第11話 覚悟

 放課後、当番だった掃除を手早く終わらせてからカバンを持って理科室へと急ぐ。夕焼け色に染まる渡り廊下で一旦気持ちを落ち着かせながらゆっくりと進んだ。

 ドアのガラス越しに先生の後ろ姿を確認して、そっと開ける。その瞬間コーヒーの良い香りが広がって先生がゆっくりとこちらを振り返った。

「せんせー、お待たせ!」

「……だから、待ってないって」

 先生が嬉しそうに笑ってくれるとそれだけで見える景色が鮮やかに彩られていく。ピタリと先生の前に座った。

「今日は? どうしたの?」

 緊張しているような私の表情を読んでか、分かっているくせにワザとそんな意地悪な問いかけをしてきた。

「も~、デートでしょ!」

 そう言った瞬間、予想だにしないくらい大きな声が出てしまっていたみたいで、先生が慌ててシーっとポーズをとったからなんだか可笑しくて笑ってしまった。


「テスト良く頑張ったな」

 何気なく褒めると、頬杖をついた格好で少しだけ声のトーンをを落としてこう言った。


「それで? 次は何処行きたいの?」


 ようやく、私の聞きたかった言葉が先生の口から発された。

「先生は? 行きたいところ、ある?」

「俺はないよ、何処でもいいよ?」

 コーヒーをすすりながら優しい声でそう言った。今だったら何でも聞き入れてもらえるだろう雰囲気で、しばらく迷ってからひらめいた計画を素直に口に出してみた。


「うーん、じゃあ、映画が見たい!」

「……映画館かー」


「ううん、先生の家で……」


 そう言ってみると、少しだけ先生の目が見開いた気がした。それから「参ったなー」っと言って背もたれに重心をかけながら両手を頭の上に組んだ。

 遠くから時計の秒針の音がかすかに聞こえてくる。やっぱり無理なのかな……先生は良い案を模索しているのか、それとも私が諦めるような口実を探しているのかどちらなのか分からないようなボンヤリとした表情をしていた。


「やっぱダメだよね」

 一気に踏み込みすぎちゃったかな。ちょっとだけ心配になって我に返った。先生は宙を眺めていたような視線を私に向けて表情を変えずにこう言った。

「何処でもいいって、言ったもんな。いいよ……分かった」

 先生からの返事は予想していたものとは反対の言葉だった。そしてそれはもう引き返せないと、私自身覚悟を決めるような意味にも感じた。



 家に帰ってから抜け殻みたいにベッドに仰向けになって考えていた。男の子の部屋……じゃなくて大人の男の人の部屋なんだよね。初めてだし、緊張だってするし……今だって胸騒ぎがして、少しだけ怖さを含んだような単純に嬉しいってだけの感情ではないのも事実だった。

 何かあるわけじゃないけど……絶対何もないはずなんだけど、先生と生徒の関係ではないよね? もう遅いけれどもそんなことに今更気がついてしまった。望んだのは私だし、自分の口で言ったのだけど、先生は一体どういうつもりで受け入れてくれたのかな……。

 家に帰ってからこんなに緊張し出すなんて、ほんと私って小心者なんだな。

 

 それから先生とメールで連絡を取り合うと、2人の予定が合ったのは次の日曜日だった。あと、5日か……。あと5日もこの調子じゃ、心臓が持ちそうにないな……

 満点だった物理の答案を眺めながら、日曜のことを想像してみる。先生はどんな部屋に住んでいるんだろう、お料理とかするのかな? 楽しいことを想像するけどやっぱり緊張している自分に気づいた。こんな感情は初めてだな。人に話せるようなことではないって十分理解しているつもりだった。誰にも言えなくて、誰にも相談できなくて孤独な恋かもしれないけど、この今を先生と一緒に居たいと思った。


 テストが終わってしまうと授業は少し緩やかなムードになり、そのせいもあって頭の中では別のことを考えていた。何かの弾みで「やっぱりやめよう」って撤回されたら嫌だからあれから放課後、先生の所へは行っていなかった。


 金曜日の放課後、最終確認ってやつではないけれど少しだけ話したくて理科室に行ってみることにした。

 ドアをノックすると、先生はニコッとして手を挙げた。

「今日は言わないんだ」

 クスッと目を細めて笑う笑顔がいつも通りでホッとした。

「日曜日、すごく楽しみ! 先生はいつも家綺麗にしてるの?」

 何気なく日曜日の話題をふってみると

「あー、汚いかも、じゃあうちはやめる?」

 そんなことを言うもんだから、ショックで一瞬固まってしまった。

「うそうそーーそんな顔すんなよーー」

 そう言うと、「ごめんごめん」って優しく頭に触れられた感触があった。いつもだけど、突然触れられると予想以上にドキッとしてしまう。その瞬間、大人の男の人特有の香りみたいなものがふわっとして、抱きしめられてみたいなってそんな事を考えてしまった……

 ダメだよね。どんどん求めてる。トクントクンと早くなる鼓動に気付かないふりをして、平静を装うので精一杯だった。


 日曜日はあまり眠れなかったせいか、いつもより早く目が覚めてしまった。カーテンから覗くのは予報通りの青空で嬉しくて急に気分が上向きになる。

「いってきまーす!」

 また精一杯大人っぽい格好をして駅へと急いだ。待ち合わせはまた、横浜駅の西口でまだ10分も早いのに到着するとすぐに先生の車を見つけた。ノックをしてから前回と同じように後ろのドアから後部座席へ乗り込んだ。

「おはよ、早かったね」

 少し眠そうな先生の顔。

「おはよう、お休みの日なのにごめんね」

 そう言うと、大人みたいなこと言うねって笑った。子供扱いしないで欲しいけどやっぱり先生からしたら子供なんだよね。こういう時、些細なことだけどちょっとだけ切なくなる。

 車を走らせてから全く知らない場所で高速を降りると、年季の入ったレンタルビデオ店に入った。

「ここ来たことあるの?」

「うん、昔この辺に住んでたからね。何がいいかな? 見たいのあるの?」

 先生は場所を把握しているようですんなり映画コーナーへ行くと、いろいろと探し始めた。質問されてから改めて考えると私には初めから見たい映画なんてないんだった。ただ先生の家に行くための口実だったとは言えないから映画の選定は先生に任せることにした。


 映画を1本借りると近くのスーパーへ移動して買い物をした。私には降りたこともない駅だったけど、土地勘のある先生の運転はスムーズでただ助手席で外の景色を眺めているだけで別世界へ連れて行ってくれるような魔法のように、ふわふわとした夢を見ているみたいだった。

 スーパーでは恋人たちがするデートのような気分になった。先生が押してくれるカートに言われた食材をよく吟味して入れる。ランチは何を作ってくれるのかな? なんだか映画を見るまでにこれだけでも嬉しくて、覚めない夢であればいいのになって本気で思った。


 窓の外を見ていると、だんだんと見慣れた景色になってきて、もうすぐ先生の家に到着するような気がした。道路沿いの銀杏並木が黄金色に染まって視界が突然眩しくなる。

「先生、もうすぐ着く?」

「うん、そこ曲がったらすぐだよ」

 そう言われて慌ててマスクを着けた。先生に頼まれた訳じゃないけど、見つかったら面倒くさいことになるって分かるから。大きなマンションの地下へ入ると駐車場に車を停めた。

「着いたよ」

 そう言って振り返ると、マスクをつけた私を見てクスッと笑った。

「用意周到だね」

「だって、バレたら面倒じゃん」

「うん、偉いね」


 車を降りると、スーパーの袋を持ってエレベーターを待った。待つ間、誰かに会ってしまわないかそれだけに神経をすり減らして、やっと来たエレベーターが開くと中には誰も居なくてホッとした。それから狭い空間で2人きりになって再びドキドキした。今日はいつもより心臓使いすぎてるかもな、そんなどうでも良いことを考えながら、早く着いてほしくて点灯していく数字だけを見つめた。

「どした? 緊張してる?」

「ううん、全然緊張なんかしてないよ」

 心配してくれた先生にとっさに平気なふりをして、背伸びをした子供っぽさを自分でも感じてしまった。


 マンションの10階、最上階へ着くとエレベーターホールから見下ろす景色がとても綺麗で驚いた。

「先生、こんなとこ住んでるんだ――」

 そう言った途端、シーって驚いた顔をして振り返った。

「ごめんなさい」

 気を付けていたつもりなのに、景色が綺麗で開放的になっていたのかな、先生って呼んでしまった。

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