第9話 返事

 休み明けの月曜の放課後、久しぶりに先生に逢えるから嬉しくて、お土産を持って理科室へ行った。入る前にガラス扉から覗くと、プリントの山に囲まれて、先生は作業中の様だった。


「せんせー、お土産持ってきたよー」

「あ、また来たの?」

 いつもより少しだけ素っ気ない感じがした。

「はい、これ」

「ありがとう。悪いけどそこに置いといてくれる?」

 先生は表情をひとつ変えず、私の横にある机を指さした。このチョコレート、先生が入れてくれたコーヒーで一緒に食べたかったのにな。そう思いながら、言われたとおりに机の上に置いた。

「先生、今日忙しそうだね」

「うん。今日は話聞けなくてごめん」

 もう帰れってことなのかな、会話も続かないし側に行くこともできなかった。私が想像していた展開と違っていたから、急に切なくなって涙が出そうになる。先生だって忙しくて手が離せないだけかもしれなのに。こんな些細なやり取りに、ものすごく切なくなってしまった。


「そう言えば、夜抜け出したって聞いたよ……。あんまり羽目外すなよ」

 ポソリと先生の口から出た言葉が、さらに胸を締め付けた。

 やっぱり、先生の耳にも入っちゃうのか……。

「羽目外した訳じゃないよ」

 もっとたくさん言い訳したかったのに、冷たい空気感に耐えられなくて、それだけ言い返してドアを閉めるのが精一杯だった。悪いことをしたわけじゃないのに、先生は私のこと完全に勘違いしてるよね。私が好きなのは先生だけなのに、言葉にできなくて辛い。

 こんなちょっとのことで泣きたくなかったのに、切なくて、涙が止まらなくて、ギュッと握りつぶされるような胸の痛みが長く長く続いた。


 やっぱり先生に恋すること自体、ダメだったのかな。なんで先生なんか好きになっちゃったんだろう……。別の恋愛に逃げたい。こんな些細なことで傷ついてしまう自分が嫌だった。


 広瀬くんは、忘れさせてくれるかな……。


 気づくと広瀬くんの顔が浮かんで、そんな自分勝手な思いがグルグルと巡ってくる。ほんと、今の自分が嫌い。打算的な自分の考えには、ほとほと嫌気がさした。


 次の日、理科室で科学の授業があった。正直、理科室には行きたくなかったのに、先生はやっぱり出欠を取る時もこっちを見なかった。

 今日は、ナトリウムの性質を調べる実験で、一人一人に試験管が配られると、後からナトリウムの入った瓶が回ってきた。ちょっと怖いけど、ナトリウムを入れて試験管の先をアルコールランプの青白い火に近づける。


 すると、パチパチと花火のような音がして眺めていると、その直後、ボワッと右手全体に圧がかかったような気がした。


――パリーーーンッ!!! 

 目の前で大きな音を立てて試験管が破裂した。

 

 幸い自分のノートの上だけにガラスの破片が落ちて、他の子は無事な様だった。

 目の前の一瞬のアクシデントに驚いて動けないでいると「どうしたっ!」慌てた先生が駆け寄ってきた。そして、すぐに私の手を取ると、勢いよく蛇口をひねって、噴き出した水に先生の手ごと一緒に突っ込んだ。

 徐々に、指先の感覚が和らいでいくのを感じた。試験官が割れた衝撃で、痛みなんて感じていなかったのに、確かにチクチクした小さな痛みがやっと分かった。

「先生、ごめんなさい……」

 何がいけなかったのか、まだ理解できていなかったけど、先生のこんなに心配した顔は初めて見たから、驚かせちゃったかなと思って咄嗟に謝った。

「試験管の底、下向けないとダメだって言ったろ」

 小声で先生が言う。そっか、ぼんやりしてたんだな、私。

「指に少し薬品が付いちゃってるから、念のため保健室行こう」

 薬品が付いてしまった右手をタオルに包んでくれて、私と先生は保健室へ向かった。それから廊下へ出ると、先生が心配そうに声を掛けてくれた。

「大丈夫? 痛くない?」

「うん、平気、ちょっとヒリヒリするけど」

「そっか、ほんと、顔とかじゃなくて良かったよ」

 心配させちゃって、ごめんね。

「ふふっ、もし顔だったら、先生責任取ってくれるの?」

 そう冗談で言ってみたら

「なんだよ、ちゃんと聞いてなかった奴が」

 呆れた顔をして、そしていつもみたいに笑ってくれた。保健室に着いてもまだ隣に居てくれて、先生が手当てをしてくれた。保健室の先生が「やだ、至れり尽くせりね」って言いながら私たちの事を眺めていたから、余計に恥ずかしくなってしまった。

 ほんの少し触れ合った指先が気恥ずかしくて、鼓動が速くなる。先生は私の指しか見ていないけど、先生の顔が近くて、こういう時どんな顔をしていたらいいのか分からなくて、されるがままの指先を見つめていた。

「これで大丈夫かな」

 最後に絆創膏を貼ってくれて、手当ては終わった。

「ありがと、先生」

 それから、保健室を出てまた理科室へと歩き出した。

「先生、心配かけちゃってごめんね、ありがとう」

 もう一度、ちゃんとにお礼を言った。

「次からは気をつけて」そう素っ気なく返すけど、先生の優しさが伝わってきて、また好きが増していた。やっぱり、先生が好きだな。先生だけが好きだってことを今日、思い知ったよ。

 だから、好きな人がいるのに、こんな気持ちで広瀬くんとは付き合えないって、改めて思った。

 せっかく伝えてくれた気持ちを断ってしまったら、気まずくなってしまうかもしれない。だけど、私には良い返事もできない。それなら、早く伝えなきゃいけないと思った。


 ホームルームが終わった後、広瀬くんに声をかけた。

「この前の返事したくて、掃除終わった後、図書室の前で待ってるね」

 ドキドキしながら待っている間、広瀬くんの表情を想像したら、悲しくなってしまった。でも、今のままで付き合ったら、誰も幸せにはなれないよね。そう、自分に言い聞かせていた。

「ごめん、待った?」

 考えすぎていたせいか、人の気配に気づかなくて、突然現れた広瀬くんにすごく驚いてしまって、一瞬で考えていた言葉が飛んだ。


「急にごめんね、えっと……」

 慌てて口ごもる私を真っすぐ見て、広瀬くんは言った。

「この前の返事なんでしょ? それで?」


「…ごめんなさい。今、好きな人がいて……。だから、広瀬くんとは付き合えなくて。本当にごめんなさい。」

 目を合わせられなくて、頭を下げると広瀬くんがフッと笑った気がした。

「やっぱりダメかー、分かった。ありがとう」

 顔を上げると、いつもの広瀬くんの笑顔があった。

「気まずくなるのも嫌だから、今まで通り友達としてよろしくね」

 そんな風に言ってくれたから、少し気持ちが軽くなって、広瀬くんの優しさに気付いてちょっぴり涙腺が緩んでしまった。

「ありがとう」

「え、おい、泣くなってー」

 広瀬くんの優しさが心に沁みた。

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