第15話 恋情
ただ押し黙っている小夜子さんに痺れを切らしたのか、真夜さんが替わって話し始めました。
「——その通りです。父には、幾度となく問い詰めました。しかし、なかなか口を割らなかった。それに父は、私と姉との接触を極端に嫌がったんです。私は、故郷である日本に、何度も帰りたいと訴えたのに、父は一つも聞いてはくれなかった。帰国する時も、ほとんど、とんぼ返りのようなスケジュール。だけど私は諦めませんでした。なんとか私の出生の秘密を知りたくていたところ、二年前に、私の面倒を見てくれた女性が、死の床で教えてくれたんです」
『あなたのお母さんは、あなたのすぐ近くにいらっしゃる。そうして、あなたのことをずっと見ているのです。けっして、あなたのことを嫌いになって捨てたのではありませんよ』
彼女はそう言ったと、真夜さんは言いました。
「私の周囲には、そんな人はいません。父は偏屈な人でしたから。交友関係も限られます。私のすぐ近くにいる人と言ったら、この屋敷に住む人以外に考えられません。私は、半信半疑でしたが、ともかく、戸籍を取り寄せました。
髙橋さんは小夜子さんに向かって両手を合わせて頭を何度も下げました。
「申し訳ありませんでした。小夜子さま……。まさか、小夜子さまが、真夜さまのお母さまだったなんて。知っていたら、きっと命に代えても秘密はお守りしましたのに。私は、どうしても、この秘密を、秘密にしておけなかったのです。戸籍上は私が真夜さまの母親ということにはなっておりますが、真夜さまの気持ちを考えると、突っぱねて押し通すことが、とてもできませんでした。申し訳ありませんでした……」
「髙橋さんは、真夜さんの母親は私ではない。だが、本当の母親が、誰かは知らなかったのですね」
「そうです。当時、二十代だった私に旦那様が、頭を下げられたのです」
当時、藤原家の使用人として勤務し始めたばかりの彼女——斎藤冴子さんに、
「この子の母親は、公にできない人なんだ。どうか、キミの子として手続きをさせて欲しい。その代わり、キミの人生はすべて藤原家が責任を持つ」
斎藤さんは、元々、子どもができない躰でした。結婚をするつもりもなかった彼女ですから、一生面倒をみてもらえるなら、それはそれでいいと安易に思った、と言いました。
それから少し落ち着くと、その子を連れて、国外に出て行ったしまったということでした。
「当時はあまり深く考えていなかったのです。ただ、お金持ちの当主が、遊びでしでかしたこと——くらいにしか思っていませんでした。しかし、成長した真夜さんから、実の母親のことを知りたいと打ち明けられた時に、はっとしました。子が母親を求めるということは当然のことだと思ったのです」
斎藤さん、いえ髙橋さんの説明に、耳を傾けていた一同は、小夜子さんに視線を向けました。今となっては、事実を知るのは彼女しかいません。そこにいる誰もが彼女の言葉を待っていたのです。
「小夜子さん……。真夜さんのお母さんは、あなただ。けれど、お父さんは、どなたなのでしょうか。まさか……」
「そのまさかなのでしょう? 私は知っているのよ。ここで、あなたがだんまりを決め込んだって。私は知っているの。一年前に、お父さんがいなくなった後。私はDNA鑑定を済ませたんですから——。私の父は、父で間違いありませんよ。藤原
真夜さんはきっぱりとそう言い切ったのです。科学の力を借りた鑑定結果がそうあるならば。間違いはないのだろう——。そこにいる誰もが、その事実に、言葉を失い、そして小夜子さんをじっと見つめているばっかりです。小夜子さんは、視線を伏せ、ぽつりぽつりと話を始めました。
「私は……、父が好きでした。とっても優しくて。母は、精神的に弱い女性で、私が十歳の時に自殺してしまいました。父は、母の死を自分のせいだと責めていました。父は結婚に恵まれない人でした。母と結婚する前にも一度、結婚をしておりましたが、その時の結婚生活はたった一年だったそうです。妻を二度も失うという経験は、父にとったら、それはそれは、辛い経験でした。私は、何度となく父を慰めました。そうしているうちに、私の中に父に対する恋心が芽生えてしまったのでしょう。成長するにつれて、父を、男性として見るようになったのです」
月明りを背に淡々と語る彼女は、いつもの小夜子さんではないように思えました。中嶋くんは、喫茶店で冗談を言って話した彼女と、今ここにいる彼女は、別人なのではないかと錯覚しそうだと思いました。
無垢なる妖精ではありません。仄暗い漆黒の瞳の奥には、燃えるような恋情の炎がチラチラと見え隠れしています。まるで、妖艶な、怪しげなベールに包まれているようです。世の中の、大半の男の人たちは、その魅惑的な雰囲気に、心を掻き乱されることでしょう。
「まさか子どもができるとは思いませんでした。途中で何度も、
その後のことは、髙橋さんの話の通りなのでしょう。真夜さんは、父親であり、祖父である
「父は、どういうつもりだったのかわかりません。でも。あの絵。御覧になられましたでしょう。あの真っ黒な絵です。あれのタイトルをご存じですか。あれは、『マグダラのマリア』——不埒な女の象徴。私のことでしょう?」
中嶋君は、一階に飾ってある、あの暗黒の絵画を思い出しました。
「あれは、小夜子さん……なのですか」
「父が描いて、屋敷に送りつけてきたのです」
「しかし、あの絵は——」
ふいに宮城くんが声を上げました。と、その時でした。小夜子さんの後ろにあった、両開きの大きな窓が、ばたんと音を立てて開いたのです。
みなさんはお気づきになられますか。藤原家には、セキュリティ会社のシステムが入っていて、少しでも外に通じる出入口が開かれると、すぐにセキュリティが発動するというシステムだったはずです。それなのに、どうしたことでしょう。今まさに、小夜子さんの部屋の窓が大きく開かれたというのに、セキュリティシステムは鳴りを潜め、しんと静まり返っているではありませんか。
しかし、そんなことに気がつくものは誰もおりませんでした。なにせ、窓枠にすらりとした人型のシルエットが浮かび上がっていたからです。
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