もう、逢いに来ないから、安心して
この前、自分が言った言葉を思い出すと恥ずかしくて、何から話していいのか分からなくなってしまった。
「どうした? なんか、具合悪いの?」
心配そうにこちらに目を配って、ぎこちない私の緊張を解こうとしてくれているのかな。私はその口から発される言葉を、一語一句聞き逃さないように、こわばった顔で聞いていた。
「それで、、どうだった? 大学は」
「うん……受かったよ」
「本当に!? すごいじゃん! 唯、よく頑張ったな!」
久しぶりにこんなに嬉しそうな先生を見ただろう。本当に合格できてよかったなって心底思った。それは思い描いていた通りの先生の反応だった。
でも、私の胸はズキッとした痛みを覚えて、まだこんな気持ちになってしまうのだなと、ここまでは想定できていなかった。
「じゃあ、今日は家でお祝いかな?」
「うん、さっきお母さんとランチしてお祝いしてもらったよ」
「そっか……じゃあ、これから、このままどっか行く?」
急に声のトーンが低くなって、ゆっくり言った。なんだろう。先生はどういうつもりなのだろう。
「ううん、大丈夫。先生に報告できて良かったよ」
行きたい気持ちと、傷付きたくない気持ちのせめぎ合いで、傷付きたくない方が勝った。今までにないくらい、ブレーキを自分で踏んでいた。
先生のマンションに行ったことは、言わなかった。先生は優しいから、きっと罪悪感があって、だから最後に逢いにきてくれたんだと思う。顔を見れば分かるよ。
窓の外は、ずっと見慣れた景色で、どんどん家に近づいている。無音の車内で、自分の鼓動しか聞こえなかった。
もう、このまま、さよならなんだな――
ほどなくして、家の前に到着した。
「先生、今までありがとうございました。」
シートベルトを外して、体を先生の方に向けて頭を下げた。これで、ちゃんとにキッパリと終われたかな。
「うん。ありがとう……」
寂しいけど、最後まで全部、精一杯やった。もうこれ以上は無理だよ。
ドアを開けて、アスファルトに足が着くとゆっくりと足に体重が移動して、立ち上がろうとしたその瞬間、パッと腕を掴まれた――
振り返ると、先生が真剣な目をしていて、私は何も言葉を発することができなかった。
腕をグイッと強めに引かれて、その反動で、またシートに腰を下ろしてしまう。
そのほんの1秒がものすごい長い時間に思えた。
「やっぱり、どっか行かない?」
その時、先生も緊張しているのが分かった。
「……え?」
「もう少し、話したくて」
先生は私の腕を掴んだままで、触れられた腕からジワリと伝って来る体温が熱くて私に断る余地はなかった。
「うん」
そう
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