第12話 恋人ごっこ
ドアを開けると、綺麗な玄関のタイルの上には靴がひとつもなくて家の中が綺麗なことは瞬時に想像がついた。
「入ってー」
「お邪魔しまーす」
玄関からまっすぐに伸びた白いフローリングの床がリビングまで繋がり、リビングを入ると4人掛け程のダイニングテーブルが見える。ごちゃごちゃとした余計なものが一切なく男性っぽい部屋で、テレビの前のソファが先生の定位置なんだろうなと容易に想像ができた。
「へぇ、こんな感じなんだ! 意外!」
部屋を隅々まで見回しているといつの間にか緊張もほぐれていた。
「なんだよそれー、学校関係の物は向こうの作業部屋だからあっちは結構散らかってるよ、まぁそこは見せられないけどね」
そう話しながらキッチンへ入って行った。
「せんせー、何作ってくれるの?」
「簡単なものしか出来ないけど、適当に座って待ってて」
先生はキッチンへ入ると、あらかじめ作る物を考えてくれていたみたいに無駄が無くテキパキとした動作と余裕のある表情であっという間に昼食を作り終えた。そんな先生を見ていると、私もそろそろお母さんに教えて貰わないとな、と考えさせられてしまう。いつか私も先生に作ってあげられたらな……。
「ほいっ、できたよ」
テーブルに並んだのはミートソースのパスタとサラダだった。色鮮やかなメニューが食卓に並ぶと気分まで上がるのが分かった。
「わぁーー美味しそうーー!」
「「いただきまーす」」
2人で手を合わせてから食べた。目の前には美味しいお料理と好きな人の笑顔、これ以上に幸せなことって他にあるのかな。今誰かに見られたら、恋人同士なんじゃないかって勘違いされてしまうに決まってる、そんな完璧なシチュエーションだった。
パスタもサラダも美味しくて、すぐに完食してしまった。
「ふぅ、お腹いっぱい!」
「じゃあ、映画見よっか」
ソファに移動すると、コーヒーを入れたマグマカップを小さなサイドテーブルに置いてくれた。
先生がチョイスした映画は、主人公が車に乗ってタイムスリップすると言う、昔から人気のあるアメリカのSF映画だった。こんなにもストーリーの初めから引き込まれていくような映画はあまりなかった気がする。ソファに移動して映画が始まってから少しまた緊張していたけど、思っていたよりも映画が面白くて会話もせずに画面に見入ってしまった。
どれくらい経っただろう。スースーと規則正しい音が耳に入ってきた。
あれ? もしかして、先生寝てる?
そっと隣を見ると、無防備な顔をしてスヤスヤと眠っているみたいだった。座っている体勢からいつの間にか横に倒れていて……その先に、可愛い寝顔があった。
こんな無防備な顔、初めて見たな……
側にあった膝掛けを肩から掛けてあげると、気持ちよさそうに横になって私の太もも辺りに先生の足先が触れた。
動かない先生の足が触れているだけでくすぐったいような気恥ずかしいような、私だけがハラハラしていた。二人掛け用のそのソファは、精一杯端に動いてみても接触を避けることはできなかった。
触れ合っている場所だけが暖かくなってくると、意識がそちらに移ってしまう。さっきまで夢中だった映画も、もう字幕を追う気にはなれなくてあと少しだけこのままでいようと思った。
先生、実は起きてるってことはないよね?
ちゃんとに寝ていることを確認すると、ここぞとばかりにその綺麗な顔をまじまじと見てしまった。
長いまつげ、その先に高い鼻がスッと伸びる。ゆるく閉じたままの唇と透けてしまいそうな白い肌。
トクン……トクン……
自分の鼓動の音しか聞こえなくて、この世界に私たち2人しかいないような感覚になる。本当にそうなったらいいのに……少しの間先生の寝顔を眺めていたけど、思いの外ぐっすりと眠っているようで全く動くことはなかった。
ようやく映画が終わった。
真っ暗な画面になってテレビからの発光が無くなると、秋の夕暮れの如く今にも日の沈みそうな空がこの部屋にまで影を作っていった。
もうそろそろ起こさなくちゃな……
ひざ掛けからはみ出る先生の手の甲を軽くトントンってしてみるけど、先生の華奢で綺麗な手は何の反応もなかった。
「……先生?」
ソファから降りて床に座る。それから先生の手に自分の手を重ねたまま揺らしたりして、表情が変わるのを待った。起きてほしいのか、ほしくないのか、それくらい小さくまたトントンってしてみた。
「……」
先生の目がゆっくり開くと、その瞬間、触れていた手の甲が裏返って
私の手を包み込んだ――
「ごめ…寝ちゃってた」
「う、うん」
「もう見終わっちゃった?」
繋いだ手をそのままにして先生は普通に会話を続ける。
トクン……トクン……
寝起きの先生の手は暖かくて、体温がじんわりと私に移ってくるのを感じた。ソファの下に座っている体制から見上げると、伏し目がちに見下ろした先生と目が合った。
「ふっ、どうした?」
こんな時に突然笑顔になるから、どんな顔をしていいのか分からなくて、大人の余裕みたいなものを初めて目の当たりにした。こんな私には到底太刀打ちできないなって思い知った時間だった。
勝手に振り回されているみたい。
「コーヒー冷めちゃったね、また入れよっか」
そう言って、繋いだ手を呆気なく離すとキッチンへ行ってしまった。
トクン……トクン……
胸が高鳴って仕方がない。私を子供だと思ってからかっているのかな。先生の策略にはまったように、どんどん溺れていくのが分かった。
「はい、これ飲んだら帰ろっか」
そうやって先生は、私の欲しい言葉とは正反対の言葉をくれた。私がまだ帰りたくないって、分かっているはずなのに。
「もう少しだけ居てもいい?」
先生の言う通りにすんなり帰りたくなくて我儘で食い下がる。
「親御さんは? 遅くなると心配するよ?」
眉毛を少し下げて、またいつもの先生の顔に戻っていた。
「大丈夫だよ……心配なんてしないよ」
お母さんは忙しいし、お父さんは家に帰って来ないもん。
「ん? どした?」
また、困った顔をさせてしまった。少し我儘をぶつけてみたけれど、この場の空気も先生への気持ちも、重いと思われるのが怖くなってやっぱり諦めて帰ることにした。
「あ、うそうそ、何でもないよ」
このコーヒーを飲んだら帰ろう。だけど、ゆっくりゆっくり飲もうかな。
「じゃあ、これ飲んだら帰りまーす」
今日は、先生の恋人になった気分で嬉しかったし楽しかったからそれでいい。もう次はいつこんな風に過ごせるのか分からないけど、あと数分で終わるこの時間をただ、ほんの少しだけチビチビと引き延ばそうとしている自分がいた。ほんと、往生際が悪いな。
「なんか、急かしちゃったみたいでごめんね」
「ううん、大丈夫」
急に言葉が続かなくなって、ちょっとだけ気まずい雰囲気になってしまったけど、それでもまだもう少しだけ側に居たい……。
先生のこと、あのままずっと起こさなければ良かったな、なんて今更そんなことを思って笑った。
「あーあ、また満点取る自信ないなー」
「うん」
「先生、パスタ凄い美味しかったよ。ご馳走様でした」
「うん」
なんでだろう、涙が溢れてきそうになるから必死に笑おうとした。
「……じゃあ、もうちょっと居る?」
顔を上げると、まだ困った顔をしていて……さすがに先生も可哀想に思ったのかな。
「うん、もうちょっとだけ」
もうちょっとがどれくらいかなんて分からないけど、先生のタイミングでも良いから帰る時間を延ばしたかった。
「じゃあ、夕飯食べたら帰るか」
「夕飯も? いいの?」
延長されたのは想像していたよりも遥かに長い時間で、単純な私は一気にテンションが上がった。
「テスト、頑張ったもんな! それくらいしないとね」
そう言って微笑むと、いつもみたいに頭をポンポンとされた。
それから、夕飯に肉じゃがと焼き魚の和食を作ってくれて一緒に食べた。
「すごーい! お母さんのより美味しい!」
「それ褒めすぎだから」
もぐもぐしながら笑っている先生、やっぱり食べている時の先生が好きだな。
「先生、可愛いね」
「なんだよそれ、大人をからかうなよ」
「からかってるのは、先生の方でしょ」
先生が笑いながら言った言葉になぜか敏感に反応してしまった。精一杯笑顔を作りながら、いざ言葉に出してみたら自分でも驚くほど切なくてギュッと胸が締め付けられて痛い。
「――ごめん、からかってるつもりなんてないよ」
先生は私が言った言葉の意味が分かったんだと思う。だから余計に、その返事を聞いて苦しくなった。
駆け引きなんてできなくて、真っ直ぐにぶつかるか諦めるかしかできない。
私はどっちを選んだら幸せになれるのかな。
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