再会、会えない

 目覚めると、布団の中にいた。

 カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいて、それが眩しくて目が覚めたのだ。水色の空が見えた。

 あわてて起き出す。

 すると、そこはベッドの上だった。

 次いでフラッシュバックが起こる。赤い光景。夕焼けと炎。激しい赤のイメージで視界が朱色に染まっていく。

 なのに自分は、清潔なベッドの上にいる。

 現実の世界と、さっきまでいたはずの団地の映像がごちゃごちゃと頭の中で混ざり合っていた。

 どちらが本当の情報なのか分からなくなってしまう。

 もう一同周囲を見回す、今は病院の一室にいる。

 平衡感覚が無くなりそうになるくらいの混乱が襲ってくる。

 その中で、一番大切なはずの情景が思い起こされる。

 血の涙を流す…………。

「玲奈っ!」

 紫音は叫んでいた。

「紫音さん、大丈夫ですか?」

 声がした方を振り返る。

 そこには見知らぬ女の人がいた。

 玲奈よりずっと髪が長い。大人の女性。

「なんで? ここはどこ? なんでわたしこんなところにいるの?」

 立ち上がろうとするが、立ち上がれない。

 力があらぬ方向にしか入らない。全く逆の方向に筋肉が動いている。

 ベッドの上で再度転がり込むように倒れた。柵に引っかかる。

 危うく床まで落ちてしまうところだった。

 布団に這いつくばっていると、大量の汗が流れていた。

「落ち着いてください、大丈夫ですよ」

 水の入ったマグカップを手渡された。

 紫音はそれを受け取ると一気に飲み込む。

「紫音さん、あなたのことは私の夫から聞かされています。志賀正樹さんと言えばわかりますか?」

 こくり。と首を縦に下ろした。

 志賀の奥さんと言う人は、立ち上がると、ドアまで小走りかけて行った。


「紫音さん、お久しぶりです」

 遅れてやって来た志賀は足にギプスを装着していた。弱った足を補強するタイプの物だ。

「志賀さん、お久しぶり……その足は?」

「ああ、これですか。ちょっとやってしまって……」

 足をさする。身体に障害や後遺症を負うこと。

 それがこの世界で生きるものの、逃れることができない運命の一つだった。

 紫音や玲奈などはかなり幸福な人間なのだ。

「……お気の毒に」

「まあね、こればっかりは仕方ないさ」

 そう軽く言うと、志賀はベッドの横の椅子に座った。

「みんなから話を聞いてたんだけどさ。鳥宮さんに会いたいだろう?」

「もちろん! だから……」

 その言葉に紫音はいてもたってもいられなくなっていた。

 早く会いたい。その気持ちだけは抑えられない。

「実は僕たちも捜査班を出したんだけど。あの付近で見つかったのは君だけだった、おそらく、あの混乱の中、お互いに離れ離れになってしまったのだろうね」

 志賀の言葉に、紫音は絶望を覚えていた。

「そんな……」

「めちゃくちゃだったよ。あの光景は……正直言って思い出したくない……」

 そう言うと志賀は身震いしていた。

「みんなには鳥宮さんのことは伝えておく。教授の忘形見のあなたを救ってくれた恩人だから。僕にとっての恩人でもあるし」

 紫音もうなずいていた。だけど、納得出来ない。今すぐにでも探しに行きたかった。

 そんな様子を察してか、志賀は穏やかな声で提案する。

「急ぐ気持ちは分かるんだけど。鳥宮さんのことは僕が責任を持ってここに案内できるように努力してするから。無理に動く必要はない。きっと鳥宮さんもそれを望んでるはずだよ」

 志賀がそういうと、紫音は黙り込んだ。

 確かに、自分で探しに行くには無理があった。

「とにかく、今は安静にしていなさいな。その身体で動くと何があるかわかったもんじゃない。無傷なのが奇跡だよ」

 ドアがノックされた。

 志賀の奥さんだった。手にはおぼんを持っていた。

 紫音の前に、大盛りのご飯と、野菜と肉を混ぜて煮込んだスープが運ばれた。

 それをかきこむように食べていた。

 具沢山のスープ。団地のものよりも野菜も肉も多い。

「とりあえず、今はしっかり食べて。元気を付けて。鳥宮さんのことはそれからだね」

 そう言うと彼は、また別の荷物を持ってきていた。

 志賀が運んできたダンボールを受け取ると、中には衣服類が入っていた。

 下着類はもちろん。深緑のミリタリージャケットに、ジーンズ。バスケットシューズもついでにもらっていた。

 至れり尽くせりな状況。あえてこの場から離れる必要もなかった。

「これ、貰っちゃって良いんですか?」

「大丈夫だよ。それからさ、住む場所はこちらで用意するから。様子を見ながら退院しようね」

 志賀が去っていくと、残された紫音はあたりを見回していた。

 院内では話し声で賑わっていた。

 入院している患者のほとんどが老人だった、みんなどこか教養があるような振る舞いをしていた。

 この時代では、老人が生きてること自体が珍しかった。

 それもこんなにたくさんの人たちがいる。

 還暦前はそれなりの立場についていたに違いなかった。

 少なくとも紫音が相手をしていたガテン系の人間たちとはえらい違いがあった。

 志賀は、時々やってきては、紫音の様子を見に来てくれた。

 その時に玲奈と過ごした時間を細かく聞かれていた。

 志賀は何故かそれをカルテのように書いていた。

 なぜこんなに細かくチェックするのかは気になったが。

 志賀が几帳面なことを思い出す。

 話していると。今になって気がつく。

 どれもこれも紫音にとっては思い出の話ばかりだった。

 退院の日、志賀は車に乗せてくれた。

 病院の窓からでは気がつかなかったが、以前と同じなままではなく。どこかが欠けていたり。汚れていたりした。

 乾燥したゴミが大量に置かれていたり。

 手入れもされずそのまま放置されている。アスファルトもところどころ吐瀉物が広がっていたり。ゴミが散乱していたり。ひどい有り様だった。

 何よりも、異様なのが。街の住民達が、看板を手に取りながら、デモを行っていることだった。

 みんな、それなりに綺麗な格好をしていた。

 中にはアクセサリーを着けている者もいる。

 紫音が暮らして来た場所と比べたらはるかに文化的な暮らしをしているはずだった。

 何がそんなに気に食わないのだろうか。

 デモのほとんどが、カルト宗教、政治関連のものであり。それぞれが違う主張をしているらしく。

 違う団体がすぐ近くの場所で同じような大声でデモを行っているのだ。

 側からみると、その団体の種類の違いがわからなくなるほど。雑然としていた。

 異常な程の熱気に気押される。

「なんだか……すごく怖い……」

 志賀は悲しそうな目をして、話していた。

「ああやって、騒いでいないと精神のバランスが取れないみたいなんだよ。気の毒にね」

 何かが道路を走っていく。

 それは灰色の毛のネズミだった。心なしか痩せ細っているように見える。

 ついにたどり着いた目的地は、思った以上に荒廃していた。ここが日本で一番まともな場所だと思うと気が滅入った。

 どこにも楽園なんて無かったのだと。

 とは言え、働く必要も、食べ物を求める必要がなくなって。ほっとしたのも事実だった。生きていけるならそれだけで十分だった。

 あとは玲奈さえいれば……。

「君に見せたいものがあってさ。……これだけは叶えてあげたいと思っていた」

 新しい住処に行く前に。志賀の車は別の場所に止まった。

 車外に出ると甘い匂いがした。

 天を仰ぐように首を上げた。

 ハチミツのような香りが広がっている。

 駐車できるスペースがある。何故かそこだけはきちんと整えられていた。

 階段を上がると目の前の光景に感嘆の溜息をついた。

「……綺麗」

 それは公園全部が花畑になっているのだ。

 季節の花々が色とりどりに咲いていた。

「ここは?」

「ここは、みんなのお墓なんです」

 その言葉に紫音は目を見開いた。

 風になびいて花々がゆれる。

 花びらが散って何処かへと飛んで行く。

「僕たちは『希望の世界』って呼んでる。僕の奥さんを筆頭に、女性陣が頑張って作ってくれたんですよ」

「希望の世界……」

 その言葉に目を細めた。暖色系の花が暖かく咲き誇っていた。

「お墓なのにこんなに、綺麗なんだ……」

 しゃがみ込んで花の一つを指で軽く撫でていた。

 志賀はもっともらしく頷いていた。

「実際、フランスではお墓場が公園のようになっていて、デートまで出来るんだそうです。こうやって明るい気持ちで死者と交流出来るなら。それでみんなが元気を取り戻せるならと。そんな願いが込められて作られたんですよ」

 大きく深呼吸すると、紫音は意を結したように聞いていた。

「ここに、わたしの父さんと母さんもいるのかな?」

「そのつもりで妻に作ってもらいました」

 知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。

 紫音は両手を合わせて合掌した。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 二回目は力を込めて発音していた。

 震えていた。大声を上げて泣き出しそうなのを堪えていた。でも到底抑えることは出来なかった。

「おかえりなさい」

 志賀は黙って紫音が泣き出すのを眺めていた。背中を何度もさすられた。

 それでも、泣き止むことは出来なかった。

 心の底に押し込めてきた感情が止めどなく溢れていた。



 紫音は、マンションの一室を分け与えられた、その上階に志賀の部屋があって、その真下の部屋だった。

「いつでも僕の部屋に来てもいいよ」と言われた。

 四階からの眺めは、見晴らしが良かった。

 窓を眺めながら、ため息をついた。

 早く玲奈に会いたかった。すぐにでも、あの団地に行きたいと思っていた。

 今も玲奈は自分のことを待っているのかも知れない。

 落ち着かない気分で部屋の中を見回す。

 新しい部屋なのに、簡単な家具は既に取り付けてあった。

 服も下着も、ほぼ全て揃っていた。

 志賀が揃えたと思うと少しいやらしく感じたが、それは考えないことにした。

 それにしても、キッチンの棚の中に缶詰めまで用意してあるのを見ると。田嶋があんなに乱暴な方法を使ってまで自分を脅したのがわかる気がした。

 この部屋はあまりにも豪勢だった。

 少なくとも、団地の生活に比べたら。喉から手が出るほどには。

 普通の人が暴力を使ってでも手に入れたいもの。それらが全てこの部屋に揃えてあるのだ。

 ベッドの上に行くとバタンと倒れた。やはり極度に疲弊していた。

 布団はフカフカしていて、それなりに質が良いのがすぐにわかった。

 寝転がったまま。カバンから取り出したのは、団地での集合写真だった。上着のポケットに入ったままだったらしい。

 玲奈と隣同士。仲良く写っていた。

 はにかんだような表情。背の高い、髪の短い顔が綺麗な女の子。

 他の写真もいくつもあった。

 団地の同年代の人達のもの。むしろその写真の枚数の方が多かった。

「…………」

 少し躊躇ってから、思い切って破って捨てることにした。

 団地の人達の写真をビリビリに破いていく。丁寧に細く刻んだ。一定のペースで容赦無く引きちぎった。

 玲奈が撮った写真も混じっていた。

 それでも破ることにしていた。

 思い出す度に落ち込むような過去なら消し去ってしまえばいい。

 何もかも。自分の目の前から取り除いて行く方がずっと気が楽だった。

 それをパラパラとゴミ箱に入れるともうそれっきりだった。

 手元にあるのは玲奈と自分の写真だけで良い。

 他には何も要らない。

 二人仲良く写ってる。

 それを見て、涙が滲み出ていた。

 昼の間はずっとそうして過ごしていた。

 やっと見つけた心を許せるパートナーだった。最高の相棒。

 辺りは暗くなっていき、夕焼け空が青くなり始めて、紫から濃紺へと移行し、やがて夜が始まった。

 何よりも深い闇に覆われていく。その光景に寒気がした。

 夜景は決してキレイとは言えなかった、昔ここには何度か観光として滞在したことがあったからだ。

 その時に比べたら、どうしても、比べてしまう。今はまるで暗闇そのものだった。

 あの時は家族もいた、父もいた、母もいた。

 こんな形で訪れることになるとは予想していなかった。

 夜間の外出禁止令のサイレンが鳴った。身体がぶるっと震える。自然とベッドの横にしゃがみ込む。

 良い子のチャイムの代わりに、やかましい警戒音が鳴り響く。火災報知器のような不安を煽る激しい音に体が不安に襲われる。

 耳を塞ぎたくなるほどで両腕で身体を抱えていた。

 今もこの街は外国人たちが暴れ回っているのだろうか。

 セキュリティーはしっかりしてるはずだと言え、やはり怖かった。

 いつかの南米系の外国人の顔が思い浮かぶ。油ぎった獰猛な表情は忘れられるものではない。

 PTSDの一種なんだと自分でも思う。

 カーテンの隙間から、街を眺めていた、いつどこにいるかわからない玲奈に思いを馳せていた。

 自分の立場は、この上なく恵まれているはずなのに、その光景をどこか空虚な気持ちで眺めていた。

 結局、紫音に出来ることは志賀を信用して、彼の助けを借りて、身体を休めることだった。

 待つこと、それ以上の事は何も無い。

 不意にドアがノックされた。

「僕です、志賀です、少しお話があります」

 紫音はドアの元にいった。

 覗き穴から見ても特に異変はないことを確認してからドアを開けた。

「あの、リラックス出来るかと思って。ココアを入れてみたんです、もし良かったらお飲みになりませんか?」

 トレイの上に二つのマグカップが乗せられていた。

「ありがとうございます」

 紫音は彼を部屋に入れた。

 ベッドで隣同士座り込んだ。

 ココアを啜る音や。お互いの息づかいが聞こえるほど静かな時間だった。

 甘くて温かいココアは気持ちを鎮めていった。

 志賀はこちらを向くと、穏やかな顔で微笑んでいた。

「本当にお疲れ様でした。いろいろなことや悲しいことも。大変なことも多かったと思います。だけど、こうやって戻ってきてくれて本当に嬉しいです」

「うん……」

 言いながら、肩を震わせていた。

 カップに半分ほど入った液体が震えている。

 ずっと、心のうちにとどめていたことを話し始めた。

「志賀さん、あの日、あの時。私、何の役にも立てなくて、ごめんなさい。せっかく今日も助けてくれたのに。わたし自分のことばっかり……わたし何も変われてない。ずっと昔からやめようとしてたのに……」

「…………」

 紫音の言葉を一つ一つ、黙って聞いている。

 表情は変えず、紫音のことを受け止めていた。

 それから志賀も口を開いた。

「自分も、みんなのことを守ることができなくていつも後悔に駆られていて……何もしてあげられなかったなって……ずっとあなたに謝りたかった」

 その言葉に紫音はかぶりを振った。

「どうしてかな。志賀さんが、自分を責めてたのはずっと想像してた。でも、一番悪いのは何も考えず、みんなに頼ってただけのわたしだから。志賀さんはずっと真面目に取り組んでいたのに、なんで自分のことを責めるの?」

「……せめてもの償いとして、教授の残してくれたもの、守りたいと思っていました、自分はこの街を、少しでも良くしなくてはいけないし、だけど自分が探しにいっても、きっと死んでしまうだけだから、鳥宮さんに依頼したんです」

「志賀さんの人を見る目は正しかったと思う。わたし、ほんとに嬉しかったから……」

「そんなに、そんなにも良い出会いだったんですか?」

「そうだよ。あの人に、色んなことを教わったから。戦う方法まで教わった。あの人が持っている術を、生きるために必要なものを教えてくれた。どんなことよりも嬉しかった」

「あの人はどんな方でしたか?」

「どんなって……そうだな……。動物で例えるなら……鳥みたいな人」

「鳥って?」

「わたしには出来ないことができるっていうか、雲の上の存在かな」

「鳥ときたか……」

 志賀は天井を見上げた。じっと一点を凝視しているようだった。まるでそこには彼にしか見えない鳥が見えているかのようだった。

「志賀さんは自分のことは何に喩えてるんですか?」

 紫音の言葉に反応して、今度は床を眺めていた。ぼんやりと、熟考しているようだった。

 やがて導き出した回答は予想だにしない物だった。

「……カエルの背中に乗るサソリかな。川を渡れないような」

「えっ、どういう意味? サソリとカエル? 何の話?」

 例え話をしているのか、それとも何かの冗談なのかがよくわからない。

 サソリとカエルという奇妙な組み合わせ。

「いえ、別に深い意味は無いんですよ」

 そう言いながら、志賀はベッドから立ち上がる。

 窓際までゆったりとした動作で歩いていく。

 意味ありげに見えた。

 様子がおかしいと思った。

 どこかよそよそしい態度で、紫音を遠くから見つめていた。

 それから、部屋から窓の光景を眺めている。

 カーテンが揺らぐ。月明かりが入ってくる。

 部屋に青白い光が差し込んで志賀の姿が影絵のように浮かび上がった。

「僕はこの世界が嫌いだった」

 淡々と感情も込めずに言った。

 突然の言葉に紫音はその意味をすぐには理解出来なかった。

「……なんの話ですか?」

 その驚いた様子を小馬鹿にするかのような笑みを浮かべている。

 目だけが三日月に照らされて反射して輝いていた。

「僕が育った世界は、とても貧しい場所だったんです。少しは話したことがあったと思うんですけど」

「その街の話は聞いてたよ、あんまり治安が良くないとこだって」

 紫音が過去を思い出しながら答えていた。

「そうなんです、その中でも特に酷い場所だった」

 それから一拍置いて。言葉を続けた。

「この世界に対して憎しみをばら撒きたいって。ずっと思っていたよ。今がそのチャンスなんだって。ずっと。ずっと待ち望んでいた」

 それからもう一度こちらを眺めてくる。

 声音も低くて、挑発するような不気味なものだった。

 背筋から寒気がした。

 なぜ、このタイミングでそんな打ち明け話をするのか。

「僕はこの世界に復讐したいと思ってる」

 突拍子もない言葉に、思考が停止する。

 何を言っているのか分からない。

 話がおかしな方向に進んでいる。

「世界に対する復讐って? どういう意味なの?」

 紫音は思わず聞き返した。

「つまりそのままの意味だよ。僕はこの世界を壊す手伝いがしたかった」

 志賀は穏やかな顔で告げた。

 うっとりしたような表情からは優しささえ感じ取れそうだった。

「……なんで?」

「この世界を見ていると、自分だけが取り残されてるような気さえしたよ」

 そう話す声音からは棘のようなものが含まれていた。

「昔の君を見てるとさ。何でその立場の人間が僕じゃなかったんだろうって。なんで自分だけがこんなに惨めなんだろうって。ずっと考えてた」

 その語りには抑揚がまるでなかった。それなのに悲しみだけが伝わってくる。

「確かにわたしは恵まれてたって……そう思うけど……」

 戸惑いながら答える。

 志賀は一人で苦しむような素振りを見せながら。怒りをあらわにしていた。

「過去を嘆くことは、悪いことだけど。それを糧に頑張ってるフリをすると、みんなが振り向いてくれる。くだらないだろ、人間なんて」

 最後の方は明らかな憎悪が向けられていた。

 それが紫音個人に向けられたものなのか。

 それとも彼の言う『世界』に向けられたものなのかはわからない。

「子供の頃からさ、恵まれない立ち位置だったからかな。色々と人間の裏側が見えてきちゃうんだよね。誰からも助けてはくれないんだよ」

 その声からは苦痛が混じっていた。

 いつのまにか、志賀は涙を流していた。

 透明な涙に月の光が反射されて綺麗に輝いていた。

「これだけの立場になると、今度は逆に媚を売ってくる奴が多くてさ。嫌になったよ。今まで誰も見向きもしなかった癖にね……」

 その言葉を自分なりに整理する。

 自分が志賀の立場で物事を考えてみる。

「話を聞いてて思ったんだけど。今の人生を思い切り楽しめば良いんじゃないのかな? わたしだったら毎日贅沢して、遊んで暮らすんだけど……」

「ふーん。君らしい意見だと思うよ。でもね、僕が望んだのは、精神的な世界のことなんだよね」

 カーテンを全て広げた。

 窓ガラスさえ開いた。

 夜風が入ってくる。

「本当の自分にしっかりと向き合ってみると、願い事が一筋の光になって現れた。この世界の醜さ、人間の醜さに嫌気がさしてる、それを壊すことが一番の望みだって」

「どんな方法でそれをやろうと思うの?」

「爆弾かな。実験として燃やしてみたけど。なかなかの威力だったろ? あれで食糧庫を燃やしてしまおうと考えていたよ」

 暗闇の中で赤い光景がフラッシュバックする。

 突然燃え上がる炎。爆発音が遠くで聞こえた。住民たちの泣き声や悲鳴。

 あの獄炎に包まれた赤い灼熱の世界。

 どうみても人工的な爆発だった。

「アレをやったのは志賀さんだったの?」

 可笑しそうに笑いながら腹を抱えていた。

 本当はもっと大笑いしたいのを抑えている様子だった。

「そうだよ。正確には協力者がいてさ。銃撃戦の音が聞こえていたから。爆発させたらしい。これは僕も想定外だった。君ってさ運が良いよね。そいつ爆発させるのに手間取ってたんだってさ。お前らなんか一緒に吹っ飛んじまえば良かったのに」

「そうだったんだ……」

 その告白にも紫音は至って冷静だった。

 自分でも意外なくらいに動揺なんてしていなかった。

 むしろ、その話を聞いていて妙に納得していた。疑問が解消されたとさえ感じている。

 理由はハッキリしている。

 昔から。初対面の時から。心の何処かで。

 志賀を疑ってはいたのだ。

 単なる直感なのに、それをずっと信じていた。理屈なんて無くって、本能的に感じ取っていた。

 何か黒い物を心の奥底に封じ込めているような印象があった。

 玲奈にも似たようなものを感じたことはある。実際にそれが危ない方向に暴走することもあった。恐怖を感じることさえあった。突き飛ばしてしまいたいと感じることさえあった。

 けれど、それは自分や紫音を守るためでもあった。必ず理由があった。意味の無い暴力を振るったことは一回も無い。

 だけど、志賀は目的の無い悪意を振りまいているように感じていた。

 深い闇しか感じられない。

「あとは食糧品を根絶やしにする。くだらない方法だけど。畑の中にミントを植え付けようと思ってて。あれって繁殖力すごいから他の作物が育たなくなって枯れるんだよ」

「それ、ウチも嫌がらせでやられたことあるからわかるよ。隣の家の安田さんって覚えてる? あいつにやられたことあるからさ」

「あの猫を飼ってるおばあちゃんだろ? いつもエプロンしてる」

「そう、その人」

 懐かしい昔話に志賀はおかしそうに笑っていた。

 紫音もつられて笑いそうになった。全然笑える状況じゃないのに。

「まずは兵糧攻めから入って、みんなを飢餓状態に追い込む。外国人達がやったと噂を流して疑心暗鬼にさせておく。特定の地区には食糧を残しておく。あとはみんなが殺し合うのを遠目から眺めていたいな。前の団地の一件でみんなピリピリしてるからさ」

 わざと挑発するような喋り方だった。目の前の紫音を怒らせたがっているような。

 だけど、その計画には破綻がある気がした。

「そんなことしたら、志賀さんだって無事では済まないじゃん」

 思ったことをそのまま口に出していた。

「その時のために警備隊は用意してある。こちらには機関銃がある。戦いになったらまず負けないんだよ」

 志賀が反論すればするほど、理由が分からなくなった。

 何故、自分の身を危険に晒すのか。

 そこがどうしても理解できない。

 今の平穏な日々で充分なはずなのに。

「ねえ、そんなこと絶対に間違ってるよ。いつか、回り回って。志賀さん自身も死ぬ羽目になると思ってるよ」

「……むしろ死にたいと思ってるくらいだ」

 その言葉を放ったあと。がっくりとうなだれた。

「こんな世界に生きてて、何でみんな生きていたいと思えるのかが逆に分からなかった。何が楽しくて、何に興味があって生きてるのかまるで分からないんだよ。出来ることなら教えて欲しいとさえ願ってた」

 絞り出すような苦痛に満ち溢れた声だった。

 憎々しげに、口や目元が歪んでいく。

 それが、紫音に向き直ると、達観するような表情に変わった。

「ただ、そんな僕でも。君たち二人のことを思うと、何だろうな。心を揺さぶられる瞬間があった。その繋がりはどこから来るのかがわからなかった。神秘的だとさえ感じたよ」

 その言葉に嘘偽りは感じられなかった。

 志賀は称賛していた。

 その様子に、どんなリアクションを取れば良いのか分からなかった。

「君にとってのあの子は何なんだ?」

「玲奈は……なんていうかさ……」

 言葉に詰まった。今更どう表現すればいいのか。言語に出来なかった。

「……特別な人なのか?」

 特別な人。志賀はありきたりな言葉を使った。

 ドラマのような。安っぽいセリフだなと思う。実際に紫音は鼻で笑っていた。

 深く考え込んでいた。

 そして、紫音が思い付いたのはもっとくだらない言葉だった。

「……ううん、可愛くて可哀想な奴かな」

 その回答に志賀は呆気に取られたような顔をした。心底意外そうに。

「なんだ、それは?」

 聞き返してくる。

 その言葉にどう返答しようか少し迷った。

 だから正直に答えることにした。

「……あいつはさ、わたしが少し優しくしただけで懐いてくれちゃってさ。まるで子犬みたいですごく驚いたの。バカなのかなって」

 そう開けっ広げに話す、紫音の表情はほころんでいた。いつのまにか幸せそうな笑顔さえ浮かべていた。

「マジでめんどくさい女なんだよ。アイツって。でもさ、今までロクな経験が無かったからなのかなって気付いてから。真剣に考えてあげないと駄目なんだって思っちゃったんだよね」

 特に深く考えることもなく、思いつくままに喋っていた。

 それは普段感じたり、思ったりしていることそのものだった。

「…………」

 志賀は紫音の告白を唖然とした顔で聞いていた。

 大切な存在を貶していくような言葉で表す紫音に対して、返す言葉もなく。

 訝しむような顔で見つめるばかりだった。

「泣いて苦しんで、怖がっているのを見ててね。悲しくなっちゃってさ。いつのまにか、救われて欲しい。笑顔でいて欲しい。そう願ってたんだよね。答えになってないかな?」

 気がつけばあっけらかんと話していた。

 それ以上、何も言葉なんて見つからなかった。

「そうか……そうか……わかった……」

 志賀はぼんやりとした様子で、紫音の言葉を噛み締めているようだった。

「好奇心なのか、後ろ髪引かれるっていうかさ、あの女と君が並んで歩いてる姿が思い浮かんだんだよね。それもそれで面白そうだって思ったんだよ、意味わかんないだろ? だからあの女を選んだんだよ……」

 一人で何か分からないことをぶつぶつと喋っていた。

「……とにかく、今日話したことは。忘れて欲しい。僕は君に危害を加えたくない」

 そんな志賀の一方的な言葉に対して。

 何を答えるべきか迷ったが。

 紫音は素直に答えることにした。

「うん。私は玲奈のそばにいられれば他に何が欲しいってわけじゃないから」

 自分の本心から出た言葉だった。

 不思議と他に何も望んでいなかった。

 今はただ、会いたいだけだった。

「君たちは……お互いを信じ合うことが出来るのか?」

 その質問に首を傾げながら考えていた。

 それでも、結局答えなんか出てこない。

「どうなんだろう? わたしが知りたいくらいかも」

 そう言うと志賀はもう何もしゃべらなかった

 放心したように、うつむいてしまった。

「…………」

 よく考えたら。この最果ての世の中で全ての人間が羨む生活を手にしているのに。

 当の本人が疲れきっているのは、ひどく皮肉に思えた。

「ええと、わたしは何をすれば良いの?」

「そうだね、あの子と再会すれば良いんじゃないかな? 生きていればの話だけど」

「生きているかな?」

「たぶんね、そんな気がするよ。あの女は」

 志賀は去っていった。

 紫音は鍵を閉めると再び横になった。ベッドの上で志賀の様子が思い起こされた。

 心が壊れてしまったかのような。あの憎悪に満ちた表情。

 何故だろうか、どことなく玲奈と志賀は似ている気がした。

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