第28話 後夜祭

 先生が近づいて来る――


 私は椅子に座ったまま動けなくて。先生は身動きの取れない私の頭の上に優しく手を乗せた。

 ポンポンって、懐かしいやつ……


「―—ごめん、分からないふりして」

 

 そう言うと、頭に感じていた重みがフワリと軽くなって、先生はそのまま行ってしまった。一気に高揚した気持ちと熱くなった頬を元に戻せなくて、しばらくその場に座ったまま動けなかった……



「……唯」


 かすかに、遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。


「唯? 大丈夫?」


 振り返ると、心配そうに覗き込む拓海の顔が見えて別の意味でドキリとしてしまった。

「ここで何してたの? どこにもいないから心配したよ」

 そう言って私の腕を掴んで立たせると椅子をヒョイっと持ち上げた。あんなところに1人で座っていたのに、不思議とそのことについては触れてこなかった。


 前を歩く拓海の背中を見て、心の中で「ごめん」って何回言っただろう。拓海がくるりと振り返ると「もうみんな着替えちゃってたよ」って、屈託無く笑ってからまた前を向いた。


 どうしたらいいのだろう……拓海をこれ以上、傷つけたくない。

 傷つけたくないのに……


「今日さ、後夜祭行くんでしょ?」

 こちらを振り返らずに会話は続いていた。

「うん、そのつもりだけど」

 高校最後のイベントだから、私も頑なだった。でも、行かない方がいいのかな……そんな考えが頭をもたげた時。

「わかった……、じゃあ、明日うち来ない? たまにはうちで勉強しよう」

 振り返った拓海は、爽やかに笑っていて

「うん、いいよ」

 可愛い笑顔につられて、自然とそう答えていた。拓海の家に行くのはいつぶりだろう。

 教室で着替えてから拓海を学校の外まで見送ると、1人でそのまま体育館へ向かった。



「おーい、唯! こっちこっち!」


 体育館へ入るなり、すぐに蒼の声が聞こえた。こういうイベントの時は必ず呼び止めてくれる、兄妹みたいな、幼馴染。今日は一層、生き生きとして見えた。


「おつかれー! 何番目?」

「5番目ー! 一応3年だからね、気遣って後ろの方にしてもらっちゃった」


 それを聞いて、時間が遅くならないか一瞬ドキッとしたけど、なんとか予備校には間に合いそうで安心した。

 無邪気に笑う蒼を見ていると、その後ろの人影からなんとなく視線を感じて、よく見ると、先生だった。


 先生……


 先生の方に体を向けたら不意に視線を逸らされてしまって、勇気が出なくて話しかけに行くタイミングを完全に失ってしまった。


「ねぇ、聞いてる? 唯?」


 蒼が呼んでいるのに、上の空だった。気付けば、先生の周りには女の子達が集まっていて、ますます近付けなくなってしまった。


 やっぱり……先生って人気あるんだな……

 あの頃とは違う、少しだけ遠い存在のように思えた。


 蒼が準備で舞台裏に行ってしまうと、私は1人になった。舞台以外は暗いから1人でもぜんぜん平気。ただ、先生とその周りの女の子達が気になって、舞台を観るフリをして先生の方を何度も見ていた。


 先生が楽しそうに笑っている。何を話しているのだろう。

 耳から入ってくるメロディが一切聞こえないくらい、気になって仕方がなかった。


 急に寂しくなって、音楽にも乗れないまま棒立ちで、ただ、蒼が出てくるのを待つばかり。時間が経つのが遅くて、ちょっとだけ来たことを後悔し始めていた。



 ワァーーーー



 急に大きな歓声が上がる。突然会場からリズムを刻むような手拍子が始まって、それを真似して手を叩いていると、蒼たちのバンドが出てきた。

 こんなに人気があるなんて全く知らなかったから、本当に本当に驚いた。

 1、2年生の後輩の子達がこぞって前に詰め寄せて、ここまで人気があるのだと幼馴染としてとても誇らしかった。


 楽器の演奏が始まると、会場がさらに一体となって、ツンと澄ました顔でベースを弾く蒼が、なんだかキラキラと輝いて見えた。今更だけど、もっとライブハウスに見に行くべきだったなーって、ちょっと後悔したくらい。


 派手でインパクトのある始めのセッションが終わると、突然優しいバラードに切り替わった。


 あ……この曲


 この前イヤホンで聴かせてくれた曲だ。夢中になっていると、トントンって肩を叩かれて、振り向くと先生だった。


「おつかれ、唯の友達?」


 舞台の方を見ながら、耳元でコソッと言う。バンドに夢中になっていたから、突然先生に耳打ちされて、一気に鳥肌が立つほど驚いてしまった。


 周りを見渡すと、さっきまで先生を取り囲んでいた女の子たちは居なくて、みんな前に行ってしまったようだった。


 ドキドキしているのが先生にも分かってしまうくらい、自分でも無意識に、心臓のあたりを押さえていた。鳥肌が消えなくて、本当に恥ずかしい。


「唯? どした?」


 先生は平然とした顔で、私を見つめていて、あぁ、この人、ズルい人なんだった……って、そう思い出してももう遅くて。


 やっぱり、私は先生のことが好きなんだなって改めて思い知らされた。


 演奏されているメロディが、バックミュージックになっているみたい。熱気を帯びている会場の空気のせいなのかな、先生がいつもと違う雰囲気で少し艶っぽく見えた。

 

 2人だけの時間……先生はこんなのどうってことないんだろうけど、私にとっては現実離れした出来事みたいで、きっとまた、夢みたいに終わっちゃうんだろうな……分かっているのに……先生の横顔を見つめていたら、綺麗で吸い込まれそうになる。

 そして、悪魔に囁かれたように、先生に触れたくなってしまった。


 みんな、前しか見ていなくて、後ろにも誰もいなくて……

 もう、拒まれてもいいから……って


 コッソリと、先生の手を握った――



 触れた瞬間、先生がの手がビクッと震えたのが分かった。そして、一瞬ためらってから……

 繋いだ手を誰にも見られないように、後ろに移動させた――



 さっきの拓海の悲しい笑顔も、全部頭から消えてしまったみたいに、私には先生しか見えていなかった。

 何の会話もなくて、ただゆっくりとお互いの温もりが溶けて混ざり合っていく。


 ねぇ、今この世界には2人しかいないのかな……

 やっと、通じ合えた気がした。


 バラードからアップテンポの曲に切り替わると、突然パッと手を離された。



「―—ごめん、やっぱりダメだよ」


 よく聞こえなかったけど、多分そんな事を言ったんだと思う。気づくと体育館の入り口に向かって歩いて行く後ろ姿が見えた。


 やっぱり、ダメなんだ……思っていたよりもすぐに夢は覚めてしまって

 なんで? 私が生徒だから? まだ子供だから?

 もう曲名は覚えていないけど、ぼんやりと耳に残るそのメロディを思い出すと涙が出そうになる。


 行かないで……って、追いかけたかった。

 逃げないでよ――


 先生には覚悟がなくて、もうそれは私にはどうしようもなくて、ただ悲しかった。どうやって帰ったのかはよく覚えていないけど、気付いたら予備校で授業を受けていた。

 ダメだ、ぜんぜん頭に入らない。勉強モードに切り替わらない。もう壊れてしまったスイッチを直す術も無くて、やる気が出なくなってしまった。


 こんな時なのに……

 あと少しなのに……

 また、焦るばかりの日々に戻ってしまうのかな……

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