痛みと孤独

 強烈な寒気と目眩。そして耳鳴り。

 目が覚めると最初に感じたのはそれだった。

 冷たい泥の中で溺れかけていた。

「しおん……」

 ぶくぶくと口元で泡が立つ。歯の間で砂がじゃりじゃりと動いた。

 氷水のような雨に打たれており、全身が水浸しだった。

 ひっくり返るように、寝返りをうつと、身体が沈み落ちそうになる。

 気を失っている間、あと少し口元がズレていたら、きっと泥水を飲み込んでしまって溺死していただろう。

 手をつこうともがく、無様な体勢で沼の中を掻いていった。

 手に、何かが当たった。それはジャガイモだった。いつのまにか畑の中に移動していたらしい。腐り切って食えた物ではなかった。

 頼り無い足で立ち上がり。あてもなく、ふらふらと歩いていく。

 何かを足に引っ掛けてすっ転んだ。

 派手に水飛沫が上がる。

 最初はダイコンか何かだと思った。苛立たしく振り返ると、目を見開いた。悲鳴をあげそうになった。

 それは人の死体だった。おそらくは大人の男のもの。

 辺りを見回すと、異様な光景に今更気が付いた。

 大量の死体に囲まれていた。

 周りにはそれしか無かった。

 冷たい水に当たっているせいか、まだ腐ったりしていない。

 それがまた生々しく、今にも動き出しそうな臨場感があった。

 気がつくと嘔吐していた。何の前触れも無く。ただ、胃液だけを吐き出していた。

「紫音!」

 叫んだ。

 口の端から吐瀉物を垂らしながら叫んだ。

 もちろん返事なんか無い。

 もしかして、もう死んでいるのか。

 そう思っただけで、絶望的な気持ちになる。

 目の前が真っ暗になる。

「紫音!」

 もう一度叫んだ。

 喉が潰れたみたいに声がまともに出ない。

 怪物が大声を出しているような、くぐもった音だけが喉で鳴り響いた。

「紫音! どこなの?」

 叫び声は雨の音で掻き消された。

 叫んでる自分にしか聴こえていないのがわかる。

 パニックになるのに、叫んだり暴れたりするような気力さえ無くなっていた。

 目に熱いものを感じた。気が付いたら泣いていた。すぐに雨で洗い流される。

 雨に打たれながら大声で泣いていた。

 何から手をつければ良いのか分からない。

 そんな状態で停止してしまった。

 ようやく、思い直して。

 泥の中を芋虫みたいに這いずりながら、まともに立てる場所を探していた。

 辿り着いたのは団地の廊下だった。

 意識は朦朧としていた、手の感覚が一切感じられない。代わりに自分の心臓の鼓動だけで倒れそうになる。

 全ての感覚が狂っていた。体中弱りきっている。

 団地は崩壊していた。

 それでも、まだ使える部屋はあった。

 鍵さえもロクにかけられていない部屋を見つけて、すぐさま入った。

 濡れた衣服を全て脱いで、そこにあったジーンズとトレーナーに着替えていた。下着は使用していない。

 明らかに発熱していて。身体中から力が抜け落ちていた。

 布団に入ると、頭が働かなくなった。

 命に関わるほどに衰弱していた。四十度は軽く越えているのは間違いが無かった。

 吐く息がすごく熱い。

 身体中が筋肉痛のように熱い。

 ムチ打ちなのか首元もかなり痛めていた。

 骨が折れていないし、関節が抜けてないのはかなり奇跡的な状況だった。

 布団の中で激しい頭痛やめまいで喘ぎ声を上げていた。

 殺して欲しいと願うくらいに激痛が駆け巡った。

 自分で自分の腕を噛んでいた。皮膚に穴が開くまで、自傷行為になってることも気が付かなかった。

 涙が流れる程の苦痛だった。

 耐え切れずに気を失った。何度もうなされていて。ほとんど無意識のうちに天井に向けて手を合わせて祈っていた。念仏さえ唱えていた。錯乱状態が続いた。

 団地の人間達が恨めしそうな顔をしてこちらを睨んでくる。怨念に満ちた声で「人殺し」と責め立ててくる。

 復讐しようと手を伸ばしてくるイメージが振り切れ無かった。

 自分は彼らの人生を破壊し尽くした。

 不可抗力だったとしても、彼らにとっては言い訳にもならない。望むのは自分の苦しみと死だけだ。

 ここで死者のために祈らないと自分まで地獄に引きづり込まれてしまう。

 祈ることで魂を天へと上げなくてはならない。生きている自分が安らぎを与えなくてはならない。

 そんな妄想が頭から離れなかった。

 肌の一部は軽い火傷を負っていて、今でも鈍い痛みを訴えた。

 あの赤い炎が広がる様が心理的な外傷になったのは自分でもわかった。

 高熱の中で、団地の人間の怨霊と、灼熱の炎が何度も歪に姿を変えて、断続的に責め立ててくる。

 夢の中で何度も怨霊が現れて、あの世へと連れ込まれそうになっていた。

 それこそ永遠の苦しみが続いていた。

 スウェットが汗で水浸しになる。取り替えると素肌に風が直にあたり。寒さで凍えた。それだけで震え上がり、体調をまた激しく崩した。そんな悪循環を繰り返していた。

 峠を超えて、動けるようになると、乾いた喉を雨で潤した。茶碗を使って水を溜めた。

 少しでも早く治す必要があった。

 空腹を耐えて。微動だにしなかった。動かない方が治りが早くなる。眠っていれば傷が癒える。

 排泄以外は動かなかった。尿瓶代わりに使った洗面器には血が混じったような尿が流れ出ていた。

 強いアンモニアの匂いがした。

 時にのたうちまわりながら、苦痛に耐えていた。

 途中、おかしな夢を見た。

 夢の中の玲奈はボイスレコーダーを握っていた。再生ボタンを押すと、お風呂の音が聞こえてくる。

 紫音と入浴した時の。あの場面だった。

 あの時の音声が再生されているのだ。

 そのやり取りの音声だけが救いだった。

 再生した。何度も。何度も。

 頬を涙が伝わった。

 胸の内が掻き乱された。

 横になり、悶え苦しみながら。何度も涙を流した。耳の中に涙が溜まるほど。嗚咽していた。

 誰かからずっと欲しかったもの。その言葉。

 願っていたもの。震えるような悦び。

 頭の中が熱くなり。どうにかなりそうだった。

 瞼を閉じても開いても紫音のことが思い浮かんだ。

 泣くことでしか自分の苦痛を和らげる方法がわからなかった。

 金切声で泣き叫んでいた。喉が潰れるほどに、自分の苦しみが癒えていくのを感じていた。

 一生懸命マッサージをしてくれる時。

 車の中で共に星を眺めている時。

 狭い和室で演技のコツを教える時。

 チョコレートを咥えながら不貞腐れた声を出す時。

 手を引っぱって海に走り出す時。

 浴槽の中で泣きながら抱きつかれた時。

 怯える自分に優しく手を差し伸べてくれた。

 あの子が……。

 あの一件から、初めて見た悪夢以外の優しい夢だった。


 ようやく、雨が止んだ。

 雲一つ無い、快晴だった。太陽の光を直で眺めていた。

 夕暮れの中、西日に照らされて、畳の部屋でただゴロンと眠っていた。

 気を失っているような状態。病み上がりで抜け殻のようになっていた。

 放心したように、天井の一点を見つめていた。

 そんななか、足音がした。

 忍足で近づいてくる気配がする。

 恐怖が現実に変わったような気がした。

 怨霊が近寄ってくる。

 玲奈は震えていた。



「なんだ、ここにいたのか」

 男は散弾銃を構えていた。

 銃口をこちらに向けてくる。

 その冷たい悪意に身動き一つ出来なかった。

「おい、お前。あの女だよな?」

 脱衣所まで這いずって避難した玲奈を男は上から見下ろした。

 その顔には見覚えがあった。玲奈と同い年くらいだろうか。

 いつだったか、トラウマを抱えた女の子の恋人だった人だ。何度も話したことがある。

「お前がやったんだよな、まだここにいるとは思わなかったよ」

 散弾銃をゆっくりと近づけてくる。

 上下二連の二つの銃口が目の前にまで差し出される。こんなもので撃たれたら自分の頭部など、粉々に粉砕される。

「ちがうの……わたしじゃない……」

 幼い声で弁明するも、それが効果がないことは分かりきっていた。

「もっとマシな嘘を言えよ」

 青年は言いながらも震えていた。

 暴力を振るうこと、それに慣れていないことは明らかだった。

 怒り以上に、人を傷付けることに抵抗がある。

 やるならとっくにやっているのに。脅して玲奈の反応を見ている。

 銃口で頭を小突かれていた。頭蓋骨に鉄の塊がぶつけられる。

「まって……わたしはちがうの……」

「嘘だよ! お前がやったんだよ! 夏美のこともお前がやったんだ!」

 青年は言いながら、涙が頬を伝っていた。

 嗚咽を上げ、壁にもたれかかって、力を失ったように崩れていく。それでも銃口はしっかりとこちらに向けている。

 あくまでも殺すつもりなのだろう。

「ごめんなさい……わたしじゃありません……あんなことしません……おねがいです……やめてください……」

 つられて涙を流していた。玲奈も。

 肩を震わせながら、スウェットの袖で涙を拭いていた。腕を交差させて自分の身を庇っていた。

「ごめんなさい……ゆるしてください……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 最後の方は叫び声に近かった。

 一度セキがきれてしまうと、もう止まらなかった。泣くことに歯止めがかからなくなる。

「あぁ……っ、あああ……やぁぁ……」

 涙と鼻水と涎で端正な顔が崩れていく。

 顎の先からそれらが混ざったものが滴り落ちていく。

「……おい、何言ってんだよ?」

 青年の方も、事態がわからず。困惑するばかりだった。

「ゆるして……ゆるして……あぁ、あああ……!」

 玲奈が身を庇うように身を捩った。

 スウェットがひっくり返る。

 その手には隠し持っていた、料理包丁があらわになった。

「はあ……。おまえ何がしたいんだよ、俺が馬鹿みたいじゃんかよ……」

 青年は悪態をつくと、散弾銃を手放した。

「ゆるして……ゆるしてよ……ひぃ、ひぃぃぃっ……」

 顔を真っ赤にして泣きじゃくる玲奈を、青年は呆然と眺めていた。

 部屋全体に泣き声が響いていた。

「ごめんなさいぃぃぃ……ごめん……なさいぃぃぃ……」

 玲奈は包丁をもう一度握りしめると。

 泣きながら、青年のことをまたいで、よたよたと歩いていく。

「あぁぁ……。ああぁ……。うぅぅぅ……」

 玲奈は歩きながら失禁していた。尿が廊下に流れていく。ダボダボの服装で、裸足のまま、玄関から出ていった。

「なあ! 俺はどうしたらいいんだよ! こんな世界で俺はどうしたら良いのか教えてくれよ!!」

 青年は哀願していた。金切声で絶叫していた。

「紫音にあいたい!」

 そうヒステリックに叫び、泣き叫んでいた。

 何処かへと消えていった。

「…………ふざけんなよっ」

 暗い部屋の中で、青年のすすり泣きだけがいつまでも聞こえていた。





 震える手で車を運転していた。

 街まではさほど離れていない。

 地図を確認したが、一時間半ほどで到着出来る。

 そこで、紫音の捜索依頼を出した方が早い。

 自分の手では、探し出せない。

 アスファルトの道はそれほど劣化しておらず、移動自体はスムーズだった。

 それでも、車はガソリンが切れてついに動かなくなった。

 途方に暮れてしまう。座席の上で呆然とする。まだまだ遠いのに。病み上がりだというのに。

 容赦の無い現実に打ちのめされていた。

 諦められず、何度も鍵を回してみる。

 それでも車は動かなかった。

 座席の上で呆然としてしまう。

 諦めて歩き出すしかなかった。

 おぼつかない足取りでアスファルトの上に足を下ろすと、のろのろと歩き出した。気が遠くなる。

 記憶力は良い。

 暗闇の中でも道すじを正確に思い出していた。出発した時の記憶を逆再生していく。

 時々、野鳥の鳴き声が聞こえる。

 蝙蝠も飛んでいた。

 夜が怖い。

 今まで一人で生きてきたのに。今更になって恐怖を感じていた。

 上着も何も無くて、心細かった。

 幸い風が弱く。身体が冷えすぎることはない。

「ここ……怖い……」

 気がつくと弱音が出ていた。不安そうな顔を隠せずに周囲を見回す。

 どこもかしこも闇ばかりが続いている。

 暗闇の中から幽霊の手が出て来て、復讐を果たそうとする怨霊がやってくるんじゃないかと。不安で仕方なくなっていた。

 あの世へと手招きされてるような不安感。

「し……おん……」

 よたよたとした足取りで歩くしか無い。

 五時間もの間、歩き通していた。

 足はズキズキ痛んだ。明らかにマメが出来ていた。足首の関節のクッションも痛み出している。

 気がつくと、閑散とした街に到着する。

 まるで、昭和の写真を連想するような古びた街だった。

 おそらく方向は、あっているのだと思う。

 だけど、これ以上歩く気力はどこにもなかった。

 ゆったりと、腰を下ろしていた。

 これ以上動いたら、電解質不足で本当に死んでしまう可能性もあった。

 どちらにしろ、休んだ方が良い。

 本当は動き出したいが、死んでしまったら可能性はゼロになる。

 座り込んだのは。

 古びた自動販売機の横だった。

 体力を使い果たしてしまっていて、寝そべりようにシャッターに背中を押していた。

 おそらく、元は布団屋さんか何かだったのだろうと推測していた。

 その自動販売機は古びていて、サビや汚れが激しかった。中には大量の虫たちがうじゃうじゃいるかもしれない。

 そう思うと、怖くなって。別の場所に移動することにした。

 突然フラッシュバックする。

 もし、人類に食べ物がなくなって、世界中の人間が、ゴキブリを奪いあって殺し合う世界になったら……。

 もう一度自動販売機を振り返っていた。

 たしかにそんな話を、紫音がしていた。

 あの時は悪趣味だと思っていたけど。

 団地の人たちを見ていると、そういう行為があったとしても何もおかしくは無い。

 まるで予言者だったな。と思う。

 急に懐かしくなって、一人で苦笑していた。

 ああいう話をできるのは、紫音の好きなところだった。また、ああいう話を聞いてみたい。

 よく見ると足元には、板チョコレートの包み紙が散乱していた。

 そういえば、紫音もチョコレートが大好物だった。

 いつだったか、口の中にチョコレートを放り込んだことがある。

 紫音は喜んで食べていた。

 アンティークな雰囲気の美容院には、シーグラスの置物が置かれていたり。貝殻が瓶に詰められていた。

 二人で、砂浜で城を作った記憶がある。

 一緒に魚を焼いて、二人で食べていた記憶がある。

 その時の自分たちは、姉妹に間違えられていた。

 それくらい仲良く見えたのだろうか、親しい間柄に見えたのだろうか。

 きっと、そう思ったに違いない。

 近くには小さな高校があり、よたよたした足で校門まで来ていた。

 その近くにはさらに、ラーメン屋があった。

 味噌ラーメンととんこつラーメンがメニュー表に書いてある。

 その隣にはケーキ屋がある。フルーツを使ったタルトの写真が載っている。

 もし自分が、普通の人生を送っていて。

 紫音と学校で出会っていたら。帰り道にこんなところに寄っていたかもしれない。

 本屋で、そこで紫音の祖父が書いた、地質学の地震に関する本を一緒に読んでいたかもしれない。

 質問されると、紫音本人は何も読んでいないから、はぐらかされて会話が全然別のものになっていたり。

 その場のノリで一緒にカラオケに行ったりしたのかもしれない。

 適当なポップスを口ずさんでいたのを思い出す。

 何曲かは玲奈も知っているような曲だった。

 気が付いたら、真似をしてメロディを口ずさんでいた。

 部活動にも入って。

 購買で昼食を購入したのかもしれない。

 そんな楽しい、学校生活を送りながら。

 幸せに暮らしていたのかもしれない。

 普通の人が、普通の人生を送る、そんな当たり前の幸福が自分にもあったのかもしれない。

 紫音自身も高校は中途半端にしか通えなかったと聞いていた。

 もし、順調に進んでいれば、再来年は大学生になっていた。

 二人で楽しく暮らしている映像が自然と浮かんでくる。

 それも鮮烈に浮かんで来る。

 あまりにもはっきりとイメージ出来るから、それが現実のようにさえ思えてくる。

 今までの人生は全部嘘なのかもしれない。

 本当はこの空想の世界が本物の世界なのかもしれない。

 いつのまにか想像力だけが飛躍していく。

 疲労のあまり頭が働かない。

 血が回っていない。

 思考が出来なくなっていく。

 それなのに、妄想だけはやめられない。

 目を瞑るたびにイメージが浮かんでくる。

 日が沈んでいく。

 ふらふらと、空き家の中に入っていくと。

 見覚えのある仏壇が置かれていた。

 ああ、ここの人も信者だったんだ。

 ぼんやりとした頭で思った。

 それは、新興宗教の仏壇だった。

 仕事をしていく中で、何度か見たことがあった。

 自分に暗殺の手解きをした人間も入れ込んでいた。

 独特な死生観を持つその教えは、あまり好きになれなくて。

 ほとんど関心は無かった。

 それでも、念仏だけはよく覚えていた。

 一緒によく唱えていた。

 引き出しに手をやると、案の定、ロウソクが無数に置いてあった。

 名札が入っているピンクの皮のケースから。小さな火打石を取り出した。迷子用の記入欄はぐちゃぐちゃになっており、慎重に取り出すと仏壇の一部に乗せて乾かすことにした。

 何回か擦って火を起こした。

 ロウソク立てにそれを差し込んでいく。

 部屋の中で寝泊まりできてように整理整頓した。

 部屋の中には小説が置かれていた。

 ふと、思い出す。

 車椅子の老人と介護する青年のことを。

 図書館で寝泊まりするかと思いきや、思わぬ出会いと別れがあり。結局車の中で泊まることになったことがある。

 いつだったか、そういうふうに夜を過ごしたことがある。

 鏡に映ったカラスが天へと舞い上がる光景。

 過去や空想に想いを馳せると。

 とめどもなく、過去の情景が思い起こされる。

 児童養護施設で暮らしていたこと。

 トレーニングが続いていたこと。

 初めて武器を手にした時の重み。

 他人の命の軽さ。

 昼間の街の人々を眺めながら、次の仕事に取り掛かっていたこと。

 そして、突然来た大地震。

 全てを投げ出して逃げ出したあの日。

 冷たい雨に打たれながら、廃墟を駆けずり回っていたこと。

 罪滅ぼしのために生きると必死で願って泣いている時。

 どれもこれも苦しかった。

 あれだけ苦しい人生だったのに。

 苦しい思いばかりしてきたのに。

 生まれてきたことさえも後悔していたのに。

 紫音と出会ってから。

 変化が生まれていたこと、いつのまにか、希望が見出せるようになっていた。

 それだけでも十分楽しい人生だったと思う。

 その時間だけは本当に楽しかった。

 もともと、自分で命を絶って、すぐにでも人生を終りにしたかった。

 それも結局出来なかった。自分だと未練があって出来なかった。

 解放されたがっていたのに。

 ようやく手に入れた自由は恐怖でしか無かった。

 ずっと心のどこかで楽になれた自分の姿をいつも妄想していた。

 死者に対して、手を合わせたり、赤の他人の遺体を火葬したりしていたのも。

 死ぬことそのものに対して憧れのような気持ちがあったのだと思う。

 先に旅立った死者を弔うことで。

 自分も天国のような場所に行けることを確認したかったんだと思う。

 漠然とした憧れがあったに違いない。

 そう信じ込んで、今いる世界を忘れたかった。

 楽になれるならどれでも良かった。


 そういえば、団地の人たちと過去のことについて話し合っていた。

 本当は、その輪の中に入ってきちんとお互いの悩みを話し合いたいと思ったけど。

 自分のは偽らないとダメだと思った。

 誰かと話してみたいと願っていた。

 話したいことは沢山あるし。

 その人の人生を聞いてみたい。

 一緒に体験してみたい。

 同じ体験をして、そのことで話し合って。同じように笑ってみたい。

 そんな願い事が紫音といると叶っていた。

 長年の思いがようやく救われた。

 このゴミまみれの、古びた街を見ていると、今生きていることも、決して悪いことではないと思うようになっていた。

 きっと、最悪の状況なのに。

 もう、紫音はこの世からいなくなっているかもしれないのに。

 すでに、別の人間に生まれ変わってるのかも知れないのに。

 街のいたるところに、紫音を連想させるものがあった。

 それは、どこにでもある光景を自分が勝手に紫音の記憶と結びつけているだけなのに。

 無数の思い出が目の前に現れたかのようで、感情を抑えられなくなっていた。

 あの出会いが、自分の人生を完全に別のものに変えてしまっていた。

 生きていることなんて辛い事しかないのに。

 いくつもやり残したことが思い起こされる

 そういえば、紫音の子供時代の事は何も聞いていなかった。

 自分は話したのに、聞き損ねていた。

 今度会ったら、そのことを聞かなくてはならない。

 だから、今、会いたい。

 今度二人で、お互いのことを改めて自己紹介したい。

 そんな幸せな空想は、いつまでも続いていた。

 どれだけ想像しても、その感情を味わっても、飽きることはなく、時間が許す限り、それを続けていることにしていた。

 思い出だけでも出来て良かった。

 このままいっそのこと、空想の世界に行ってしまおうか。

 過去に浸り続けて、余生を過ごすのも悪くないかもしれない。

 おそらく紫音は死んでいる。

 諦めたほうが早い。

 それでも、会いたい。

 何が何でも、どうしても諦められない。

 いつも、死者に対して手を合わせてきた。

 だけど、今は別のことで手を合わせることにした。

 窓を開け、空を仰ぐとすでに月が見えていた。

 夕暮れ時だった、あの団地の最後の日よりも、青みがかったような空で。

 空気が澄んでいるのか、星も月もよく見えた。

 あの日以来、いつも綺麗な夜空が見える。

 今日は空気が澄んでいるから、一段と輝いて見えた。

 今なら、どんなに優しいお願い事も叶う気がする。

 天まで祈りが届くんじゃないかとさえ思った。

 それを眺めていると、どことなく救われるような気持ちになっていた。

 きっと、また会える。

 この世界では会えなくても。

 霊魂だけの存在になってしまっていても。

「紫音に会いたい。神様、どうか、会わせてください。お願いします」

 目をつぶってしっかりと祈っていた。

 その時だった、どこからともなく、エンジンの音が聞こえてくる。

 玲奈の体が震えていた。

 激しく震え始める。

 それでも、すぐに身体に力を入れ直す。

 つかまってしまうと、今度こそ本当に命を落としてしまう。

 そうなると、本当にチャンスがなくなってしまうかもしれない。

 ヘッドライトがいくつも現れる。

 影絵のように男達が動き回るのを見つめていた。

 少しでも動こうとするが、既に身体には力が入らなくなっており。

 動こうとすると、バタリと倒れてしまった。

 身体が完全に動かなくなっていた。



 どうやって見つけたのだろうか。

 一人の男が部屋まで入ってきたのだ。

「おいお前!」

 その声に身を震わせる。その方向に顔を向ける。

 オリーブ系のミリタリージャケットの格好をした男だった。

 警棒を構えながら玲奈に近寄ってくる。

「ここで何をしている?」

「……道に迷ってしまって」

 ようやくそれだけ言えた。

 思考がまとまらない。

 もっと他に上手い言い訳があったはず。

「お前、顔をこっちに見せてみろよ」

 懐中電灯の光を受けられて、目を細めた

 まぶしくて仕方がなかった

 怖くて仕方がなかった。

 手が震え出す。

「大丈夫なのか? えらくやつれているな」

 そう言うと、男は玲奈に毛布をかけていた。

「あんた、あれだろ? 志賀さんの知り合いだろ?」

 その言葉に玲奈は頷きかえす。

「ちょっと待ってて。食べ物とか持ってくる」

 その場から動くことは許されない代わりに、水の入った水筒を渡される。

 それを飲み込んでいると。今度は非常用のクッキーを渡されていた。

 貪るように食べ始めていた。

 思わず咳き込んでしまう。

「ゆっくりたべなよ」と言われるが。その言葉は耳には入らない。

「歩けるか?」

 そう聞かれる。

 ボーッとした頭で、頷いていた。

「志賀さんがあなたに会いたいと話されていますよ」

 別の男が話していた。


 満月が輝く暗闇の中。車体から現れたのは志賀だった。

 スーツの上から黒っぽいコートを羽織っている。

 一方の玲奈は灰色の破れたスウェットにジーンズだった。

 その姿を見て、志賀は怪訝な顔をした。

「鳥宮さんなのか? 姿が変わりすぎてて驚きました」

 泣き腫らした目は赤く充血し、スウェットの袖には鼻水やよだれがなすりつけられている。尿の匂いがした。汗の匂いも酷い。

「……ごめんなさい、こんな格好で」

「いえ、とにかく無事で良かったです」

 志賀は近寄った。

「紫音が…………」

「紫音さんならうちで預かっていますから、ご安心ください。それより、今はあなたの方が大変なんじゃないですか?」

 その言葉で玲奈の目に光が僅かに戻る。

 血走った目が見開く。

「紫音が無事なんですかっ?」

 玲奈は志賀ににじり寄るように歩き出していた。

 近くにいた男が怯えて後ずさる。

 異常なほどの気迫に志賀の表情が強張った。

「ええ……ええ、大丈夫です」

 それを聞いた玲奈が安堵から涙を浮かべていた。



 その車は、志賀が運転することになった。

 後部座席ににいる玲奈に、志賀はペットボトルを差し出した。

「疲れていると思って。とにかくこれを飲んで落ち着いてください」

 それは、追加で差し出されたスポーツドリンクと非常食のクッキーだった。

 玲奈はそれを受け取ると一気に飲み干した。

 クッキーも一気に貪り食べた。

 いくら食べても食べ足りなかった。

 飲まず食わずだったせいか、満腹感をまるで感じない。

 ボロボロと食べカスが溢れていく。

 よく食べるね。玲奈は。

 フラッシュバック。

 一瞬だけ、紫音の声がした気がした。

 空腹だったせいか、一度栄養が入ると、急に安心感が襲ってくる。

 疲労感からぐでんと、背もたれに寄りかかっていた。

「とりあえずは、落ち着いてみましょうか」

 志賀の言葉に玲奈は頷いた。

 ずっと放心したままだった。

「どうでした、あの子の様子は?」

 志賀は喋り始めていた。

「紫音のこと……?」

「ええ、どんな様子でしたか」

「どんなって……?」

「良い子でしょう。あの子は」

 ああ、そんなことか。

 この人も紫音を理解しているんだ。

 玲奈は安心すると、大きく息を吸って吐いていた。

「そう……明るくて、いつも周りを楽しませようとしてた……あんなに小さいのに……すごく優しい子だった……」

 自然と言葉が繋いで出てくる。

「なんだかんだと不思議な子ですよね、紫音って。僕もあの明るさには救われてきたんですよ」

 志賀は少しだけ笑っていた。

 微笑んでいると言うよりも。

 どことなく自嘲しているのは気のせいだろうか。

「やっぱり、誰に対しても丁寧なんですよね。あいつは……」

 そう言いながら、一人で笑い続けている。

 それが何に対して笑っているのか。玲奈にはわからなかった。

「なんだかんだと面倒見が良いし、ふざけてるようで真剣な子」

「はい……おちゃらけているようで……結構、周りの人たちを見てる……団地の人達に襲われた時も……その人たちのことをかばおうとしてた……」

 口にしながら、あの時の情景が蘇る。

 自分は関係者全員を殺してしまおうとしていた。

 弾薬に限りがあるから、そんなことはしなかった。

 だけど、やって良いなら、全てを破壊したかった。

 二度と立ち上がれないように。

 歯向かって来られないように。

 痛め付けてでもわからせようとしていた。

 それなのに、紫音はやめて欲しいと願っていた。

「紫音は、僕について何か語っていましたか?」

 志賀は何かを聞いてくる。

 玲奈は少し驚いていた。

 ぼんやりした頭でも、わかるくらいに真剣な眼差しだった。

「…………」

 すぐには答えられなかった。

 紫音が志賀について話していたことを思い出す。

 同居していたことや、父親の仕事のアシスタントだったのは聞いている。

 だけど、志賀のことはあまり聞いていない。

 断片的にしか覚えていない。

 思い出そうとしても、何も覚えていない。

 そもそも、志賀のことを話すことは無かった。

 移動中は窮地に陥ることも多かったから、聞き出す余裕も無かった。

 どちらかというと、街で安全に暮らしたいことが目的だった。

「……志賀さんのことは信頼してると話してましたよ。だから家族のようだったって」

 とりあえず適当な言葉で、誤魔化すことにした。

 それを聞いても、志賀の緊張したような面持ちは直らなかった。

「紫音は僕については、特に何かを話すことは無かったのですか?」

 改めて聞かれると、気まずかった。

 これ以上答えようがない。

「……じゃあ、質問を変えても良いですか?」

 志賀はしばらく黙り込んでいた。

「もう一度聞くのですが、建前とか抜きにして、聞いてみたい。あなたは紫音についてどう思いますか?」

「……すごく良い子だとは思うんです」

「もっと、深いところでいうと?」

 間髪入れず志賀は聞いてくる。

 玲奈はしばらくの間考え込んだ。

 元々の疲労が限界に達していて。

 何も考えることが出来ない。

 それでも、前からずっと思っていた言葉が溢れる。

「きっと、一番好きな人……」

 言いながら、自分自身でも驚いていた。

 口にしたことで、急に顔が熱くなってくる。

 ついでに、涙がぼろぼろと溢れてくる。

 それを止めることは出来なかった。

 あわてて袖で拭っていた。

 その言葉で、志賀は目を細めた。

 こちらを凝視してくる。

「好きな人……?」

「また、会いたい。紫音と同じ場所で住むと約束していたんです……」

 その言葉に志賀の表情は一変した。

 思わず震えそうになる。まずいことを言ったのかと思う。

「紫音もそれを求めていた?」

「……確か……でも、それを話し始めたのは紫音の方でした……」

 憤怒のようにも見える激情が露わになったようだった。

 酷く落胆したようでもあり、何に反応しているのか分からなかった。

 その志賀の様子に玲奈はどうしたら良いかわからない。

「……どうしたんですか?」

 思わず聞いていた。

「いや、紫音も似たようなことを話していたんですよ」

 その言葉に、玲奈は嬉しくなるが。今は戸惑うことしか出来なかった。

「紫音が……同じことを……?」

「ああ、あんたよりもずっと、嬉しそうに話してたよ。子犬みたいで可愛くて可哀想な奴だって」

 その言葉を聞いて、思わずため息をつく。

「……本当にそんなことを?」

「話を聞いてて呆れたよ」

 嬉しいと思った瞬間。

 身体から力が抜けて、椅子の上で倒れ込んでいた。

 もともと疲れていたのか、身体からぐったりと力が抜けていく。

 異変に気が付いたのはその時だった。

 いくらなんでもこんな風にはならない。

「……私、なんだか眠いです」

 混乱していて。ようやく出た言葉がそれだった。

 隣にいた志賀はふふんと鼻を鳴らした。

 急な眠気だった。

 薬を使ったと気付いた時には、もう遅かった。

 全てが遠のいていく。

 隣で、不気味な笑い声がしていた。

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