第21話 忘れたくても
先生が教員室のドアを開けて中へ入る瞬間、ヒラリとこちらをと振り返って、目が合った気がした。一瞬の出来事。
先生はそのまま教員室へ入って行ってしまったけど、目が合ったことは確かに思えた。
「ねえ、ちゃんと聞いてないとダメだよ」
そんな時、広瀬くんの声がして横を向くと思った以上に顔との距離が近くて驚いて椅子から落ちそうになってしまった。
トクン……トクン……
「顔、赤いよ……」
ポツリと呟く広瀬くんが心なしか不機嫌でちょっとだけ冷たく感じた。
先生はどうして振り返ったのだろう。ただ、大したことのないそれだけの出来事なのに簡単に心が振り回されてしまって、久しぶりにキュンと締め付けられるような鈍い痛みが、懐かしくて、切なかった……
休み時間、トイレに行くとユカに出くわした。
「ねえ、広瀬と付き合ってんの?」
何気なく聞いてくるその目は、少し潤んでいてユカにしては珍しく真剣に思えた。
「ううん、付き合ってないよ、予備校も一緒だから、最近一緒にいるだけだよ」
「ほんとにぃ~?」
少し嬉しそうにそう返すと、手を洗ってからサッと行ってしまった。いつも、隣にいるのが普通になっているから、それはみんなも勘違いするよね。久しぶりに心が忙しくて、なんだか疲れてしまって帰ってからベッドに横たわると、いつのまにか寝てしまっていた。
もう来週は予備校の模試なのに、家での勉強を1日サボってしまったことを少し後悔した。
朝、登校すると下駄箱で広瀬くんに会った。
「おはよー、今日さ、うちで勉強しない? 来週模試だし」
「え? 行ってもいいの?」
初めて家に誘われたから、勉強するだけとは分かっていてもやっぱり気が張ってしまう。
「うん、今日親いないし、嫌だったら別に図書室でもいいけど……」
そう言われて少し迷ったけど、広瀬くんがどんな家に住んでいるのか単純に気になって、興味本位で行ってみることにした。
放課後、2人で駅に向かうといつもとは反対側の上り電車に乗って5駅目で降りる。駅名は知っていたけど降りるのは初めてで、この市内では珍しく高層マンションが建ち並ぶ街で、広瀬くんがちょっとだけセレブに思えた。
「お母さんもお仕事してるの?」
「うん、そうだよ、ぜんぜん家にいないよ~」
やれやれって顔して、ちょっと可愛い。
「それじゃあ、うちと一緒だ!」
同じ境遇のせいか、いつもより広瀬くんがもっと身近に思えた。マンションに到着すると綺麗で大きなエントランスを抜けて、洋風の大きなエレベーターに乗る。エレベーターでさえ必要以上に天井が遠くて、それに何食わぬ顔して乗っている広瀬くんが少しだけ大人っぽく見えた。
ガチャッ……
「散らかってるけど、入って~」
玄関のドアを開けると、急に優しい声になった。
「お邪魔しまーす」
玄関は、お母さんが働いているとは思えないほど綺麗に片付いていて、リビングに入ると、広くて余計な物が無くて雑誌に出て来るようなモデルルームが視界に広がった。
「すごーーい! めちゃめちゃ綺麗ー!」
「そう? 適当に座ってー」
大きなダイニングテーブルがあって椅子に腰掛けると、広瀬くんがキッチンに入って飲み物を用意しているみたいだった。手慣れた感じで、何となくシチュエーションが似ているせいなのか、また思い出してしまう……男の人って、みんなこうなのかな? 年齢とか関係ないのかな?
「何飲む? 冷たい方がいい? あったかいのもあるけど」
「ん、じゃあ冷たいので!」
「紅茶と、緑茶と、麦茶と……」
こんなにおもてなししてくれる人なんだ、ぜんぜん知らなかった。そんな広瀬くんを見ていると、少しずつ、先生を思い出してしまって気分が沈む。まさか、友達の家に来てこんな気持ちになるなんて想像もしていなかったよ。
こんな風にたまに先生を思い出してしまうから、忘れることができないんだろうな。広瀬くんがいれてくれた麦茶を飲みながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
広瀬くんが向かい合わせの席に座ると、早速勉強を始めた。今日は苦手な英語から。
「英文読解って何問出るんだろ~、やだな~」
「え? そう? ちゃんと理解出来れば点数取れるとこだよ、慌てないでやれば平気だって」
そんな風に小さな壁にぶつかる度にポジティブに応えてくれるから、今のこんな私でも前向きに進むことができているんだと思う。
広瀬くんの家は気が散るものが視界に入ることがなく静かで、本当に集中しやすかった。
「広瀬くんてさー、なんでいつも図書室で勉強してるの?」
こんなに静かな家があるのに不思議に思って、何気なく聞いてみた。
「なんか、人の気配が全くしないのも集中できなくてさ」
「ふーん、そんなもんなんだ」
静かすぎて集中できないなんてことがあるんだ。自分にはない感覚を不思議に思いながら新しく淹れてくれた暖かい紅茶にミルクを入れた。今日はお砂糖はやめておこうかな。
「唯は? ……何でいつも理科室で勉強してたの?」
思いもよらないタイミングで、突然『理科室』と言うワードが出てきたから、瞬間的に見開いた眼で広瀬くんを見てしまった。
知ってたんだ――
まさか、広瀬くんから聞かれるとは思っていなかったから思考が停止して、不自然に間が開いてしまった。
「え……と、理科苦手だからさー、先生に教えて貰ってた」
目を合わせることが出来なくて、目線を下ろして、しどろもどろになっているのが自分でもよくわかる。
「―—ごめん、聞かれたくなかったよね」
その言葉に広瀬くんの顔を見上げると、珍しく焦ったかのような表情をしていたから、思わず笑ってしまった。
「ううん、ふふっ、大丈夫」
「ごめん、変なこと聞いて」
素直に謝ってくれるなんてちょっと調子が狂っちゃうな。やっぱり広瀬くんは、もう気付いているんだよね……だいたい予想がついているのだろうと悟った。
「いいの、本当は……、先生のこと好きだったんだ……」
今まで誰にも言えなかったけど、広瀬くんになら言ってもいいと思った。
「そっか。カッコいいもんね、先生」
広瀬くんは、おもむろにマグカップにスプーンを入れて、ぐるぐると掻き回した。
「でも、もう……終わっちゃった」
静かに私の話を聞きながら、「そっか」って相槌だけ打ってくれた。
「だから、今は受験頑張るんだ」
「そうだね、僕も応援するよ」
「広瀬くんも頑張らなきゃダメじゃん」
そう言うと、自然と目が合って2人で笑った。先生のことを誰かに話すことになるなんて想像もしていなかったけど、以外と大丈夫な自分がいた。だから、先生のことをきちんと思い出にできるんじゃないかって思うことができた。
「ねえ、前から気になってたんだけど、もう広瀬くんて呼ぶのやめてくれない? 拓海でいいよ」
意外な申し出に、ちょっとドキッとした。そんなこと気にしていたんだ。
「え? そう? もう広瀬くんで良くない?」
「ダメダメ、なんかよそよそしいよ」
「そう?」
そしてそれから、広瀬くんを『拓海』って下の名前で呼ぶようになった。
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