第23話 ヤキモチ

 それから間もなく、中間テストが始まった。

 拓海への返事は保留のまま、勉強を優先させていたらすっかり1ヶ月ほど経ってしまっていた。


 中間テスト2日目の3限目、数学のテストで監督は、先生だった……


 もう、心が揺らぐこともない、好きだった人。そんな言い方は大げさかもしれないけど、もう特別な感情を介入させずに今は1人の先生として接することができると思った。


 テスト用紙が配られて、チャイムが鳴るとみんなが一斉に机に向かう。私も先生を見ないようにして、目の前にある用紙にだけ目を向けて集中した。


 先生は教室の中を見回っていたけど、音もなく見回りをしているせいなのか、私が集中しているからなのか、先生がどこに居るのか分からなかった。

 しばらくして懐かしい匂いが鼻をくすぐった。香水ではない、何の匂いなのだろう。先生の特有の匂い……。

 そんな事を頭の片隅で考えながらも問題を解く事も同時進行で、私ってずいぶん器用になったのだなぁと客観的に思った。


 テスト終了時刻の5分前、見直しを済ませて顔を上げると、やっぱり先生と目が合った。


 ――ちゃんとできた?

 そんな風に、目で言ってるみたいだったから私も精一杯

 ――ちゃんとできたよ! 

 って目で合図を送る。やっぱりまだ気にかけてくれているのが分かって、素直に嬉しかった。



 カランカラン……



 突然何かの音がして、ふっと我に帰ると


「先生、鉛筆落としちゃいましたー」


 すぐに拓海の声が聞こえて、先生は鉛筆を拾った。そこでタイミングよくチャイムが鳴ってテストは終了した。その日、先生ともう視線が合うことはなかった。


「いこ」


 拓海は素っ気なく言い残して、すぐに教室を出てしまう。急いで後を追うと、下駄箱の外で待っていてくれた。


「どうしたの? 数学難しかった?」

「ううん、別に」


 理由は教えてくれない。だけどおもむろに取られた手は、そのまま拓海のてのひらの中に納まった。学校でこんなことをするなんて拓海らしくなくて、驚いて顔を見ると照れるわけでもなく、ただ前を向いて遠くを見つめているように見えた。


 いつになく凛とした顔、一体何を考えているの? 中庭を通り過ぎて校門が見えてもまだ黙ったまま。手を繋ぐのが恥ずかしくて、こそばゆい感覚がまとわりついている。誰かに見られていないかな、そればかりが気になって早く校門を通り過ぎたかった。


 今日の拓海はどうしたのだろう。しっかりと繋がれた手は振りほどくこともできないし、それよりも心に不安があって側にいてほしいという表れなのだろうか。


「ごめん」


 校門を出たところで突然拓海が口を開くと、突如手をほどかれた。少し汗ばんだ手が宙に浮いた。


「どうしたの? 何かあった?」


 拓海でさえ受験で不安定なのかな、そう思いながらほどかれたもう片方の手を見つめた。


「―—ヤキモチ妬いてるだけ」


 不意に思いがけない言葉が返ってきてドキッとした。けれども拓海は足を止めることもしないでどんどん歩き続ける。


「変なの、何で?」


 私は前を歩く背中に、咄嗟に言葉をかけた。急にどうしたのだろう。

 突然、道の真ん中に立ち止まって身体ごとこちらを振り返った。


「……好きだからに決まってんじゃん」


 その拓海の真剣な眼差しに一瞬も目を逸らせなくて、もしかして、鉛筆を落としたのはワザとだったのかな、と瞬時に頭をよぎって胸がギュっと苦しくなった。

 自分では何とも思っていないはずだったのに、拓海のヤキモチのせいで自分の気持ちがどこへ向いているのか分からなくなってしまった。ただ、胸が苦しくて痛むのは確か。あの日みたいに……


 今拓海がいなくなったら辛いな。それくらい、いつも一緒だった。

 予備校に向かいながら、一緒に歩いているのに、その日は話す話題が見つからない。喧嘩しているわけでもないのに寂しくて、どうしたら良いか分からなかった。



 中間テストが終わった翌日、珍しく拓海が学校を休んだ。心配になって連絡をしてみたら、『熱が出たから休むね』と短い返信が来ていた。あの日から、少し距離が開いてしまったのは私のせいなのかな。勉強とは違ってスパッとした答えは出なかった。


 久しぶりに一人で過ごす放課後、図書室に行こうと向かう途中、すごく珍しく前から先生が歩いて来た……


 目が合うと、先生がふっと笑ったから

「さようなら」

 すれ違い際に言った。

「珍しいね、1人なの」

 おもむろに先生が話しかけてきたから、立ち止まって振り返る。

「そうかな……」

「受験は? どう? 大丈夫?」

「うん、頑張ってるよ、たまに嫌になるけど」

 笑って言ったのに、先生はちょっと心配そうな表情で覗き込んだ。よく見ると、メガネの奥の瞳が優しくて、そして、懐かしかった。

「……そう言えば、まだ紅茶残ってるからたまには飲んでく?」


 先生からそんな言葉が出たから、受験の話とか聞いてもらいたくなって、そのまま一緒に付いて行ってしまった。


 拓海が知ったら嫌がるだろうな……そんな事をぼんやりと考えながら。

 先生とこうして逢うのって、いつぶりだろう。窓を開けると爽やかな風が入ってきて、理科室特有の薬品の匂いがいくらかマシになった。


「はい、どーぞ」

「ありがとう、いただきます」

「って、この紅茶、唯のだけどね」


 呼び捨てで呼ばれるのも久しぶりだな。懐かしくて、あの頃のままの時間が流れているような気がした。

「先生は……彼女できた?」

 できていたらいいのに……、そうならきっぱり諦められるのに。ずっとそう思っていたから咄嗟に口からそんな言葉が出てきてしまった。

「え? そんなの、いないよ」

 それを聞いて、ちょっとホッとして

「そっか、何がいけないんだろうね」

 ふざけて言ってみる。

「こら、笑いすぎだから」

 こんなやり取り、本当に好きだったな。暖かい紅茶を一口すすると、去年のあの頃に戻ったみたいだった。


「唯は? 彼氏出来たの?」


 突然に、先生からそんな言葉が発されてちょっとだけドキッとした。自分だって同じ質問をしたくせに。


「え? なんで? 出来てないよ」


「ん、……たまたま、手繋いで帰るの見たんだけど」


 あの日の、見られていたんだ――


 顔が熱くなる。そして鼓動が激しくなって、突如、拓海の顔が思い浮かんだ。


「そっか……」


 拓海は知っていたんだね……


「まだ付き合ってないけど……付き合いたいって、言ってもらってるよ」


 チラリと先生の顔を見上げると、読み取れない表情をしていた。正直に言ってはみたものの、イマイチ先生の気持ちが分からなくて


「そうなんだ」


 だって、安心すると思ったから。だから言ったのに。


「じゃあ、もう付き合うの?」

 

 さっきまでとは違う、問い詰めるような言い方、それと先生の鋭い視線が少しだけ怖かった。私みたいな子供に、もう付きまとわれることとか、なくなるじゃん。ホッとしたんじゃないの?


「うん、付き合っちゃおうかな……」


 先生の態度に気付かないふりをして、必死に笑った。



「―—ダメ、、今はやめなよ」



 それなのに、思い通りにしたいかのように先生が強めに止めた。なんだろう

分からないや。先生の気持ちが全く分からなかった。


「なんで? ……何で先生が決めるの?」


 大事な時期だってことは分かってる。それでも、2人で乗り越えられるかもしれないってそんな希望も持っちゃダメなの?


「今は、やめた方がいいと思う」


 私が反発するのを見て優しく諭すような言い方に言い換えた。

 大人って、本当ズルい。先生って本当にズルいよ。


 結局いつも私を振り回すのは先生だから、やっぱりここへは来ちゃいけなかった。


「先生の言いたい事は分かった……参考にさせてもらうね」


 先生は何も言わなかったけど、私は飲みかけのマグカップを流しに下げて静かに理科室を後にした。

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