願い事が叶う時

 昼間の街は平和だった。

 窓からそれを眺めていると、紫音はため息をついた。

 以前の夜中のことが嘘のように感じられた。

 限り無く世界が変わる前と同じような光景。

 それを眺めていると、タイムスリップしたかのような錯覚さえ感じるくらいに。

 ドアがノックされた。覗き穴で確認すると、紫音は無言でドアを開いた。

 この日の午後、志賀が迎えにやってきてくれて。連れ出すと言い出したのだ。

 二人は無言のまま、歩いていく。

 マンションのエントランスまで行くと、一人の女性がいた。志賀の奥さんの瀬名明菜だとすぐに気がついた。

「あら、紫音ちゃん元気になったの?」

 明菜は面白そうに、紫音の真正面に回り込んだ。

「ねえ、正樹さん。いまから二人で話したいことがあるから、女同士二人で話してていい?男子禁制ってことで」

「ああ、いいよ」

 そういうと志賀は何処かへと離れていった。

「ねえ、あなた大丈夫?」

 心配そうに聞かれるが、紫音は答えられない。黙って俯くだけだった。

「何か言われたんでしょう?」

「……特には」

 そう言うが。どうごまかせばいいのかも分からなかった。

「大丈夫だよ。紫音ちゃんの悩みはきっと解決するから。約束だよ」

 そう言うと明菜は去っていった。



 明菜の言葉が気になっていた。

 志賀の車に乗り込んでいた。

 仕事として二人は、いろいろな場所を車で回っていた。

 色んな人がいた。色んな地位の人がいた。

 中には、有名な新興宗教団体の人もいた。

 元警察官の人もいた。

 政治家だったという老人もいた。

 どういう繋がりなのか、よくわからなかった。

 だけど、褒められるようなことはしていないことだけはわかった。

「僕も結構有名になったもんだろう?」

 なんとなく自慢げに言い始めていた。

 それが、志賀の作り出した犯罪的なコネクションだと言うことがわかった。

 その中でうまく立ち回っているらしい。

 父が残した権威と知識を使って。

「人生って最後だとわかると、その人が求めているものが何なのか、分かるから面白いんだよね」

 何もわかっていなさそうな人もいたが。

 明らかに、志賀が作り出している計画に乗っているような人もいた。

 彼らが、何を求めているのかはよくわからなかった。

 理解をしたくもなかった。

「久しぶりだね、こうやって二人でドライブするのも」

 紫音は何も言えなかった。

 何を話してるんだろうと思っていた。

 世界がこうやって終わっているのに。

 志賀はまるで頭など気にも留めていない様子だった。

「志賀さんは本当に、計画を取りやめるつもりはないの?」

 その言葉にも、志賀は何も動じなかった。

 紫音の事は無視して、車の運転を続けていた。

「奥さんだっているんだし。今からだってやり直すことだってできるかもしれないのに。色々ともったいないよ……」

 言葉をぶつけてみる。

 きっと、そんな言葉を聞き飽きているに違いなかった。

「あの子、鳥宮玲奈は既に保護している」

 あまりに突然なその言葉に愕然となる。

「玲奈を?」

「うん、安心して良いよ。今は治療中だし、僕の奥さんが世話しているから。必ず会わせるつもりだよ」

「本当なの? 信じて良いの?」

 志賀は大きく頷いた。

「ていうかさ、ぶっちゃけ僕の奥さんも話してただろ? さっき、こっそり告げ口してるのは分かってたよ。あの人は罪悪感に耐えられないんだろうね」

 先程の明菜との会話を思い出す。

「わたし、玲奈まで殺されちゃうんだと思ってた。どうして志賀さんが玲奈を助けたのかがわからないよ」

「そうだなあ……いろいろ考えたんだけど、今の時代。生きていくことの方が苦しいと思っている。だから君たち二人が、生きていくことが必ず苦痛になると思う」

 志賀が言おうとしていることの全てがそれには表れていた。

 要するに嫌がらせのために、生かしたいと話しているのだ。

「……わたしたち二人が苦しんで生きること」

「そう。それだよ」

 二人を再会させる。簡単には殺してやらない。その上で生かし続ける。下手に死んでしまうより、よっぽど苦しくて辛い道が待ってるかもしれない。

「それはわたしも考えたことがあるよ。死んだ方がマシかもって……」

「そう、僕からできるささやかな仕返しはそれしか思いつかなかった」

「わたしに仕返しがしたかったの? どうして?」

「悔しかったんじゃないかな。何より妬ましかった」

 淡々と語り続けていた。

 答えになっていない気がするが。それが志賀の語り出した動機だった。

 志賀があちこちで仕事をこなしているのを、紫音はただ黙って眺めていた。

 どこかで、志賀を自分の手で殺してしまえば、多くの犠牲が出ずにすることも考えていたが。

 志賀も今回の計画の一人でしかなく。

 仮に志賀がいなかったとしても、結局のところ計画が実行されてしまうに違いなかった。

 自分はそれをただ黙って見ていることしかできない。

 何もしないことが、許されることなのかわからない。

 今はただ、玲奈との再会のことだけを考えていた。




 連れて行かれた先はマンションの一室だった。

 今もベッドの上で横になっていた。

 玲奈は軟禁されていた。

 食事などは定期的に出てくる。

 生活するには何不自由ない。

 恐怖さえない。

 志賀など、その気になれば徒手空拳で倒すことも出来た。歩き方でも素人なのが分かっていた。

 それでも、逆らえないのは。紫音のことがあるからだった。

 自分がここにいる代わりに、紫音に危害を加えないと約束していた。

 単なる口約束の可能性もあるが、それは承知の上だった。

 机の上には、資料があった。

 それは、玲奈の両親と出生に関する記録だった。

 志賀から手渡されてから、何度も読み直していた。

 紫音の保護を承諾した最大の理由は。

 食糧品でも、平和な街への永住権でも無かった。

 そんなものはオマケでしか無かった。

 このデータを取り寄せられるのが、おそらく志賀だけだったからだ。

 最初に連絡が来た時は。

 報酬として、まさかこんなものを用意されるとは思わなかった。

 最初は疑っていたが。志賀は玲奈が殺した人間の名前や。育ての親の名前までも並べ始めていた。

 そこまで調べ上げられているとは予想外だった。

 一体どんな人物なのだろうと思っていた。

 志賀と交わした資料のやり取りについては。

 紫音にも相談しようと悩んでいたことがあったのだが。

 志賀の話を避けたがるので。

 結局、話せずじまいだったのだ。

 情報については、半信半疑でもあったため、必ずしも約束通りのものが用意されるとは限らないことも覚悟していたし。それこそダメで元々だった。

 実際に手渡されて。その書類を見ていると。

 確かに、ごく限られたページしかないが。具体的に書かれており。

 幼少期の記憶と一致する部分も多く。おそらくは事実だと思われた。

 両親はずっと自分のことを探していたのだ。見放されるどころか。最後の最後まで諦めていなかった。

 最初に手にした時は震えが止まらなかった。

 その情報は何よりも望んでいたことでもあった。

 過去を探すことが、一番の人生の目的になっていたが。ようやく願い事が叶ったのだ。

 これに辿り着くまで、あまりにも長い時を過ごした。

 たったこれだけのために。

 多大な危険を冒してまでの旅路だった。

 これだけでも十分な収穫だが。

 まだ、やり残したことがあった。

 紫音と再会したい。

 資料のことなど半ば忘れかけていた。

 窓から外を眺める。

 お世辞にも綺麗とは言えない世界。

 だけど、日本で最も安全な場所。

 今まで住んできたどの場所よりも安全な場所であり。恵まれていると思う。

 ドアがノックされる。

「……はい、どうぞ」

「失礼します」

 返事をすると、一人の女性が入ってくる。とても品の良さそうな、華奢な人だった。

 この人を見ていると、どうしてこんな世の中なのに。奥ゆかしくいられるのか不思議で仕方がなかった。

 それも自分のような得体の知れない相手に対してまで。

 礼を尽くそうとしている。

 背筋をいつも伸ばしていて。

 笑顔が素敵な人。玲奈よりも五センチほど身長が高い。それなのに不思議と圧を感じない。朗らかな人。

 志賀の奥さんの瀬名明菜だった。

 軟禁生活の世話は主に彼女が行なってくれていた。

 志賀が見張り役に、女性を使うのはかなり意外だったが。

 聞くところによると、明菜自身が自分から志願していたらしい。

 玲奈は強行突破してしまおうと何度も考えていたが。ギリギリのところで冷静に踏みとどまれていたのも。明菜の人柄が大きかったと思う。

 それほどまでに悪意を感じさせない人だった。

 トレイに食事のセットを持ってきていた。

 料理には野菜まで用意されており。

 スプーンが置かれていた。

 それを手に取ると食べ始めていた。ゆっくりと咀嚼して。

「玲奈さんってすごいですよね。たった一週間で元に戻ってしまうなんて。羨ましい」

 その台詞が体の傷のことを指しているのだと理解するのに、ワンテンポ遅れていた。

 身体は治ったけど、頭がボンヤリとする。

 ベッドの上から虚な目で見上げていた。しばらく太陽を浴びていない。

 それを察したかのように明菜は微笑むと、とんでもないことを提案した。

「ねえ、今日は私と一緒に外出しませんか?」

 その言葉に思わず咳き込んでしまいそうになる。

「大丈夫なの? 志賀さんに見つかったら……」

「別に平気よ。私だって多分あなたと同じ立場だから。力になりたいの」

 そう言われると、嘘では無いんだと思った。

「服装とかも私が用意するから、リクエストとかあるかな?」

 玲奈は自分の服を眺めていた。浴衣のような白い病人服を着させられていた。

 もし、着るとしたら何が良いんだろうか。

 少し考えてから、欲しい服を答えていた。



 車で向かったのは、花畑だった。

 色とりどりの花が咲き誇っていた。

 車から降りると、冷たい風が吹いてきた。

 それに煽られて花たちが揺れていた。

 思わず黒いコートのボタンを閉じていく。それは、明菜が用意してくれたものだった。

「これが前話していた、みんなのためのお墓なの」

 甘い蜂蜜のような香りが漂っていた。

 心の底からリラックス出来そうな安らかな匂いだった。

 町中ゴミが散らばっているのに、この花畑だけは荒らされてもいなかった。

 不思議な場所だった。

 玲奈は、会ったこともない紫音の親戚たちに手を合わせていた。

 彼女が無事なことを祈っていた。

「……ねえ、もしもあなたが望んだらの話なんだけど」

「うん」

「本当に紫音さんに会いたいなら。私があなたたちをうまく逃がしてあげるから。安心して欲しいんだよね」

 その言葉に、思わず被りを振る。

「……あなただって、ただでは済まないんじゃないの? 身の危険とか……今だって……」

「それはわかってるの」

 明菜は承知しているようだった。

「……ても、どうして?」

 志賀が何をするか分からない人物なのかは。

 すでにわかりきっていた。

 何人も危ない人間を見てきたからわかる。

 志賀など、たとえ、身内でも容赦はしないはずだった。

 自分以外が全てどうでもいい人。

「私ね。あの人がやってた事は全部知ってたの。彼がやってきたことに加担してまで。安全な暮らしを満喫してしまったのよ。とても贅沢な暮らしよ。今はすごく後悔してる。人の不幸の上で安易な生活を送ってしまった」

「……別に、みんな生きるのに必死なんだし。誰も責める権利は無いと思うのだけど」

「……玲奈さんは優しいけど。許してくれない人の方が多いと思う。他に生き方もわからなくて、ずっと一人で悩んでた。ううん、悩んでるふりをしてた。本当は悩んでなんか無かったのよ。全部私が選んでたの、冷静に。卑怯でしょ? 笑っちゃうくらいにね」

 そう言うと彼女は大きく息を吸って吐いた。

 思わず、彼女から目を逸していた。

「私も多分同じ。悩んでるふりをしてた。紫音のためとか言いながら。結局は全部自分のためなのに……」

 いつの間にかこの女性に対して奇妙な共感を覚えていた。

 自己保身のために、他人を犠牲にしてきた。

 後悔しても、それはすべて何の償いにもならない。

 結果的に二人とも最良の結果を手にしている。

 奪った上で謝罪している。

 どうしようもない身勝手さ。

「こうやってお墓を作ったのも私なの。みんなこの場所を喜んでる。それなのに、一番多くの人を犠牲にしてきたのも私なの」

 フラッシュバックする。

 今まで自分が殺めてきた人たちの最後の表情。

 ある者は凄まじい表情で、ある者は全てを諦めたような表情をしていた。

 その命を紡ぎ取ってきた。

 誰も彼も罪のない者たちばかりだった。

 そういった者たちを殺めてきた結果。

 今もこうして、生きていることができる。

 明菜と自分。

 形は違えど、お互いに人生を楽しんでいる。

 明菜は自分が安心していられる「生活」を手に入れた。

 自分は新しく出来た「友達」にまた会いたいとだだをこねている。

 自分のしてきた行いが、全て間違いだったと思う。

 生まれてこなければよかったと何度も思った。

「私ね、今まで自分の行いを全て精算しようと思ってる。贅沢してきた私への罰のつもり」

「……でも、やっぱりわからない。その選択が必ずしも良いことだとは思えない」

 それは本心から出た言葉だったし。

 そういうことで、自分自身のことも守りたかった。

 明菜のことを肯定することで自分のことも肯定したかった。

 それでも明菜の決意は固いのか揺るがなかった。

「……だめなのよ。夜になると、今までの自分の行いが生々しくよみがえってきてしまって……」

 明菜は声を震わせていた。

 普段とは全く違う怯えた様子、見ていてこちらまで悲しくなってくる。

「……つらいの?」

「つらいよ、だけど、これは私が受け止めなくてはいけないことですから……」

 それ以上何も言わなかった。

 覚悟を決めてきた人間に対して。

 これ以上、何かを言うのは、間違いだと思っていた。

「他人の死を喜ぶ人間もいるの。志賀正樹。あの人は怪物そのものよ。人が苦しむところ。それでしか生きる実感を得られないの。それにね、日に日に人の死に対して麻痺していく自分が嫌なの…………」

 明菜は、志賀が現在企てている計画を知ってしまった。

 その事は志賀も勘付いている。知った上で見逃され、放置されているようだった。

 たとえ、志賀がいてもいなくても、計画は実行される。

 明菜でさえ把握できない程のコネクションを作り出してしまっている。

 その中には、玲奈がいた組織のメンバーもいたのだ。

 ありえないほどの、情熱と熱意、何よりもおぞましい執着を感じさせた。

 話を聞いていて狂っていると思ったが。

 正直に話してくれた彼女に感謝してもしたりない。

「……明菜さんありがとうございます」

「そう言ってもらえると、すごくうれしいわ」

 そして、明菜はゆっくりと打ち明けていた。

「あの人の一番の望みは、紫音さんだと思う。紫音さんに執着してるんだと思う」

 その言葉で、ますます志賀のことがわからなくなる。

「どうして紫音に?」

「多分、自分のことを純粋に信頼してくれてる人が欲しかったんだと思う。それがあの人にとっては、あの子だった……」

 うろ覚えだったが、車の中で、何度もしつこい位に紫音の事について聞かれていたのを思い出す。お互いのことをどう思っていたのか。

「お願い、紫音さんを守ってあげて。私にはどうすることも出来ないから」

 そう言われると、頷くしかなかった。




 明菜は最後の最後まで甲斐甲斐しく世話をしてくれた。罪滅ぼしだと言うが、やり過ぎていると思っていた。

 玲奈は髪の毛をいじっていた。伸び過ぎてしまった髪は彼女がハサミで切ってくれた。

 慣れたような手付きで切っていた。

 聞くところによると、亡くなった妹のためによくやっていたらしい。

 昨日の会話を思い出す。

 …………黒くてきれいな髪ですね、うらやましい。

 そう、耳元で呟かれた。

 …………私もこんな髪の毛で生まれたかった。床に落ちたやつ。カツラにしても良いかな。

 明菜は珍しく冗談を話していた。少しだけ笑ってしまった。

 …………私も、あなたみたいに強く生まれたかったな。

 切り終わると別のことを言われた。悲しそうな顔で。

 …………あの人のことを、止められなくてごめんなさい。

 謝らないでください。紫音と会えるのはあなたのおかげです。と伝えると。

 …………上手く逃げて、幸せになってね。

 私はもう十分幸せです。と伝えると。

 …………人の髪を切ってるとね。妹のことを思い出すの。今日はとっても幸せだったよ。

 笑顔で言われた。

 そこから先はよく覚えていない。

 持ち運んで来てくれたリュックサックの中を確認する。携帯食料や水、着替えが詰め込まれていたし。

 上着のコートまで用意してくれていた。それも黒色のロングコート。

 鏡で自分の姿を見る、多少デザインは違えど。以前のような姿に近い。きちんと紫音は自分だと認識してくれるだろうか。

 玄関で靴を履くと、やり残したことに気がつく。

 彼女にお礼が言いたい。

 約束の時間まではまだ余裕があるはずだ。

 同じマンションの上の階に住んでいるという。

 他の住民に遭遇することは無い。

 耳で確認したけど、生活音がしないのはわかっていた。明菜はおそらく本当のことを話してる。

 昨日のことを振り返ると、やはり様子がおかしかった。違和感がある。

 去り際だろうか。どことなく寂しげだったような気がしたのだ。

 最後に別れの挨拶をしたかった。それだけだった。

 お礼が言いたかった。

 ドアをノックした、返事はない。どこかに行っているのかもしれない。

 だけど何故だか嫌な予感がした。

 今まで何度も何度も体験してきたような。不吉な思いが追憶されてくる。

 ドアノブを捻ると鍵は開けっ放しだった。

 すうっと扉は開いた。

 まるで見つけてもらうのを待っているかのように。

 あらかじめ予定していたかのように。

 そして、室内にはかすかに血の匂いがした。

 テーブルの上には折り畳まれた紙があった。

「ごめんなさい。」とだけ書かれていた。

 誰かへの手紙だろうか。

 それを見て、早くも後悔していた。

 知りたく無かった。何も知らずに出発した方が良かった。

 もしくは、もっと早く気付いてやるべきだった。

 直感で風呂場だと思った。足を踏み入れると。もう、何も考えられなかった。

 浴槽の中には明菜がうつ伏せで横たわっていた。

 それを見た瞬間血の気が引いた。

 大量の血液が、白い浴槽を赤く染めており。

 近くには、銀色のカミソリが朝日を浴びて仄暗いオレンジ色に輝いていた。

 しゃがみ込むと脈を確認してみるが。

 もう、すでに手遅れだった。

 あと少し早ければ……。

 玲奈は明菜を後ろから抱きしめていた。

 涙が流れ出てくる。

「……ごめんなさい」

 自分の命を断ったこと。

 何度かそういう現場を目撃してきたが。

 今回はあまりにも悲しかった。

 そして自身も、自分で自分の命を差しを出すことでしか。自分の罪が贖えないんじゃないかと思っていた。

 だけど、それでも、自分にはまだやることがある。

 リュックを背負い直し、明菜に背を向けると、もう一度走り出していた。



 来る日も来る日も、連れまわされて。

 ついにこの日が来ていた。

 見晴らしの良い丘だった。

 ここなら街をゆっくりと見渡させる。

「ここに来るまで長かった。何度か盗難事件をでっち上げて、傷害事件を自作自演してたよ。争いのタネをあちこちに巻いていた。今回の爆発でそれが発芽する」

 志賀は自分の手口を話していた。

 単純な手口なのに、きっとみんな簡単に騙される。本来なら自分も騙される側だった。

「何でそんなにペラペラと喋りたがるの……? 黙ってて欲しかった。知らないまま死にたかったよ」

「別に深い意味は無いんだけど。ただ、なんとなくみたいな?」

 そう言ってるうちに。食糧庫の方から黒い煙が一気に上がった。それを二人で眺めていた。予定の時間が来たのだ。

「あ、あ……あっ」

 紫音は小さく声を上げた。幼い子供が感嘆するような惚けた声。

 自分には関係の無い話だと割り切れるほど、冷静ではいられなかった。

 体が震え出す。

 すぐにサイレンの音が鳴り始めた。

 大声で叫ぶ声が広がり、瞬間的にパニックが広がっていくのがわかる。

 大人達が大慌てで必死になって炎を消そうとしている。

 バケツに水を入れて一生懸命に抵抗している。

 そんな物では無駄だった。

 火薬の量が多すぎる。

 それを見て、罪悪感から吐き気をこらえるのに必死だった。自然と涙が溢れてくる。

 食料の蓄えという目に見える希望が燃えて、焼けカスの粉が空気中に飛ばされていく。

 怒鳴り声が聞こえてくる。罵声も。悲鳴も。泣き声も。全てが入り混じって合唱のように聞こえた。

「美しい……破滅をもたらす炎こそが僕にとっての希望だったんだ……」

 志賀は恍惚したような声で一人で喋っていた。これこそが彼の望んだものだった。

 その強固な思い込みから一方的に壊すことでしか、自分の願いを実現させることが出来ないのだ。

「願いが叶って良かったね……」

 ただ、憎めばいいのに、憐みに似たような感情さえ湧いてくる。それくらいにはどうしようもない人だった。

 完全に心が壊れてしまっていたのだ。どうしようもないくらいに。

 炎の勢いは増していた。ちょっとやそっとの消火活動では食い止められる勢いじゃない。運悪く風が吹き付け、更に激しく燃え上がる。まるで魔風だった。

「叶って良かったよ」

 食糧を諦めきれない人達が消そうとするのを、すでに諦めた者たちが必死で説得して、或いは羽交い締めにして、炎から避けるように促していた。

 みんな頭を抱えている、今後の生き残りをかけた貴重な物資がまとめて灰になる。

 長い年月をかけて積み重ねてきた努力の結晶が、今は人々を死に追いやる炎と化して地獄の有り様を作り出していた。

 逃げ遅れた者もいた。炎に囲まれている。人体が燃え上がり壮絶な踊りを見せた後、力尽きて倒れた。

 ガスや粉塵を吸い込んで倒れた者もいた。

 世界が終わっていく。

 絶望に塗り潰されていく。

 隣の志賀はそれを、涼しい顔で眺めていた。

 口の端が歪んでいて。とても楽しそうだった。

「これで……満足したの?」

「いや、まだまだこれからだ。まだ、プロローグでさえ無い。本当の始まりはここからなんだよ」

 志賀の言葉通りだった。

 まだ、ほんの始まりに過ぎない。

 ここからが本番なのだ。

 ここから先は人間同士で武器を持って争い合う。

 紫音は膝から崩れ落ちた。絶望からではなく。全てに嫌気が差したからだ。

 志賀は満足げな声で笑っている。

 頭上から嘲笑のような、或いは苦笑いのような微妙な笑い声を浴びせてきた。

 志賀は涙を流していた。

「そんなに嬉しい?」

「感極まっちゃってさ」

 ヘラヘラと、指で涙を拭っていた。

 鼻からも笑いの息が漏れている。

 何かが吹っ切れたような表情。

 この光景を心の底から楽しんでいた。

 その、一瞬の隙を付いた。

 紫音は砂を掴むと志賀の顔に投げつけていた。

 志賀は唸り声を上げながら必死で目を擦っている。

 紫音はその間に必死で背を向けて走り出した。

「良いよ。逃げろよ。そんなことをしても、無駄だよ」

 後ろからはいつまでも笑い声が響いていた。



 街から聞こえてくる悲鳴がだんだんと大きくなってくる。

 走っていく人間たちを無視して、紫音は逆の方向へと走り始める。

 明らかに、災害が起こっている方向に走っている紫音に対して注意をしてくるものなど誰もいなかった。

 目指すべきは、あの花畑。

 近くまで来ると、階段を駆け上っていく。

 息が苦しい、酸欠になりそうになりながら紫音は走っていた。

 数日前、ポストに手紙が入っていて、驚いた。明菜からの物だった。

 志賀の計画の実行日と。玲奈のいる場所のことも書かれていた。

 こんな場所、緊急事態なら誰も入ってこない。

 明菜はそこを見越してここを約束の場所にしてくれたに違いなかった。

「希望の花畑」の中心に玲奈はいた。

 とても暗い顔して、表情を失っていた。

 この街の光景にショックを受けているのか。

 それとも、何かを見てしまったのだろうか。

 無表情な玲奈を抱き抱えていた。

 目の光を失っている。

 人間がこんな目付きになることを初めて知った。

 その目に自分が写り込んでいることがわかる。

 そして瞳孔が大きく開いていく。

「……紫音」

 手が紫音の顔をさすっていた。

 その手を受け止める。

「どこ行ってたの? やっと会えたよ」

「ごめんなさい。遅くなっちゃった」

「いいから、早くいくよ」

 二人は手を引いて走り合っていた。

 手を離して走った方が早いのに。あえてそうしていた。

 紫音の目の前で玲奈が髪を乱しながら走っている。その姿に見惚れていた。

 この街を見捨てる以外の選択肢は無かった。

 二人の決断と行動は早かった。

 団地の一件を思い出す。自然と駆け足になる。紫音が案内したのは、マンションの駐車場だった。

 その一つの車に乗り込んだ。黒色のボルボ。明菜が使っていたものだった。

 エンジンを掛けると静かな音がした。

 目一杯ハンドルを操作しながら道路へと飛び出した。

 それらをあらかじめ決めておいた逃走ルートを使って大通りへと飛び出すと、フルスピードで駆け抜けていく。

 そのルートさえも、明菜が教えてくれたものだった。全て書いてくれていたのだ。

 すでに街の中は不穏な状態が流れていた。ハンドルを握る手が不意にぶるぶると震えていた。それを押し付けるようにして止めようとする。

「あの時と同じだね」

 紫音が呟く。

 玲奈は外の景色を眺める。やつれ切った表情で周囲を警戒していた。

 突然サイレンが激しく鳴りはじめた。

 暴動が始まったのだ。

 皆が殺意を纏ってお互いに争い合っている。

 武器なんかなくても、手近なレンガやブロック。それさえ無かったら素手で殴り合っていた。

 お互いがお互いの返り血を浴びていた。

 獣が食らいつきあっている。と言った方が正しいのかもしれない。

 辺りが咆哮のような叫び声で満ちて行く。

 野生に帰ってしまった……というより。幼児退行したかのようで。独特の歪さがあった。まるで赤子同士が殺し合ってるような。

 生きることに縋りつこうとしているだけなのに。

 本能の赴くままに殺し合う人間達。

 ガラス越しにそれを眺めていると。一瞬、何故かその光景が懐かしく感じられた。口元が弛んでいた。

 きっと今、笑っている。

 自分を含めて、程度の差はあれど、大なり小なりみんな志賀のような破滅願望を抱いているのかも知れない。

 知りたくもないような昏い喜び。

 それを知った罪悪感。



 突然、何かが目の前にやってきた。

 こちらのボルボよりも大きな車。白いハイエース。建築会社が使うような車だった。

 あまりにもゆっくりと、止められたので紫音は戸惑った。本当なら横を突っ切っても良かったのに。恐怖からブレーキを踏んでいた。

 中から現れたのは外国人達だった。

 長物のライフルや散弾銃を手にこちらに向けている。

 汚らしいスラングを使って罵声を浴びせてくる。

 恐怖というより、おぞましいと思った。

 手で何かを伝えようとしてくる。

 それが、車から降りるように命令していることは分かった。

 命令に逆らえばどうなるかも予想がついた。

 紫音と玲奈がホールドアップした状態で車からゆっくりと降りた。

 男達は歓声を上げていた。女二人を自由に出来るからだろうか。

 今更ながら、恐怖で心臓がはち切れそうになる。

 逃げ出そうとも考えていたが。

 ちょっとした動作がキッカケで乱射しかねない危うさがあった。まるでお祭り騒ぎのように興奮していた。

 一人がにじり寄ってくる。挑発してくるように口の両端を歪めて。目が三日月のように釣り下がっていた。獰猛な表情。油ぎった下卑た笑み。

 玲奈の左手を紫音の右手が握りしめていた。

「大丈夫だよ。私が守る」

 玲奈はそう言うが。

 それでも、とても今回ばかりは助かる気がしない。

「ごめん、わたしのせいで……」

 すべてを諦めかけた時だった。

 遠くからまた別の男の叫び声が聞こえていた。

 その声には聞き覚えがあった。

 紫音は声のする方角に顔を向けていた。

 志賀だった。彼は走りながらこちらに何かを向けていた。

「早く逃げろ!」

 一人でやってきたスーツ姿の志賀に男達は一瞬拍子抜けしたような表情になる。そしてそれが恐怖に変わっていく。

 志賀が手にしていたのはダイナマイトと思わしき、筒に導線がくっ付いたものだった。もう片方の手には安物のライターが握られていた。

 志賀がそれを振りかざすと。男達がまた恐怖から騒ぎ立てていた。

 背を向けて走って逃げ出す者までいた。

「早く逃げろ、ここは俺が食い止める」

 紫音はその言葉に困惑する。

「どうして? 今更何を?」

「良いから早く行けよ!」

 志賀は怒鳴っていた。

 玲奈は何も言わずに紫音の手を引っ張って。車の中に押し込んだ。

 助手席からガラス越しに志賀と目が合った。

 その表情からは何も読み取れない。

 どんな思いで、どんな考えで助けてくれたのか。

 何も。わからない。

 何故か助けに来てくれた。

 志賀は口を動かした。何か喋ってるが聞き取れない。多分さほど長くない言葉だった。

 玲奈がエンジンを入れたからかき消されてしまったのだ。

 そのまま車は出発した。一気に街を脱出する。

「志賀さん!」

 叫んでいた。

 それでも聞こえない。

 もうお互いの言葉は届き合うことはない。

 紫音は茫然と小さくなっていく志賀の姿を見ていた。

 車はフルスロットルで街を飛び出し、高速道路へと乗り込んでいく。

 同じような境遇の車が数台見かけたが、特に干渉することも無く。別々の道を行くことになった。彼等は何処を目指すのだろうか。

「ねえ」

「何?」

「志賀さんは最後に何て言ってたの?」

 玲奈が聞いてくる。

「ううん、わかんない」

 聞こえなかった。

 それでも、あの口の動きから。確かにそう言っていたのだと思う。

 あ、り、が、と、う。

「あの人はわたし達のことを救ってくれたんだよね」

 玲奈がぼんやりと話している。

「何でなんだろうね?」

 疑問をぶつけられても、紫音は解答に困る。

 志賀の望みは二人で生きていくこと。

 生きて苦しませること。

 それでも、今の状況を喜ばずにはいられなかった。

「再会できて良かった。それでいいじゃん」

 そう言うと、二人は軽く笑い合っていた。




 一人残された志賀はため息をついた。

 咄嗟に作った見せかけの爆弾はただのこけ脅しでしか無い。

 目の前の外国人達は怖がっている。

 気が付いた時が怖い。

 リンチよりも酷い目に遭わされても文句は言えない。

 しかし、そんな目に遭いながらも。

 心の中は別の思考で満たされていた。

 あの光景を見ていて、ようやく感情を揺さぶられたのだ。

 どこまでも逞しく。

 どこまでも予想が付かない。

 無軌道な、それでいて。

 笑顔に溢れた二人。

 その二人の姿を想うと、志賀は打ち震えていた。

 感動のあまり。目頭が熱くなって視界がぼやけた。

 今まで見たことがないような光景だった。

 涙が流れていることに気が付いていなかった。

 あれだけ人間を忌み嫌っていたのに。

 心のどこかで信じたい気持ちがあった。

 期待に応えて欲しいと感じていた。

 裏返しだった。

 今までの自分の行いも。

 それが叶わないという絶望からきたものであって。

 悪意はあったが。

 そこまでの憎しみなんかじゃ無い。

 悲しかったからだ。

 中途半端に蔓延る偽りの善意など。

 踏みにじらないといけない気がした。

 人間という存在の悪意を証明しないといけない気がしていた。

 なぜ、そこまでそれに拘っていたのか。

 自分でも分からなくなっていた。

 強烈な執着でしか無くて、理想などそこにはなかった。

 人生の最後の最後にそんなものが見れて満足だった。

 もう、充分だと思った。

 人生は暗い。

 つらくて。

 苦しくて。

 生きる意味なんかこれっぽっも無い。

 断言できる。

 不幸しかなかった。

 今、死ぬことが出来て、嬉しい。

 すごく嬉しい。

 胸を張って言える。

 嬉しいと。

 だけど、最後の最後に自分の予想を裏切ってくれた。いい意味で。

 それは最高のサプライズ。

 ベスト・エンディングだった。

 人と人との深い交流。

 肉欲でも損得でも無い。

 心と心の神秘的な繋がり。

 魂だけの結び付き。

 番(つがい)としての喜び。

 そして輝き。

 この時のこの瞬間のために導かれて来たんじゃないのかとさえ思う。

 それが自分の人生の壮大な真実だったのかもしれない。

 憎しみと不幸しか持っていない自分。

 世界がくれた答え。

 そう思うと。

 すべてチャラになったような気さえしたのだ。

 全てを許せる気がした。

 今の自分なら。きっと。

 外国人達が怯えた顔をしながら、ライフルをこちらに向けてくる。頭に向けてきてくれたのを見て尚更安心していた。

 そんなに苦しむことなく逝ける。

 銃弾が頭を貫いた時。

 胸いっぱいで志賀は息を引き取った。

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