第3話 補習授業

 瞬く間に夏休みに突入した。

 部活などにも所属していないと本当に予定がない。特にすることもなかったから、中学の頃の友人を誘ってプールに行ったり、思うままに過ごしていた。

 夏休みが始まって2週目、ようやく補習が始まった。教室へ行くと、すでに5人が席に着いていて、どうやら私を入れて6人しかいない様だった。


 私が着席して間もなくドアが開くと、爽やかな風と共に先生が現れた。

「はい、じゃあ始めるよ」

 補習の最終日のテストでは、絶対に1番にならなきゃな。そう思って、本気で取り組もうと心に決めた。

「まず初めに、今の学力を知りたいので、今から配る問題を解いてみてください」そう言って配られたプリント……ってテストじゃん!

 そして、見事に6人中、最下位になってしまった。

 補習1日目の授業が終わると、「最下位の人は残って手伝って」と言われて、みんなが帰った後、おのずと先生と二人きりになった。

 さっきよりももっと緊張して居心地が悪いくらい。帰りたくないけど、帰りたい。よくわからない気持ちで授業の時に座っていた席で先生からの指示を待った。教員室に行ってしまった先生。何を手伝うんだろう……そう思いながら窓の外を覗くと、真下にある中庭を運動部の子たちが連なって走っているのが見えた。なんか、別世界だな。


 すぐに先生が戻ってくると、緊張しているから、たわいもない世間話ですら思いつかなくて、中3の合唱コンクールでピアノを弾いた時よりもはるかに心臓がバクバクしていた。

「どうした? なんか、疲れちゃった?」

 ふいに先生から言葉が発された。

「い…いぇ…」

 咄嗟に声を出したから、不覚にも声がうわずってしまって、とても恥ずかしかった。

 私の変な声で、先生が思わずお腹を抱えて笑った。こんなに大笑いするんだってくらいに。

「すみません……」

「大丈夫だよ、笑っちゃってごめん」

 そう言いながらまだ笑っていて、今まで生きてきた中で、一番恥ずかしい出来事だったのかもしれない。それでも、近くで笑っている先生を見ると、胸がキュンとして不思議な感覚だった。

「もっと気軽でいいよ、俺になんて緊張することないよ」

 笑いながらそう言って、ポンポンって頭に触れる。先生の心が急に近く感じて、今の一瞬の仕草が私の頭では追いつかなかった。

「じゃあ、このプリント1枚づつ取って、ホチキスで留めてもらおうかな? それ終わったら補習の続きね」

 先生は見本を見せるように、テキパキと進めながら、何事もなかったかのようにそう言った。触れられた頭にまだ暖かい感触が残っていて、ぼーっとしてしまう。ちょっと恥ずかしくて先生の顔をしばらく見れなかった。


 その日を境に、先生との距離が少しづつ、着実に縮まっていった。

 そして、補習2日目からは、緊張しないで話せるようになっていた。


「先生、またここが分からなくなっちゃって、教えてくださーい」

「え、それ何回目だよ、ちゃんと聞いてんの?」

 先生は、慣れてくると諭すでもなく、思った言葉をそのまま返してくれるようになった。ちょっと素っ気ない感じだけど、距離が近いような特別感があってそれが嬉しかった。


 何日経った頃だろう、補習が終わると、理科室へ移動して一緒にお昼ご飯を食べながら話をするようになった。毎回、補習の後に質問をしていたら、丁度良くお昼ご飯の時間になってしまい、ここで食べようという流れだった。我ながら感心する。薬品の微かな匂いには、もう慣れてしまった。

 もちろん、勉強もした。だけど、先生とくだらない話をしていると楽しくて、時間が経つのがすごく早かった。

「もう、そろそろ帰らないとね」

「はーい、じゃあまた明日」

 夏休みがこのまま永遠に終わらなければいいのに。そんなことを考えながら、駅までの下り坂を一人で歩いた。

 

 家に帰ると、誰も居なくて、テーブルの上には冷たい夕飯が並んでいた。うちの両親は共働きで、家で会話をする時間も少ないから、先生みたいな大人と話すことが楽しかったんだと思う。

「あーあ、明日委員会だぁーー」

 テレビのリモコンをパチパチ押しながら、憂鬱な気持ちを忘れようとしていた。


 アスファルトが焼け焦げそうな8月、今日は完全に猛暑日だった。うだるような暑さの中、学校へ着くと、冷たい水で顔を洗ってから教室へ入った。

「補習も今日を入れてあと2日だから、ちゃんと最後のテストまで頑張って来るんだぞ」

 夏休みはまだ少し残っているのに、補習はもう終わりなのか……。そう思うとちょっぴり寂しくなった。

 今日もたっぷり居残りしたかったのに、午後は委員会の集まりがあるから、長居はできなくて、先生とお昼ご飯だけ一緒に食べた。

「暑いのによく頑張ってて、偉いね」

 不意打ちで褒められて、顔がゆるんだ。

「いえ、赤点取ったのが悪いんだし、覚えが悪くて…すみません」

「ちょっとでも物理とか、興味持って貰えたら嬉しいんだけどなー」

 先生は大人なのに、ご飯を口いっぱいに頬張りながら優しい笑顔でそう言った。

「今日これから委員会があるんですけど、ちょっと苦手な男子がいて、憂鬱だな」

 まだ先生と一緒に居たい。……とは言えなくて、ちょっとだけ、委員会の愚痴をこぼす。

「なに? そんな子いるの? なんで苦手なの?」

 だけど思いの外、先生はその話に興味をもってくれて、親身に聞いてくれた。

「うーん、なんて言うか、私に対して冷たいというか小馬鹿にしてるって言うか、言い方とかも……なんていうか……」

「ふーん、きっと唯のこと、気になってるんだね、その子」

 そんなの、あり得ないよ……


 その前に、下の名前で呼び捨てにされたことに驚いて、先生の目を見れなくなってしまった。


 遠くでかすかにチャイムが鳴って、だんだんと自分の耳の中まで響いた。

「もう行かなきゃ……」

 慌てて荷物をまとめて席を立つとき、ちらっと先生の顔を見ると

「いってらっしゃーい」

 そう言って、ひらひらと手を振っていた。



「久しぶり」

 図書室へ入る手前で、後ろから馴染みのある声が聞こえた。振り返ると少し日に焼けた広瀬くんだった。

「あぁ、久しぶり、早いね」

「そっちも、補習だっけ?」

 今日はなんだか普通に話せる。そう思った矢先、少し前に先生に言われた言葉を思い出してしまった。いや、ないない……。

 それから、図書委員全員が図書室へ集合すると、大きな書店に移動して、クラスで1冊の本を選んで購入した。

 私と広瀬くんは……というと。あまり好みのジャンルが合わないので、広瀬くんのオススメの本を買うことにした。意外にもミステリー小説で、読んだことのないジャンルだった。

「これ、1番に読んでみてよ、絶対面白いから。」

 そう言われて、本を手渡された。そんな自信があるくらい面白いのかな。

「そんなに面白いの? じゃあ面白くなかったら文句言うからね。」

 そう言うと、「いいよ」って言ってニコニコ笑っていた。いつもの広瀬くんと違って今日はフレンドリーな感じ。ちょっと調子狂うけど、今日の広瀬くんは話しやすくて嬉しかった。

 そして、また図書室へ帰ると、本の見出しやオススメポイントの文を考えて、棚に貼るポップを作成した。文を考えるのは広瀬くんにお任せして、私はせっせと文字を書き色画用紙を切った。黙々と作業に集中していたら、だんだんと手元が暗くなって、気づけばもう夕方になっていた。

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