第17話 溺れていく夕暮れ

 キス……しちゃった……


 音も無く、触れるだけのキスだけど、先生の唇は驚くほど柔らかくて心地良くて、包み込まれている感覚だった。

 すぐに唇が離れたから、思わずもう一度――次は私から先生の唇の上に被せた。2度目のキスは更に柔らかくてあったかくて、そして甘かった。

 すっかり日は落ちて、部屋がだんだんと薄暗くなっていく。顔を上げると、キラリと光る先生の目が私を見て、そしてフッと笑った気がした。


 言葉は無くて……それでも良くて……、気付くと見つめ合ったまま、指先が絡み合っていて、私はこのまま流れに身を任せてしまいたかった。だけど先生はそれ以上先に進もうとはしなくて身体を起こした。

「じゃあ、準備しよっか」

 小さめのトーンでそう言うと絡み合った手をほどいた。


 ソファから立ち上がる背中を目で追うと、部屋の電気をつけてキッチンへ入って行った。私はまだ夢と現実の間にいるみたいに、その先生の切り返しに反応できなくて、急に明るくなった部屋の真ん中で突如に恥ずかしさでいっぱいになった。

 ステーキを焼いている先生をぼんやりと見つめながら、数分前の事を思い出すとこんなにも照れくさいのに、先生はなんで普通で居られるのだろう。


「テレビ、見ててもいいよ」

 そう声を掛けられて、黙ってリモコンのボタンを押した。騒がしいクリスマス番組のせいで一気に部屋の中がどよめいた。


 先生、普通の顔してる。大人ってズルいな……


 私のことをどう思っているのかな……まだ先生の気持ちに自信が持てなくて、はっきりと聞くことをためらってしまう。テレビを見ているふりをして、先生の動きを感じた。


「そうだ、こんなのあるけど飲む?」

 再び声が聞こえてキッチンの方を振り向くと、冷蔵庫からシャンパンの様なノンアルコールのジュースを見せた。

「うん、飲む」

 一言返すのが精一杯で、ぎこちない自分が恥ずかしい。こういう時ってどうしたらいいのだろう。

「そ、そうだ、ポテラサ作ったんだった」

 自分を客観視すればするほど明らかに動揺が浮き彫りになる。

「おっ、ちゃんと美味しくできた?」

 テーブルにお皿を並べながら、先生が笑いながら普通通りに振舞って、少しずつだけど雰囲気が戻っていった。


「「カンパーイ」」


 ポーンと勢いよく蓋が飛んで、一気にクリスマスの気分になった。シャンパングラスにジュースを注いで、本物のシャンパンが入っているみたい。

「先生はお酒飲んでもいいのに」

「いや、俺別に飲まなくても平気なんだよね」

 私に合わせてくれているのかな?「んー美味い!」って言いながら、ジュースを飲んでいる姿はとっても可愛かった。先生が焼いてくれたステーキと、私が作ったポテサラが隣に並んでいて嬉しくなる。テスト前の予定を聞いた日から想像もつかないくらい最高の1日になっていった。


「「美味しいね」」

 

 思わず声が重なって、クスッと笑った先生と目が合う。なんだろう、本当に幸せだな。スープと付け合わせは買ってきたものだったけど、豪華なご馳走に彩られて本当に最高のクリスマスになった。

「帰りたくないな……」

 思わずポロリと口から本音が漏れる。

「ダメだよ、そんなこと言ったら……」

 優しい眼差しで諭すように言うけど、先生も本当は同じ気持ちなんじゃないかなって感じた。

「冗談だよ……楽しすぎて帰りたくないだけ」

「そっか……」


 帰らなくていいなら、帰らない。でも、それがもし公になってしまったら、私と先生はもう二度と逢えないかもしれない。そんなこと、子供の私にだって分かるよ。

「先生、好きだよ……ありがとう」

「うん」


 先生はそれ以上何も言わなかったけど、立場上言えないのかな……そんな事を悟ってしつこく聞くのはやめた。先生の気持ちが知りたかったけど、言わなくても分かった気がしたから……


「美味しかったね、お腹いっぱい」

「よく食べたねー」

 

 今は、これより先には進めないけどそれでもいいから先生の側にいたい。誰よりも先生の近くにいたい。


「私、紅茶淹れるね!」

「もうちょっとしたら、ケーキ切ろうか」

「うん! 楽しみ!」


 来た時から、冷蔵庫の奥にケーキの箱がある事には気付いていた。シャンパン風のジュースも用意しておいてくれたし先生も楽しみにしてくれていたんだなって感じる。そろそろ帰る? って、いつ言われてしまうんだろうと気にしながら先生が時計を見てしまわないように、話し続けた。

「そろそろケーキ食べよっか?」

 1時間くらい経った頃、ケーキの箱を開けた。中には可愛らしい小さなサイズのホールケーキが入っていて、でも2人で食べるには大きいくらいだった。

「可愛い~、先生が選んだの?」

「それ以外ないでしょ」


 想像したら、そんな先生が可愛くて微笑ましくなる。サンタさんとトナカイが真ん中にちょこんと付いていて、いかにもカップルが2人で食べるやつだよね。そう思うと嬉しくて顔がニヤついてしまった。

「こら、笑うな~」

 頭をポンって優しく触れられると嬉しくて胸が苦しくなる。

「2人で食べ切れるかね?」

 これを食べたらもうすぐ帰らなきゃいけないのかな……そんな雰囲気で、そう思うとゆっくりと1口も残さずに食べてしまいたかった。


 頑張って全部食べると、冗談じゃなくお腹がパンパンにはちきれそうになった。

「じゃ、そろそろ帰るか」

 時計を見ると20時を過ぎていて、あっという間に先生との時間が終わろうとしていた。

「うん、分かった」


 車の助手席に乗ると、最後までデート気分を楽しみたくて窓の外のイルミネーションを眺めながら先生に話しかけた。

「お正月は実家とか帰るの?」

 密かに初詣に一緒に行きたいなって企んでいたから。

「いや、2日に親戚が集まるから、その時帰るだけだよ」

「そっか……」

「なに? 何かあるの?」

「いや、初詣、一緒に行けたらなって思って……」

少し間が空くと

「じゃあ、考えとく」

 そう言ってくれた。次の約束が欲しかったから嬉しくて、また逢えると思うと胸が高鳴った。

「家まで送ってあげられなくてごめんね」

「ううん、私もその方がいいから」

 もし誰かに見つかって逢えなくなる方が嫌だよ。

「じゃ、気をつけてね」

「うん、先生もね」

 ちょっとだけでも、抱きしめて欲しかったけどやっぱり言えなかった。


 気付けば私の中の欲望はどんどんエスカレートしていて、今はかろうじてブレーキをかけている感じ。横浜から電車に乗り換えて家に着くまでの30分、イチャつくカップルなんて目に入らないくらいあのキスの余韻にドキドキしていた。それから、テレビの横にあった小さなツリーを思い出して、自然と顔がほころんだ。

 こうやって、後から思い出すと私への思いやりでいっぱいだった。だけど、何も返せてなくて、もどかしいような、切ないような気持ちになってしまった。


 もし、私が大人だったらキスの後も、何のためらいもなく進めたのにね。先生、ごめんね。


 湯船に浸かりながらまた思い出す。先生の唇の感触と、指先から伝わる体温、そして切ない眼差しが、現実じゃないみたいに。私を深く沈めて行くみたいだった。


 好きって何回言っても足りないくらい、本当に大好きだよ――

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