幸運

 世界が荒廃する前だった。

 目の前にはいつも灰色の部屋が広がっていた。

 変わり映えのしない毎日が続いていた。

 こうなる前からこの世界は狂っていると思っていた。

 世界に絶望していた。

 世の中の全てが憎かった。

 自分の手で壊してしまいたいとさえ思っていた。

 だけど方法が見つからなかった。

 その方法が欲しかった。

 そんな中で、大学の教授たちがおかしなことを話し合ってるのを耳にした。

 世界的な恐慌や大震災がやってくると言う話だった。

 それに聞き耳を立てていた。

 マスコミやテレビではとても言えないような話ばかりだった。

 それを話そうとすると潰されてしまうらしい。

 教授たちの話し方から。

 それはとても嘘には思えなかった。

 大の大人たちがこそこそと集まって不安げな顔でそんなことばかり言うなら本当なのだろうと思った。

 志賀は早速引っ越しすることにした。

 でもその前に、両親が持っている財産を自分のものにする必要があった。

 だから最初は教師たちが話していた株を購入することにした、そして時期が来るとその株を高値で売った。

 株の取引で手に入れた金はそれなりにまとまったものだった。

 志賀はその金を使って自分の生活に必要なものは買い揃えた。

 急いで就職しようと思わなかった、何の職業なら将来得意なのか考えていた。

 一番良いのは医学だが、自分の能力が足りないことには気がついていた。

 彼は思い立って、その教授の住所を調べて何度も足しげく通った。

 ごくありふれた一軒家だった。

 教授がいて奥さんがいて娘がいる。

 よくある普通の核家族。

 何度もストーキングした。

 来る日も来る日もやがてその家族の情報も収集していた。

 友人関係、家族関係、どこの中学校に通っているか、そして教授の次の引っ越し先もそれに合わせることにした。

 何とかくっついていくことで、うまいこと立ち回れると思った。

 実際それは成功だった。

 偶然と幸運が味方した。

 教授は彼を気に入ってくれた。

 外食に誘ってくれることもあった。

 家族に紹介してくれることもあった。

 だけどいつも彼の心の中にはどす黒いものが渦巻いていた。

 あくまでも教授は目的を達成するための手段でしかなかった

 関係が深まり、食卓に招かれた時でさえ、その陰りは収まらなかった。

 笑顔で取り繕って本心を隠した。

 貧乏揺すりしそうな足を必死で抑えた。

 気に入られようと必死だった。

 そのために娘にもプレゼントを送った。

 教授はいつも難しい本ばかりプレゼントするから、テレビゲームをプレゼントされたことがとても嬉しい。

 そんなことを言ったのを今でも覚えている。

 ものすごく間抜けな表情だった。

 志賀はその娘が大嫌いだった。

 深い悩みもなく、毎日幸せそうに暮らしている。

 いつも笑顔だ、それを見るたびに心の中にどうにもならない焦燥感と暴力衝動が渦巻いていた。

 鼻っ柱に拳をぶつけたくなった。

 その娘に対してだけは胸の内をかき乱された。

 理由もなく嫉妬していた。

 羨ましくて仕方がなかった。

 自分が努力して手に入れるものを、その家に生まれついたと言う理由だけで、黙っていても手に入るのだ。

 何もしなくても全て揃っていた。

 教授はすっかり自分を信頼してくれていた。

 極秘情報もいくつも教えてくれた。

 そしてそれは、話せば話すほど。

 志賀への依存傾向が見て取れた。

 教授自身も話す相手がいなかったためだ。

 帰り道や居酒屋で話すことがストレス発散になっている事がわかった。

 結局のところ、脆い人間なのだと思った。

 だからこそ付けいる隙が大きかったのだ。

 もう、かわいそうになるくらいに。

 精神状態がすり減っていたのだ。

 おまけに酒が入ると酔ってしまうタチだった。

 それが一番志賀にとって好都合だった。

 そのたびに自宅まで送って奥さんと娘にお礼を言われるのだった。

 日に日に家族との関係性が縮まっていった。

 自分自身でも必死に生きる術を磨いた。

 クライマックスに向けてサバイバル術はもちろん。

 医療、応急処置、格闘術。

 野菜の育て方。畜産業の知識。心理学。恋愛のテクニック。

 役に立ちそうなものは片っ端から集めていた。

 やがて時が来ると引っ越すことになった。

 志賀は行く先も特に無かったので、教授の家に居候する形になった。

 関西での新生活は楽しかった。

 みんなが平和に暮らしている中。

 常に優越感を味わっていた。

 教授の家は、住み心地がとても良かった。

 こんな日が続けば良いとさえ思った。

 そしてついに、崩壊の日がやってきた。

 最初は震災程度だった。

 たかが数百人死んだだけだ。

 テレビの画面を白けた気持ちで眺めていた。

 やがてそれが波及していく。

 食糧難になり。

 生きる術を失い。

 自殺するものまで現れた。

 それは近所にも及んでいた。

 次々と死人が出ていく。

 志賀はほくそ笑んでいた。

 全てが始まった。

 教授の家族たちがバラバラになる日。

 あの日、暴徒で町があふれかえった。

 それは日本の出来事だと思えなかった。

 外国人だった、中南東系の浅黒い肌の連中。

 彼らは残酷な行為に対して躊躇が無い。

 野蛮人という言葉がよく似合った。

 さすがの志賀も恐ろしくなった。

 百歩譲って日本人を攻撃するのはわかる。

 同族の、それも女子供にまで平気で手をかける場面を見てしまった時は血の気が引いた。

 汚らしいスラングを嬌声で浴びせなら。

 街は大混乱に陥っていた。

 下手に逃げ出すよりも、教授の家の隠しスペースにみんなで身を隠してる方が安全だった。

 水も食糧もたくさんあったから、向こう二年間は十分に籠城できた。

 ある日のこと。

 暴徒が教授の家の近所にまで攻め込んでいた。

 ボウガンを構えて息を殺していた。

 ここさえ乗り切ってしまえば暴徒たちは別の街に行くのだから。

 この日だけを乗り切れば後は何とかなる。

 奥さんの腕の中で震えている娘を見て、ざまあみろ。と思った。

 何度も何度も罵声を浴びせた。

 お前は特別なんかじゃない。と。

 志賀自身も怖くて苦しくて震えが止まらなかった。

 それでも、一歩一歩計画に向かって進んでいる。

 それでいい。それで……。

 だけど事態は予想外に動いた。

 突然苦しそうなうめき声が聞こえた。

 娘だった。

 過呼吸を起こしていた。

 この娘はこんな肝心な時にヘマをやらかす。

 それを奥さんが大袈裟に騒ぎ出してしまった。

「こんなになったのは初めてなの!」

 大声で叫んでいた。

 志賀は慌ててビニール袋を用意して、娘に深呼吸するように促した。

「静かにしてください!」と奥さんに注意した。

 すると、母親は大きな声で泣き始めていた。精神的に限界を超えてしまったのだ。

 発狂している状態に近い。

 頭を抱えたくなった。

 殴って黙らせるべきだった。

 見切りをつけた。

 手近にある金槌を手にしたとき。

 頭上でドタドタという音が鳴り響いた。

 教授がキョロキョロと頭を上に回した場面までは覚えている。

 そこから先はカオスとしか言いようが無かった。

 乱闘。

 掴まれている場面。

 いや、自分が一方的に掴んでいるのか。

 志賀は初めて人にクロスボウを向けて撃った。

 多分、相手は命乞いをしていた。

 別にかまわなかった。

 何の躊躇いもなかった。

 腹に矢が突き刺さっていた。

 ほじくり返そうとして余計に傷が広がっていた。

 違法に改造したモデルガンを乱射した。

 パスッパスッパスッというマヌケな音がした。

 メキシコ人の腹や腕に穴を開けた。

 ゴリラのような男が子供みたいに泣き叫んでいた。

 顔に割れたガラス瓶を突き刺した。

 頬が破れて歯が剥き出しになった。

 奥さんはいつのまにか死んでいた。

 どうして死んだのかは把握できなかった。

 今でもわからない。

 娘のことはさっぱりわからない。

 いつのまにか消えていた。としか答えられない。

 倉庫ごと燃えていた。

 気がつくと庭に出ていた。

 火を放った男を殺した。

 やり方はもう覚えてない。

 大量のアドレナリンが出て。

 相手を殺すことに異常な高揚感があったような記憶はある。

 恐怖でタガが外れたのか。

 あるいは快楽だったのかさえもわからない。

 時系列もバラバラだ。

 断片的にしか覚えていない。

 忘れることで精神を守ったのだと思う。

 慌てて車に飛び乗った場面からは思い出せる。

 教授を押し込んでいた。

 別の街に向かうしかなかった。

 途中大きな石をぶつけられた。

 二回目の投石は人の身体の一部だったかもしれない。

 車内にまで衝撃が響いた。

 あとで確認すると血のりがべったりくっ付いていた。

 座席のクッションに隠していた非常用クッキーを食べながら向かった。

 教授は死んだようになってしまっていた。

 自分なりに体を検査したが、外傷は無く、心が壊れたのだと思った。

 小さなセダンで二人はゆっくりと街に向かった、そこでは自分たちが歓迎されてるのがわかった。

 教授はショックで黙り込んでいた。

 布団をかけられて。

 しばらくは元に戻らなかった。二ヶ月経って、六割程度の回復しかしなかった。

 だから自分が代わりに指示を受けて彼らに伝達した。

 ある日、教授は衰弱して死んだ。

 食べ物が十分あったのに、食物を受け付けなくなってしまったのだ。

 看護婦が口移しでスープを飲ませたが吐かれてしまった。

 精神が崩壊してしまったらしい。

 大量の食べ物に囲まれながら衰弱死してしまった。



 必然的に志賀が全てを受け継いだ。

 みんなの味方をしていれば、自分の身を守るのにも、立場を上げるのにも、スキルを学ぶのにも、全てにおいて都合が良かった。

 それなりに必死で働いてるのに。

 自分の利益に変えていると何度も噂されていた。

 自警団には元自衛隊のものがいた。

 すでに街の外にまで伝わっていた。

 だから、暴徒が襲ってくることもほとんどなかった。

 武器でさえ、町で見かける狩猟の散弾銃などではなく、軍用のアサルトライフルや自動拳銃。防弾ベストさえあった。次元が違っていた。

 自分の出身地の情報は耳にも入っていた。

 スラム街と言われるようになっているらしく、誰も寄り付かなくなっている、と。

 きれいな服や清潔な部屋。

 ある程度特別扱いしてもらえた。

 立場が逆転していた。

 今の自分は上流階級と言っても過言ではなかった。

 足は結局元に戻っていた。

 だけど、明かすことなく隠していた。

 そうすれば嫌な仕事から逃れられるからだ。

 やがて、瀬名明菜と知り合い。結婚した。

 瀬名は本気なのはわかるが。志賀としては、あくまでも戦略としての交際だった。

 瀬名は美人で周りの人間に信頼されているから、都合が良かった。

 性欲の解消と交渉の道具に使えた。

 そこに甘んじてもよかった。

 その方が幸せに暮らしていけるのは間違いが無かった。

 あえて茨の道を進むメリットも薄かった。

 だけど、この程度で終わらせるつもりもなかった。

 あくまでも目的は世界を終わらすことだった。

 それは、志賀にとっては初めてできた人生の目標だった。

 だけど、あの娘が生きているという情報を得た。舌打ちをした。

 その娘を連れて戻らなければ、面目が立たない。

 教授の愛弟子として。責任を果たす必要がある。

 少なくともポーズだけでも取らなくてはならない。

 体裁を保つ為にも、保護する者を雇う必要があった。

 その中で適切な者を選んで送り出して、誰も文句が言えないようにするしか無かった。

 その中で、一人の女がいた。

 女性としてはやや高い身長。異例な経歴。意外なほどの美貌。

 そしてなにより不吉な雰囲気を感じていた。

 黒いロングコートの妙な姿。

 最初は単なる好奇心だった。

 この女に頼もう。

 自然とそう決めていた。

 不思議なのは瀬名もそれが良いと思っていたからだ。

「この人なら、きっと大丈夫だと思う」

 女は女に冷たくするものだと思っていたが。

 瀬名は玲奈を推薦していた。

 安心できるから。と。

 逆に、別に雇った男達の評判は散々だった。

 捜索が始まる前から文句を言われた。

 交際を始めてから、ここまで言われたのは初めてだった。

 そして実際のところ、前金を与えたら持ち逃げされてしまった。

 旦那である自分の本性は見抜けなかったのが不思議で不思議で仕方なかった。

 帰ってきた紫音の話を聞いていて、ぞっとした。

 あの女は何なんだろうと思った。

 何のメリットもなく。

 何の見返りもなく。

 なぜ出会ったばかりの少女を救ったのかが理解できなかった。

 命の危険を冒してまで、救うような気持ちになるものだろうか。

 あの娘は何なんだろうと思った。

 なぜずっと笑っていられるのか。

 どうしていつも周りを明るくさせようと奮闘できるのか。

 最初は無垢な子供を演じることによって周囲から助けてもらおうと言う算段なのだろうと思っていた。

 だけどそれにしては、いくらなんでも忍耐力が異常だった。

 その精神構造の方が遥かに恐ろしかった。

 自分もそれなりに狂ってると思っていた。

 この世界が存在する時点で存在する時点でまともにはなれないのだ。

 だけど上には上がいたような気がした。

 色々考えていたが、その二人のことは同性愛者だと結論付けることにした。

 それはあながち間違いではないはずだった。

 女の方は共依存を望んでいる。

 非力な者を救うことでしか自分の価値を見いだせない。精神的に脆い存在なのだ。自分で自分を肯定することさえ出来ない。

 娘のほうはもっと単純だ。

 ただの馬鹿なのだ。

 ショッキングな出来事から自分の心が壊れないように明るく振舞う。意図的に躁状態になってるに違いない。道化を演じている。

 絶望的に馬鹿なクソガキと絶望的な状況のイカれた女が出会って。歪んだ共依存をしている異常者でしかない。

 ほとんど錯乱状態に近い形で、本人たちもその自分たちの狂い具合に気がつかず、何人もの人を殺しながらここにたどり着いたのだ。

 そして目の前で感動の再会をしようとしている。

 とんだ茶番劇だと思った。

 早く終わらせてやりたいと思った。

 煩わしいから、目の前から消し去りたい。

 そう考えていたけど、また別の道があることも考えていた。

 あの二人の行き着く先。

 自分だと、どうせ持て余してしまう。

 それなら、きっと……。

 違う楽しみ方があるんじゃないか?

 志賀は一人で笑っていた。

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