第29話 悲しい雨
体育祭の翌日、約束通り拓海の家へ向かった。後ろめたい気持ちが足取りを重くさせるけど、きちんと伝えないといけないことは分かっていた。
自分の気持ちに嘘をつき続けることもできなくて、この曖昧な関係を続けていくことも、後々拓海をもっと傷つけてしまうだろう。罪悪感が消えなくて、早く伝えなければと焦るばかりだった。
「おはよ、入ってー!」
玄関が開くと、嬉しそうな拓海の笑顔が見えた瞬間、胸がズキリと痛んだ。
「部屋、やっと掃除したんだけど、今日はこっちで勉強する?」
いつだったか、拓海の部屋を見せて欲しいとお願いしていたこと、覚えていたみたい。私は誘われるまま拓海の部屋に足を踏み入れた。
開いたドアの向こうには、カーテンからキラキラと光が差し込んでいた。綺麗なブルーのラグの上には小さなテーブルとクッションまで用意されていて、自分の部屋の何百倍も素敵だった。
「すっごい綺麗な部屋ー!」
「ちょっと、飲み物取ってくるから待ってて」
拓海は満足そうに微笑むとそう言って部屋から出て行ってしまった。一瞬上がったテンションも1人になるとまた冷静になる……いつ話を切り出そう。
1時間くらい経った頃、1つの教科の勉強がひと段落ついた。
「あー、ちょっと休憩ー」
そう言って、拓海が何気なく私の隣に座り直して会話を続けた。
「昨日は、楽しかった?」
後ろにあるベッドを背もたれにしてリラックスしている様子でこちらを見た。
「後夜祭のこと……だよね? 楽しかったよ、蒼のバンド結構人気あってさー」
「ふぅん」
自分から聞いたくせにあまり興味はないみたいで、それなら聞かなければいいのに……。
「―—ねぇ、僕のこと、一番好き?」
不意にとてもストレートな質問が飛んだ。拓海の顔を見ると、少し目が潤んでいるように見えた。やっぱり拓海だって、この違和感に気づいている。
何て答えよう……
自分が伝えたいこと、頭では分かっているのに、うまく言葉に繋げられなくて、そのくせ嘘も付けなかった……
もう、拓海に嘘はつきたくなかった。
「……だよね」
そう言ったかと思うと、突然唇に柔らかい感触を感じた……
両手で優しく後頭部を包んで、引き寄せる。そのうちに、どんどん激しくなっていった。
「……やっ、」
胸を押しのけて離れようとしてもできなくて、立ち上がろうとした瞬間、後ろのベッドに倒されてしまった。
怖い……
瞬時に全身の血の気が引いていくのが分かった。
「まだ、付き合ってるんだから……、いいよね?」
そう言うと、覆い被さるようにまた唇を重ねた。目を開けて必死に捉えた拓海は、いつもの可愛い拓海じゃなくて、切なくて、苦しくて、怒ったような顔をしていた――
必死に振りほどこうともがくけど、男の子に腕を抑えられて動けるわけがなかった。
拓海の荒い息が首筋にかかると、ゾクッとして、一瞬外れた手で、また精一杯胸を押しのけた。
「なんでっ……何で僕じゃダメなの?」
ひんやりとした背中とは裏腹に、拓海の視線はとても熱くて、至近距離で圧倒されてしまった。
そうだよね、こんなにも今まで支えてくれたのに……
「ごめん……やっぱり、忘れられなかった……」
拓海の真っ直ぐな視線から目を逸らさないで本当の気持ちをぶつけてみると、声が震えた。
少しの沈黙の後、ポタポタと涙が落ちてきて、とっても悲しい雨が降った……
「ごめん、、ごめんね私本当にバカだよね。こんなに素敵な彼氏がいるのに……」
そう言いながら、私も涙が止まらなかった。応えられないことが申し訳なくて……こんなに好きでいてくれたのに。
「ごめんなさい……」
「もう、謝らないで
――僕たち、別れよう」
そう言い終わると、サッと身体を起こして、私に背を向けたまま床に座った。
「もう、こんな時期だし、お互い頑張らなきゃね」
拓海は泣いているのに、無理して平気なふりをして、明るい声で言った。
「うん、頑張らなきゃね……頑張ろうね」
こんな時期に、ごめんね……本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だけど、嘘はつけなくて、振り返る余裕もなくて、もう進むしかないんだよね。
私は拓海を傷つけた。その事実はもう変わらない――
月曜の朝、拓海に会ったらどんな顔をして良いのか分からなくて、学校に着くまでの道のりがとても長く感じられた。
どうか、バッタリ会いませんように……
「唯、おはよ」
そう願った矢先、聞き慣れた声が耳に届いた。振り返ると、いつもと変わらない笑顔で向かってくる拓海がいた。
別れたのは夢だったのかなって思ってしまうほど自然に。
「そんな顔しないでよ、別れちゃったけど友達ではあるでしょ?」
「うん」
拓海は本当に優しいな……
ニコニコと笑って、声をかけてくれるなんて私には到底できないよ。拓海の精一杯の優しさに触れて、朝から涙腺が緩んだ。
ほどなくして、色々なものが込み上げると自然に涙が湧き出てしまった。朝から泣きたくなくて一生懸命こらえたのに、気づいたら涙は頬を伝って流れ出していた。
「え、何で泣いてるの? 大丈夫? 具合でも悪い?」
慌てふためいた拓海が可愛くて、そういう所も本当に大好きだったな。
私は素敵な人と付き合っていたんだって、心からそう思った。
「ううん、ありがとう、何でもないよ」
不思議そうな顔で覗き込む拓海を見ると、澄んだ瞳がユラユラと揺れて、それからフッと笑った。
「僕に会うの……怖かったのか」
冗談ぽく言いながら、また笑っていた。
ありがとう。こんな私に優しくしてくれて。
今まで通り接してくれるだけで、本当に救われた気がした。
――
雨ばかりの10月、拓海とは別れてしまったけど、都合よく恋愛モードにはなれなかった。
1人で帰ることが増えて、前みたいに戻っただけなのに、ふと寂しさを感じる時がある。周りも徐々に拓海と別れたことに気づき始めていた――
「おーっす」
「あぁ、蒼、久しぶり」
学校を出てしばらく歩いていると、蒼が声をかけてくれた。
「今日は、1人?」
「え? うん、そうだよ」
みんな、同じこと聞くんだよね。
「もう志望校決まったんだっけ? ほんと、いよいよだな」
「うん、よく知ってるね。蒼も面接頑張ってね」
「おう、唯も頑張れよ」
この時期誰でもするような自然な会話。だけど蒼が何か言いたそうな、そんな雰囲気だったのは察知できていた。
「そういやさ…」
きっと、拓海と別れたことだろうな……そう思ってちょっとだけうんざりした顔をしてしまった。
「白石先生と、なんかあんの?」
だけど、蒼が言った言葉は想定外以上のもので心臓が飛び出てしまいそうなくらいドキっとした。
今まで誰にも先生のこと、聞かれたことなんてなかったのに。
蒼の目を見ると、大きな瞳が私の動きを見逃さないように、視線を捕らえて離さなかった。
「なんで? ……先生と?」
何を知っているのだろう、不安になりながらボロが出ないように、探りながら曖昧な返事をする。
「後夜祭のとき、手、繋いでなかった?」
それを聞いて腰が抜けそうになった。
そっか……前からは見えていたのか……
「見られちゃったか……」
もう誤魔化すのは無理だと悟って、素直に認めた。
「え? やっぱり! なに、前に言ってた好きな人って、まさか」
「そう。先生の事だよ」
いつもの帰り道なのに、まさかこんな秘密の話を打ち明けることになるなんて。でも、歩きながらだから面と向かって話すのとは違って、素直に話せた気がした。
「マジかよ…なんで? なんで先生なの?」
興味本位なのか、本気で心配してくれているのか分からなかったけど、それから質問が続いた。
「分かんないよ、好きになっちゃっただけ。説明なんて、できないよ」
「そっか……そんなもんだよな。んで、うまくいってんの?」
「ううん、多分振られちゃったんだと思う……」
「……そっか」
前に話を聞いてもらっていたのに、実らなかったという結果が申し訳なかった。
「ハードル高すぎだよね、、ほんと、先生が同年代だったらもっと違っていたかもしれないのになー」
「同年代でも、伝わらないヤツもいるけどな」
蒼がニッと歯を見せて笑った。
そっか……蒼は意外とモテるから恋愛経験多いもんね。
家までの道のりを恋バナをして帰ると、いつだったかの帰り道を思い出す。蒼はその時よりも、もっともっと真剣に聞いてくれた。初めて先生とのことを拓海以外の人に話すことができた。
もう終わってしまった恋かもしれないけど、振り返ってみて、少し気持ちの整理がついた気がした。
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