第20話 置いてきぼりな心

 名前を呼ばれて前へ行くと、先生の手から答案を受け取る。何の言葉もなくて、もうこれからは、一番近くてもこの距離なんだね。そう思うとさらに切なくなった。


 受け取った答案を何気なく表に返すと、まさかの平均点以下だった。今までで一番悪い点数。そして、今日返ってきた別の教科のテストも、平均点かそれ以下だった。


 恋ばかりか、勉強も上手くいかないなんて本当にどん底かもしれない。今まであんなに頑張ったのにな。

 家に帰ると、お母さんもガッカリして春休みから予備校に行く提案をされた。これからまた当分、恋愛はおあずけになるんだな……そう思うと、人生が本当につまらなく感じた。


 もうこれからは、逢いたいときに逢えないし連絡もしちゃいけないのかな……突然一方的に終わらせられた関係に、まだ戸惑っている自分がいる。心は置いてきぼりですぐに私の気持ちまで終わりにできなくて、せめて先生のことを嫌いになれたらいいのに……必死に先生を嫌いになれる要素を探そうと、思い出してみる。だけど先生は、いつも優しくて暖かかった。

 用意してくれた赤いマグカップ、車の中で貸してくれた膝掛け、テレビの横のクリスマスツリー……思い出すとキリがなくて、なんでだろう、なんで終わっちゃったんだろう、もう少しだったはずなのにな……


 先生の顔が浮かんで、涙がじんわりと湧いて頬を伝った。平気だと思い込もうとしても、気づくと先生のことを考えてしまって、自分でも驚くほど引きずっていた。


 テストが終わると、あっという間に終業式を迎えた。けれど、3年になってもクラス替えはないから、特に何も変わることはなかった。



 春休みに入って、予備校にも通いだした。気持ちばかりが焦り出してもどかしいけど予備校の初日、思っていたよりも同じ時期に入る子が多くて安心した。


 案内された部屋に入ると、ふっと振り向いた中に見慣れた顔を見つけた。


「広瀬くん…」


 広瀬くんは私だと分かると驚いた顔をして手を振ってくれた。初めての場所でちょっと心細かったから、ものすごくホッとして私も手を振り返す。初日から在校生と一緒になって授業を受けると、一気に受験ムードになっていった。

 ここにいれば、先生のことを思い出す暇なんてない。予備校に入ってよかったのかもしれない。だんだんとポジティブに前を向ける気がしてきた。


「こっちでも同じクラスだね、よろしく」

「広瀬くん、予備校行ってたなんて知らなかったよ、よろしくね!」


 親しい人がいて本当に良かった。それから毎日顔を合わせるうち、お昼も帰り道も広瀬くんと一緒に過ごした。春休みは、土日以外は全て予備校に通っていた。それから、今までの調子を取り戻して、最終日の学力テストも難なくクリアするまでになっていた。


 予備校の帰り道、広瀬くんとファミレスに入ってテストの復習をした。


「なんだ、やればできるじゃん」

「まぁね、集中すればこんなもんよ」

「そう言えば、なんかあったの?」


突然、広瀬くんが真剣な顔をして質問をしてきた。


「え? うん、ちょっとね」


 あの日の事かなって、すぐに気がついたけど言わなくていいなら言いたくなくて、ちょっとだけはぐらかしてみる。

「終業式のちょっと前、元気ないなって思ってたんだけど、マスクしてた日、何かあったのかなってずっと気になってたんだ」

「あぁ、うん。心配してくれてありがとう」

 その言葉以上のことを、まだ今は話したくなくて。黙ってしまった。


「僕で良かったら、何でも話聞くからいつでも言って! 夜中でも早朝でもいつでも連絡していいからさ!」


 広瀬くんはそうやって無理に聞かずに優しい言葉をかけてくれた。

 私はあの日のことを口にしたらおのずと思い出してしまうから、その思いやりが嬉しかった。

 受験と失恋と、心細い時期にただ側にいてくれて本当に救われた。


 新学期が始まると、3年生は一番奥の校舎になって、もう廊下から理科室は見えなくなった。

 ただ、教室から窓を覗くと理科室の前の廊下が見える。それは考えていなかったから、ちょっと想定外だった。


 担任もクラスメイトも変わらなかったけど、窓の外の景色は変わって、いよいよ最後なんだなって気持ちになる。


「おはよ、今日早めに行かない?」


 広瀬くんとはほぼ毎日同じ時間を共に過ごしていた。予備校の行きも帰りも同じ、勉強の邪魔になることもないし、隣にいて居心地が良かったから。


「おっけー、じゃあホームルーム終わったらすぐ行こう!」


 一人じゃないってことで、寂しさを感じることはなくなっていた。

 先生のことはたまに思い出すけど、もうこれからは逢わずに済みそう。配られたプリントを見ると、理科の教師の欄には別の先生の名前が書かれていたから。


 だんだんと、風化して行くように先生の存在が薄くなり始めていた――



「唯? おーい! 置いてくよー?」


 ぼんやりしていたら、ホームルームは終わっていて広瀬くんを追いかけて走り出した。


 もう、振り返らない……


「じゃあさ、次のテスト何賭ける?」


 屈託無い笑顔を向けて、広瀬くんが振り返る。こんな2人の時間は癒されるな。

 特に良いムードになることもなく、勉強が厳かになることもなく、毎日が安定しているような気がした。


「じゃあさ、次のテストで勝ったら……映画おごって!」

「なにそれ、観たい映画あるの? わかった、じゃあ映画ね!」

「やったー! 絶対勝つから覚悟しといて」


 すごいな、さすが優等生、私みたいな劣等生にプレッシャーを与えずに勉強させる魂胆かな?


 そんな風に、高校最後の春が始まった――



 

 暖かい風が気持ちの良い午後、徹夜で勉強した疲れのせいで眠気が襲ってきた。ぼんやりと、夢を見ているみたい。「唯……」優しい声がする。先生……? 遠くから呼ぶ声がだんだんと近づいてきた気がした。


「おーい! 寝てんの?」

 顔を上げると蒼が不思議そうな顔をしていた。

「あっ。蒼か」

「わりぃ、国語の教科書貸してくれる?」

 教科書を渡すと、ありがと! って言って一目散に走り去って行った。あれは夢だったのかな。初めのは確かに先生の声な気がした……幻聴が聞こえるなんて、疲れてるのかな。


 授業が終わるチャイムが鳴ると、また私を呼ぶ声が聞こえた。

「おーい唯、助かった、ありがと!」

「ってか、ちゃんと勉強してんの? 蒼はどこ受けるとか決まった?」

「いや、俺はいいの、専門行くから。面接だけなんだよねっ」

「なにそれ!! ずるい!!!」

「じゃあ、またよろしく頼むよ~」

 そう言って、ヒラヒラと手を振りながら帰って行った。


「なにあいつー、見た? 勉強する気のないやつに教科書なんて貸したくないわっ!」

 広瀬くんに話しかけると、笑いながら振り返って

「仲良いねー、幼馴染なんだっけ? あんまり仲よさそうだから、嫉妬しちゃうなー」 

 そんな風に言われた。広瀬くんらしくない言い方。ワザとそんな事を言ったのかな……

「いや、そんなんじゃないよただの腐れ縁だって」

「……それなら良いけど」


 広瀬くんは、照れるわけでもなく真っ直ぐに私へ向かって微笑んでいた。だんだんと、私達の距離も近づいているのかな。私もまんざらでも無くて、またそういうものにうつつを抜かして悪い点数を取ってしまわないか少しだけ不安になっていた。


 次の日、数学の授業がある少し前に、教科書を忘れたことに気がづいた。ヤバい、うっかりしてた。昨日勉強して、机の上に置いたままだった! チャイムが鳴る5分前に気付いて、蒼に借りに行こうと席を立つと、突然広瀬くんに話しかけられた。


「どこ行くの?」

「教科書忘れちゃってさー蒼に借りてこようと思って……」


 時間がなくて焦っていると、次の瞬間、パッと腕を掴まれた。


「なに?」

「僕の見せてあげるから、借りに行かなくていいよ」

 少し強引な素振りが意外すぎて本気で動揺してしまった。

「はい、座って、もうチャイム鳴るよ」

 いつもみたいに優しく言うけど、いつもみたいな広瀬くんではなくて、意識してしまう。広瀬くんは顔色一つ変えずに机をくっつけて、真ん中に教科書を置いた。 

 さっき掴まれた腕がじんわりと熱くて、無意識に反対側の手でずっと掴んでいた……


 いつだったかな……


 先生と始めて手を繋いだ日。細い割に温かい手で、その体温にドキドキしていた。

 広瀬くんの手は意外と男っぽくて、ぜんぜん違くて……気づけば比べようとして、また無意識に思い出してしまう。


 ふと、窓の外に目を向けると、隣の校舎の同じ3階のフロアに、先生が歩いている後ろ姿が見えた。白衣が目立つから、すぐに分かってしまう。


 どうしても目が離せなくて、悔しい。

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