第2話 横顔

「ねえ、さっきから聞いてる?」

 背後から突然肩に触れられた。

「え? 何?」

 振り返ると呆れた顔をした広瀬くんが立っていた。

「何じゃないよ、もう時間なんだけど。今日の放課後、委員会あるって言ったよね?」

 ぼんやりしていて、すっかり忘れていた。

「ごめーん、待って待ってー」

「ほんと抜けてるよね、一人で行ったら、こっちが恥かくんですけど」

 突然の辛口に少し面食らってしまったけれど、でも、この人は心を許してくれてるからこんな態度なのかなって、そう思うと少し嬉しかった。早歩きでさっさと歩く広瀬くんに追いつきたくて話しかけてみる。

「ねぇ、なんで広瀬くんは図書委員にしたの? やりたかったの?」

「いや、やりたいわけないじゃん、何か委員会とかやってると進学に有利だからだよ、そんなのも知らないの?」また、鼻で笑われてしまった。そんなの、知るわけないじゃん。広瀬くんのトゲトゲしい言い方に、さっきまでの嬉しい気持ちも一瞬でかき消されてしまった。ムスッとしながら図書室に着くと、黙ったまま並んで座った。

 やっぱり同年代の男の子って、紳士的じゃないし、腹が立つこと言うし、子供だなと改めて思った。


 次の週の理科は、化学だった。理科室は暗幕が閉められていて薄暗くて、薬品の匂いが鼻を突いた。黒板にチョークで文字を書くスラっとした手を見ながら、先生はいつも陽に当たらないところにいるから肌が白いのかな、そんな事を考えていた。成績が良かったら、もっと話すチャンスがあるかな。そんな下心に気づかれないように、先生の話す言葉を一字一句聞き逃さず、黒板の文字も全てノートに書き写した。

「ここまでで何か質問ある人ー? いるー?」

 先生の声掛けに誰一人反応することなく、静かな空気が流れて、思わず先生もフッと笑って下を向いた。

「まぁ、だいたい隣の教員室にいるから、何かあったらいつでも質問しに来て」

 優しい言葉でそんな風に言うから、咄嗟に分からないことがないか、頭を振り絞って考えていた。我ながら単純だな。もし分からないことが出てきたら、先生に聞きに行こう。

 近づけるきっかけ、先生ともっと話せるようになるのなら、それがまた楽しみになっていった。


 それから、先生に接近することもなく何ヶ月も経っていた。結局、質問にも行けないまま、行動に移せないまま気付けばテスト週間に突入していた。



 テスト1日目、チャイムが鳴って席に着くと、監督の先生が教室へ入ってくる。一番初めの社会科のテストで、監督は白石先生だった…

「はい、始めて」

 たとえ監督が白石先生だとしても、今はテストの問題を解くことに集中して、必死に問題を解く。覚えている単語を頭の片隅から引っ張り出して穴埋めに挑んだり、自分のノートを思い出したり、脳をフル回転させた。だけど、先生が横を通り過ぎると、ちょっと薬品ぽい匂いが鼻をくすぐって、一気に集中力が途切れた。ダメだ。でも、頑張って最後まで解かなきゃ。

 丁度、終了のチャイムが鳴る10分前、全ての問題を解き終えて安心すると、こっそり顔を上げて先生を探した。

 そして、窓辺にふんわりとした表情で外を眺める先生を見つけた。憂いのある横顔が美しくて、鋭く私の胸に刺さった。

 先生の表情は読み取れなくて、少し眩しそうに外を眺めるその瞳は、悲しいのか、清々しいのか、今どんなことを考えているのかひとつも想像できなくて、ただ美しい表情が胸を締め付けてくる。


 ――あぁ、本当に好き

 

 うっとり見ていると、おもむろに先生の視線がこちらを向いた……、ハッとして我に返るけど、すぐに視線を逸らすと変に思われると思って、先生の方から視線を外すのを待った。

 だけど、優しい表情のまま、先生は視線を逸らしてくれない。

 

 一体何秒くらい目が合っていたのだろう。先生が微笑むと、私の心臓はスイッチを押されたみたいに、鼓動がどんどん速く、どんどん大きく響いた。

 ――今、絶対顔、赤くなってる……

 恥ずかしくなって、耐えられなくなって、ついに自分から目を逸らしてしまった。

 もう顔を上げることができず下を向いていたら、消しゴムが視界に入って、ふと、あのジンクスを思い出した。


 ――消しゴムに、好きな人の名前を書いて、最後まで全部綺麗に使えたら、その人と結ばれる――


 どこで聞いたのか思い出せないおまじない。今までそんなこと信じないタイプだったのに、こっそりと先生の名前を書いて、元の通り紙のパッケージを被せた。



 瞬く間にテスト期間は過ぎ、テストの答案が返却される日になった。物理の時間、先生に名前を呼ばれると、前へ取りに行く。

「広瀬、頑張ったな、学年で1番だったぞ」

 そう先生に褒められて、広瀬くんが照れ笑いを浮かべた。そして、私の名前が呼ばれて前に行くと「もう少し頑張ってね」と、そんな風に言われてしまったので、急いで答案をひっくり返すと、まさかの18点という信じられない数字が目に飛び込んできた。結構頑張ったのに、物理が赤点だなんて……。私は昔から理科が全般的に苦手な文系タイプだった。努力って、報われないんだな、と落ち込んでしまう。これじゃ何も進展しない……悔しい気持ちでいっぱいだった。


「今回赤点だった人は、夏休み補習があるから、ちゃんと来るように」

 一瞬聞き逃しそうなになったその言葉を、心の中で反芻する。


 補習授業がある! 私は飛び跳ねたい気分になった。軽率にも夏休みにイベントが増えたみたいで一瞬で浮かれていた。ふいに、母親の顔が頭をかすめて、この点数を怒られるだろうと不安になったけど、先生の方を見ると目を細めて笑っているみたいな表情で、すぐに顔がポッと赤くなるのを感じた。

 その日、家に帰ると案の定、母親に物凄く叱られてしまった。両親は、進学を望んでいるけれども、私にはまだ進路を真剣に考える意識がなくて、少し心配されているみたいだった。浮かれている気持ちが、なんとなく後ろめたくて、先生の話はしなかった。



「おはよう!」

 振り向くといつも通り元気な蒼の姿があった。

「おはよう。蒼は補習あった?」

「今回ギリ大丈夫だったわー! あぶなかったわ」 

 蒼より点数が悪かったなんて、自分にガッカリした。蒼は暇さえあればバイトに明け暮れて、その上好きなバンド活動にのめり込んでいるから、勉強では負けないと思っていたんだけど。補習で頑張って、次のテストでは絶対に赤点は回避しなくちゃ。

 先生に近づくことも、勉強も両方頑張ろうと思った。夏休みまで残り1週間、早く夏休みにならないかと指折り数えていた。この日の昼休みは、図書委員の受け持ちで、図書室の受付を任される日だった。もちろん、広瀬くんと。最近なんだか取っ付きにくくて、少しだけ苦手になっていた。


 午前中の授業が終わると、図書室へ移動してお昼ご飯を食べる。

「今日誰も来ないね」

 何も話さないのも気まずいから話しかけてみたのに、「うん、暇だね」って何も膨らまない返事で、またシーンと静まり返った。食べ終わった広瀬くんが、読み途中の本を開く。

 個々に自分の時間を過ごすのも悪くないか、とスマホを手に取った矢先。

「ねぇ、物理教えてあげようか?」

 意外な言葉をかけてきた。

「えっ、ありがとう。でも補習あるから大丈夫だよ」

 反射的にに断ってしまうと、気分を害してしまったのか、「補習すらついていけないと思って」とポツリと言った。

 どうしてこの人は人の気持ちを逆なでしてくるのだろう。この図書室での時間が早く過ぎればいいのに、そう思って長い長い昼休みを過ごした。


 夏休み最後の登校日、宿題のプリントがたくさん配られ、通知表も受け取った。どちらもいらないのにな……そう思いながら、委員会からのプリントにも一応目を通した。そこで、夏休み中に図書委員みんなで本を買いに行くといううイベントがあるのを思い出した。

 普段本を読まない生徒のために「図書委員おすすめ10選」という企画で、1か月前の委員会で決定されたことだった。夏休み明けにその本を棚に並べたり、興味を引くような紹介文を書いたり、張り紙も作らないといけないので、おのずと夏休み中に集まることになる。他に仲の良い知り合いもいなかったから、夏休みにまで広瀬くんに会うのかと思うと、余計に憂鬱だった。

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