赤い地獄にいるから

 男達は拳銃や猟銃を手にしていたが。

 玲奈が使用しているのは軍用のアサルトライフルだった。

 ドットサイト、フォアグリップ。ガンベルトを装着している。

 弾倉には三十発の弾薬。

 たとえ人数や力の差で劣っていようとも、武器の性能だけで戦局を覆すのは容易だった。

 さらにいえば、戦闘経験も少なからずあった。

 男達は拳銃を構えて発砲してくる。

 その動きに規則性やチームワークは感じられるが、あくまでも素人レベルなのがわかった。個人プレーの集まりでしかない。連携など容易く壊れる。

 玲奈は木の幹に隠れる形で、しゃがみ込み。

 無表情のまま男の胸に向けて発砲した。その激しい銃声で飛び上がるように驚いた隣の男も、問答無用で撃った。

 二人がほぼ同じタイミングで地面にくずおれて倒れた。着弾した場所から血飛沫が削れた肉ごと弾けるのがわかった。

 紺色のジャージ姿の青年が拳銃を片手撃ちしてくるが、それがこちらにまともに狙いを定めていないのは、確かめるまでも無かった。

 その青年が隠れた、レンガ作りの花壇に向けて打ち込むと、破片が飛び散り、青年が悲鳴を上げて顔全体を両手で覆うように抑えた。

 これだけでも失明してもおかしくないダメージを与えられただろう。無防備になったところにとどめを刺した。

 至近距離の銃撃戦が展開される。

 コンクリートの団地に火薬の音が鳴り響く。男達は戦闘には慣れていない。

 ライフルの銃声はそれだけでも強いストレスと恐怖を与えた。パニックに陥らせ、硬直させる。そこを狙う。

 消音器が無いことを危惧していたが、かえって素人相手には都合が良かった。

 ジャンパー姿の中年男が散弾銃を構えて、二連射した。

 すでにそこに玲奈はいなかった。

 慌てて弾を詰め直すが、もはや恐慌状態寸前だった。弾薬を落とさないのが不思議なくらいに手が震えていた。

 弾を詰めるのを諦めて。逃げ惑うように団地の中へと入って階段を駆け上がっていく。

 玲奈本人はすでに団地の広場に移動していた。

 建物の階段裏やベランダの物陰になる部分を移動していく。

 黒っぽい服装も背景と同化していて、遠目からは見分けが付きにくい。

 猫のように無駄の無い静かな動きだった。

 一方の男達は、威勢の良い足音を立てていた。

 探し回っているつもりが、逆に見つかりやすいサインを送ってしまっている。

 照準器を覗き込み、一、二、三、四、五、六発と立て続けに連射すると、二人仕留めた。

 弾丸の飛距離、装弾数。命中精度にしろ、こちらのアサルトライフルの方がスペックが高い。

 より強力な武器を持っているから、こんなことが出来る。

 一人が向かいの建物のベランダから二丁同時に拳銃を乱射した。

 玲奈は特に反撃することなく、素早い動きで建物の裏側へと回り込んだ。

 男はベルトからさらに同じ型のリボルバーを取り出した。

 緊張感から動きは緩慢だった。部屋の中へ引き下がられるともう見えなくなる。

 それを確認した玲奈は、同じように建物の中へと侵入した。

 ライフルは肩のベルトに預けるように背中に回し。

 懐から拳銃を取り出した。

 自動拳銃(オートマチック)。狭い場所ではライフルは長過ぎる分、取り回しにくい。

 鉢合わせた若い男に向けて倒れるまで撃ち続けた。

 慌てて逃げ出した青年をドア越しにライフルを乱射する。跳弾することは無かった。

 ドアを開けると事切れて倒れていた、白い壁に赤い血が飛び散っている。内臓特有の湿っぽくて生温い臭いがした。

 針のようなライフル弾がドアを通すことで先端が潰れて、貫通力が破壊力へと切り替わり。肉体を抉り取るように突き進んだ結果だった。

 もともとライフル弾は手足に当たっただけでもショック死を引き起こす場合がある。

 その傷口は熟れたザクロのようで、グロテスクだった。

 玲奈は平然と、部屋へと入り込んだ。

 雑然としたリビングだった。

 古い雑誌や、今では聞くことの出来ないCDで溢れていた。

 玲奈はしゃがみ込むとライフルの使い切ってない弾倉を取り替えた。

 手慣れた動作だった。いつも繰り返してきた。

 射撃時のクセも感覚のなかで掴んでいた。

 不意に外から柵を踏み込む足音が聞こえた。ベランダからベランダへ伝って来たのか。

 それとほぼ同時に破裂音とともにガラスが激しく吹き散られて割れた。

 先ほどの散弾銃を持った中年男だった。

 意外にも窓枠を乗り越えて接近戦を仕掛けてくる。覚悟を決めたらしい。

 追い詰められ過ぎた人間ほど、とんでもない戦い方を仕掛けてくる。

 葛藤や迷いが無い。

 部屋まで侵入すると、突如玲奈が素早く動いた。

 男のアゴの裏には、脳天に届くかのようにナイフが突き立てられて刺さっていた。

 ナイフが刺さったまま。

 男が首を絞めてくる。凄まじい腕力だった。

 追い詰められてストッパーが外れているかのようだった。

 玲奈は振り解こうとしたが無駄だった。

 男の腕の輪を、さらに大きな円で包み込むように男の体を抱きしめて締め上げた。

 ブーツのかかとの部分で男のスネを打った。

 短い悲鳴をあげ、そのまま勢いよく手すりから滑り落ちた。

 アスファルトに血飛沫を飛び散らせながら落下した死体を眺めていた。

 汗がダラダラ流れる。

 緊張が途切れてしまった、戦闘には不必要な現実的な感覚が蘇ってくる。

 一度、緊張感が途切れると恐怖が戻ってくる。手足が震えだす。息も荒い。脈も激しく打っている。目眩のような状態に陥る。

 部屋の外、廊下側が騒がしい。床を複数人がバタバタと駆け出している音がする。

 かと思うと急に静まり返る。待ち伏せているのは明らかだった。逃げ道は塞がれた。

 袋小路というやつか。

「…………あれを使うしかない」

 玲奈は瞼を閉じると、ゆっくりと目を開く。

 先程よりも深い闇に堕ちていくのが自分でもわかる。

 イメージする。

 戦い、生き残り、相手を殺すだけの状態に仕上げていく。

 異常な精神状態を意図的に作り出し。理想的な人格に切り替えていく。

 しゃがみ込んでライフルを構え直す。そして壁の方へと向けた。

 そして視力以外の、聴覚や皮膚感覚、五感を総動員して働かせていく。

 極限まで酷使していくと。ある特殊な境地に達する。

 たとえ壁越しでも、殺気だった雰囲気。敵の大雑把な位置関係。相手が何をどう仕掛けて来るのかがわかるかのような狂ったような直感が使えるようになるのだ。

 それは玲奈に備わった天性の才だった。

 戦うための。特別な能力。第六感といってもいい。

 今までもこの感覚に救われてきた。

 壁越しの銃撃戦が始まるのはすでにわかっている。

 今回も生き残れるかは分からない。

「紫音、待っててね」

 小声で呟く。誰にも聞こえないように。

 玲奈は引き金に指をかけた。


 その鳴り響く銃声に耳を澄ませていた。

 断続的に火薬の音がしていて、音だけを聞くと、まるで花火大会のようだった。

 紫音は一つの部屋の押し入れに隠れていた。

 銃声の合間合間にライフルを担いで突き進む玲奈を想像していた。

 同じライフルの銃声が鳴り響くたびに彼女の生存を聞くようで安堵する。

「早く終わればいいのに……」

 想像の中の玲奈は表情が見えなかった。

 髪の毛に隠れて、顔が見えない。

 どんな顔をして、自分のために身を挺して戦ってるのか、それだけは想像出来なかった。

「なんで死んじゃったの! なんで! どうして!」

 どこかでつんざくような悲鳴が聞こえた。

 女性の、それも若い子の叫び声がこだまする。

 家族、特に母を失った日のことを思い出す。

 この世の終わりのような声だった。

 思わず耳を塞いだ、だけど両耳から手を離して、きっちりと目を開けて、その現実を受け止めようとした。

 そうしないと、いけない気がしたから。

 どこまでも、ついて行くと決めていたから。



 まともな戦いにさえならなかった。

 暗闇や物陰を味方に使う玲奈にとって、男たちの動きはすべて見えてしまうし。

 狙撃するのは的撃ちゲームのような単純作業でさえあった。

 一人、また一人と着実に仕留めていく。

 玲奈は団地の屋上へと上がっていった。屋上はガラ空きで、遮蔽物もロクになく、素人考えで移動したのだと直感でわかった。

 最後に残された田嶋も、右耳を失っていた。根本から毛髪ごと引きちぎれていた。

 ぶるぶる震える手で傷口を抑えながら脂汗をかいていた。もはや戦意は消失している。

「お前が……お前さえいなければ……このクソアマめが……人殺しのろくでもないカスが……俺の若い衆を殺しやがった……殺し尽くしたんだ……俺の耳……貴様にも同じ目に合わせてやる……あの連れのガキを解体してやる……」

 それでもなお、命乞いではなく、罵声と共に暴言を吐いてくる。意地なのか怨みなのか、玲奈にはわからない。

「くそ……俺もこ、すのか、このやろ、ち、しょう、ふ、ける……な、おれのみ……みみ……みみ……みみみ」

 半ば気を失いかけていた。

 焦点の合わない目で睨んでくる。

 紫音に危害を加えると話している。

 生かしておくわけにはいかない。

「ごめんなさい」

 玲奈は引き金を引いた。

 無情に。無責任に。容赦などなく。

 スポンッというどこか間抜けな音を立てて、ライフルが火を吹いた。

 田嶋の体が二、三度、痙攣した。

 屋上の床に赤い花が広がったようだった。

 やるしかない。あの子を守るために。一緒にいるために。

 死体をまた一つ積み上げ踏み越えていく。



「終わったよ」

 ノックと同時に扉が開かれた。

「玲奈!」

 紫音は駆け寄っていく。

 玲奈はコートを脱いでテーブルに放った。

 汗でTシャツが張り付いている。

 そんな玲奈に紫音は抱き付いていた。

「心配したんだよ! いなくなっちゃったらどうしようって……」

 あんなにひどい対応をしたのに、紫音は本気で喜んでくれている。汗で水浸しの自分を抱きしめさえする。

 まるで主人の帰りを待つ子犬のように。無邪気に。その笑顔に毒気を抜かれる。

「おそくなってごめんね。全部片付いた」

「ううん、謝らないで。無事で良かった。大好きだよ……ずっと一緒にいてよ……」

 あまりに寄りかかってくるので、逆にしんどいくらいだ。

「紫音、ちょっと待って。疲れてる。それに重いってば……」

「だってぇ……あんたに何かあったら。わたしどうすれば良いのかわからないんだもん……」

 途端に周囲から闇を感じた。明確な悪意を向けられている時の焦燥感。

「………………」

 喋り続ける紫音とは別の方向に玲奈の意識は向いていた。

 異常な程、感覚が鋭くなり過ぎていた。

 だから気が付いた。

 ……怖い。そして危険。

 その違和感の正体は床が僅かに軋んだことだった。体重の重い人間が忍び足で近づいてきてる。

「っ!」

 紫音を突き飛ばし。振り向くのと、銀色の閃光が走るのはほぼ同時だった。

 咄嗟に体を僅かに逸らして必殺の一撃をかわしていく。

 身体の大きな男がつんのめって前へと突進していく。壁を片手で張り手するように突き出し。こちらに方向転換する。

 それを、サイドステップでもう一度かわした。

「クソがっ、死ねや」

 一人生きていることに気がつかなかった。

 紫音を付け回して、部屋の中で待ち伏せていたのか。

 そして、動揺のせいで次の攻撃はうまくかわせない。

 男が繰り出したのはナイフではなく。拾い上げた缶詰の投擲だった。

 胸と腹の中間に命中して、玲奈が苦しげな声を漏らした。

 大柄な男が捨て身のタックルを加え、彼女を無理矢理地面に倒した。

 さらにストンピングで踏み潰そうとする。それを飛び跳ねるようにぱっと離れ、素早く起き上がり、一定の距離を保つ。バレエのダンサーのような俊敏さ。

 玲奈は離れる寸前、素早く二回ほどナイフを振った。男の頬と、胸がざっくり切れていた。

「痛えな、やりやがった!」

 本当は目を狙ったものだった、だが外した。頬がべろっと剥がれている。

 もう一箇所は腕を狙ったものだった、空回りして腹に当たった、出血がひどく、それなりのダメージを与えただろう。

「この野郎!」

 それが逆に男の血を逆流させることになってしまった。

「死ねって!」

 男が声にならない金切音を上げた。

 死に物狂いの突進、一番厄介なタイプの相手だった。

 ナイフの銀色が殺意を纏って襲い掛かる。

 直線的な包丁。男が持っているのは一般的な料理用ナイフだった。

 一方で玲奈が抜き出したのは、前方にかけて三日月状に湾曲したナイフだった。殺傷のための刃物だと一目でわかるような歪さ。


 取っ組み合うように、二人はぶつかり合う。その勢いでテーブルがひっくり返る。食器や雑誌が音を立てて地面にぶち撒けられる。

 玲奈は体重に身を任せて、いちど地面で受身をとりながら回り込むように起き上がった。

 男は異常なほどのパワーとスピードで包丁を突き出した。なんのためらいもない。

 玲奈は軽い身のこなしでかわすが、二度三度は持たないことがわかった。

 厄介なのは一度、二度、と途切れるような動きではなく。

「8の字」に振り回すから、隙が無かった。今の玲奈には相手の動きを見切るだけの、余力は残っていなかった。

 ヒュン、ヒュン、という音が威圧感という防壁を生み出していた。バックステップで後方にかわすしか無い。

 今度は男がフェイント送り出した、その動きを見切り通すことができず、絡み合う形で、突進をもろに食った、そのまま地面に叩きつけられた。

 全体重をのせて、男が玲奈に馬乗りになる。両手で天井へと一度あげた包丁を振り下ろした。

 それが大きな隙を生み出していた。胸元がガラ空きになる。その一瞬を逃さない。

「玲奈ぁっ!」

 紫音は叫び声をあげていた。

 男のあばら骨の隙間を縫うように、ナイフが心臓に突き刺さっていた。

 男が信じられないものを見るような目で玲奈を見ていた。目玉が飛び出しそうなほど見開いた。凄まじい形相だった。

 玲奈がナイフを引き抜いた。

 三日月のように湾曲した刃が皮膚や心臓を突き破り、大量の血液が吹き出した。

 男がうなだれるように、力を失っていく。

 血液が流れ出て、玲奈の顔にかかっていた。腕や顔、髪を赤く濡らす。

 玲奈は歯を食いしばり、荒い呼吸を上げる。

 ふぅーっ、ふぅーっ、とまるで獣のようだった。口の端からよだれが流れていた。

「玲奈!」

 紫音の声に反応して顔をこちらに向けた。

 左の目にも血液が流れ込み、一筋垂れていた。

 それが血の涙を流しているように見えた。

「紫音……」

 こちらに救いを求めて泣いているように見えた。

「見ないで……」

 この団地の前に来た時、悲しいことはしたくない。と話し合っていた。

 そんな玲奈にとっては一番見られたくない姿のはずだった。

 それから目を離せばいいのに。

 紫音はわけもわからず。突っ立っていた。

 ただ、呆然とそれを眺めることしか出来なかった。憐んでいた。胸が張り裂けそうだったから。

 せめて、楽な体勢にしてあげたかった。

「あのさ……重くない? それって……」

 玲奈が身じろぎして動くと。

 男の身体がずり落ちた。紫音の方にだらんと転がる。まるで暴力行為の結果として差し出されたようだった。

 男はまだ生きていた。

 口からゴボゴボと音を立てて、血を吐いていた。しばらくもがいたあと。やがて静かになって二度と動かなくなった。

 玲奈はこちらを向いたまま、壁まで背中で這っていく。完全に怯えていた、震えて。縮こまってしまう。子供のように。両膝まで抱えて。

 いたたまれなくなって。紫音も黙りこんだ。

 今回はあまりにも生々しかった。銃殺とは比べものにならないくらいに。

「……ごめん……なさい……」

「まってよ、何で謝るのさ?」

「……見せたくなかったから…………」

「気を使ってくれてるの?」

 紫音は近寄ると、玲奈の手を取った。血液の感触がした。粘っこくって、生温い。

 それが接着剤のように張り付いて、二人の手が重なっていた。

「玲奈、大丈夫だよ。もう終わったっぽいから」

 まるで小さな子供をあやすような気持ちだった。

 受け止められるように、腕を回して抱きしめた。

「わたし……わた……し……」

「もう、大丈夫だから」

 少しだけ涙声で慰めた。

「紫音助けて……」

 玲奈は答えた。いつもよりも幼い声で、震えた声。

「大丈夫だから。落ち着いて」

「さっきまで、平気だった。気が抜けたら、急に怖いのを思い出しちゃって」

「ごめんなさい。いつもこんなことばかりさせて」

「…………」

「ちょっと待ってて。タオル濡らしてくるね。とりあえず顔とか体とか拭こうよ」

「待って、いかないで」

 玲奈はしがみついた。全体重で引っ張られて危うくひっくり返りそうになる。

「いやだ、離さないで、そばにいてよ」

「わかった。ずっと離さないよ。ぎゅーってしてあげる」

 死体が置かれた部屋、血で染められた床、西日が差し込んだ窓、畳の上、飛び散った家具や雑誌、ガラクタ、その壁際に、二人は手をとりながら肩を寄せあった、他に一体何をすればいいのかわからなかった。

「寒いよ、どうしてかな」

「もう少し身体を寄せようか」

 二人はお互いに身を寄せ合っていた。

「紫音、あったかい」

「ちょっと待って、もう少しだけ頭下げて」

「こう?」

「聞こえるでしょ?」

「何が?」

 自分の胸に押しつける。ドクン。ドクン。と心臓が脈打つのを自分で感じる。

「何でかな。すごく落ち着く」

「お母さんが昔、よくしてくれたの」

「もっと聞かせて、紫音の音を」

「恥ずかしいな」

 抱きしめるように。血塗れの抱擁は続いていた。

 夕日が差し込むと、血液が宝石のように輝いた。

 自分の胸の中で微睡んでいる玲奈を眺め下ろす。

 瞳が涙で潤んでいる。頬も耳も赤い。黒い髪の毛も日で照らされて今は金糸のように跳ねている。


「私たちってなんだかすごく不幸だね」

 紫音が言った。ため息混じりに。

「私のせいだよね」

「ばか、あんたがいなかったらわたしは死んでるっつーの」

「ほんとにそう思う?」

「本当だよ。わたしは何もしてあげられないから。嫌なことは全部あんたが引き受けてくれた。本当に私って全部嫌なこと。残酷なこと。悲しいこと。責任とか玲奈に押しつけてる。そんなのって無いじゃん……嫌だわ……こんなの……」

「だったら。一つだけ。お願いしていい? 私もう少しだけこのままでいてくれる……?」

「いいよ。てか、そんなのでいいの?」

「うん」

「あのさ、提案なんだけど。少し休んだらさ、もうここを出て行こうよ」

「……うん」

「また、二人で野宿しようよ、いつもみたいに」

「いつもみたいに?」

「そう、いつもみたいに」

 赤い部屋で二人は、お互いの呼吸と体温だけを感じ合っていた。




 住民達が睨みつけていた。

 怯えた目をして。一定の距離を保って。

 玲奈と紫音は駐車場のあるところまで歩いていた。

 誰も何も言ってこない。在るのは殺気と怯えが混じった視線だけ。

 無言の方が怒鳴り散らされるよりもずっと怖かった。

 早くその場から離れたかった。

「人殺し」

 誰かが言った。女の子の声だった。

 二人は振り返ることもなく、歩みを止めなかった。

 気まずい、沈黙が流れる。

「人殺し」

 また、誰かが言った。今度は老人の声だった。

 紫音をいつも孫扱いしていた男性だった。

 黙られていても怖かったが。

 いざ、罵倒が始まると恐怖は高まっていく。

 身体が震え始めていた。

「人殺し」

 今度は中年の男の声だった。悲しみと絶望が入り混じった悲痛な声だった。

「人殺し」

 また、誰かが言った。男性なのか女性なのか分からなかった。

「人殺し」

 ワンテンポ早く、別の誰かが呼応して言った。

「人殺し」

 別の誰かが言った。

 怨念と憎悪を込めて。

「人殺し」

 誰かが言った。

 酷く白けた声。放心してるのかも知れない。

「人殺し」

 勇気を振り絞った声、少年のものだろうか。まだ幼い。

 もしかしたら、玲奈は親を殺してしまったのかもしれない。

 そのことに気付くと涙が流れていた。

「人殺し」

 同じような声が聞こえる。激情。そして憤怒。止めどない感情。

「人殺し」

 子供の声。まだ、紫音の半分も、生きていないような。

「人殺し、人殺し、人殺し」

 誰か繰り返してる怨嗟。怒号。

「人殺し」

「人殺し」

 怒り涙、血反吐。嗚咽。発狂。

「人殺し」

 エスカレート。

「人殺し」

 殺気、狂気。

「人殺し」

 殺。怨。

「人殺し」

 狂。

 ヒトゴロシ。

「やめてよーっ!!」

 紫音が叫んだ。

 ヒステリックに。金切り声で。

「紫音!」

 玲奈がつられて叫んでいた。

「みんなが先にやったんじゃん! なんでわたし達のせいにするの? どうして? わかんない! もう嫌!」

 ガタガタと震えていた。耳を塞いで。その場にしゃがみ込んだ。

 慌てて玲奈が介抱しようと抱きしめる。紫音は過呼吸さえ起こしていた。

 玲奈はビニール袋を探して辺りを見回していた。

 みんなは遠くから睨んでいた。

 当然、助けようとするものなどいない。

 周囲の憎悪が強まっていくのを背中で感じる。それから守るように玲奈は紫音を抱きしめた。

「泣いてんじゃねえよ」

 誰かが嘲るように言った。

 仲間が死んだこの状況で。

 紫音の過呼吸。その不幸を笑っていた。

 玲奈にはなにより恐ろしかった。仲間の命より、紫音の発作を面白がっている。そのことが。

「お願い、この子を……」

 玲奈が言いかけた時。

 頬を何かが打った。

 いつのまにか寄ってきた少年少女たちが玲奈と紫音の体を突き飛ばした。

 鬼ごっこの時の。勢い余ったような張り手のように。こちらが萎縮して撃てないことを知っての行為か。

 アサルトライフルを担いだ玲奈さえ、平手をまともに受けていた。頭を叩かれる。

 怖くて、なすがままにされていた。髪の毛を引っ張られる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 いつのまにかそんな声が出ていた。

 紫音が一際きつい蹴りを入れられて悲鳴を上げた。なおも過呼吸は続いている。目をギュッと閉じて。苦しみに耐えている。

 ようやく我に帰った。玲奈は拳銃を取り出すと、少年の足元を撃った。

 地面が弾け飛ぶ。

 周囲が静まり返る。少年がショックで泣き叫ぶ。

 その声を聞いても可哀想だと思えなかった。

 同じように痛めつけてやるべきだった。

 わからせてやるべきだった。

 それと同時におかしなことが起きた。

 空気が燃えるように暑くなり。住民達が悲鳴を上げていた。

 ぐわん。と体の芯が揺れる。揺さぶられる。最初は自分も発作を起こしたのかと思ったが、違った。

 実際に地面は揺れていた。

 それも地震の揺れ方とはちがう。

 突風が吹いた。そして、熱い空気の塊が周囲を包み込んだ。

 火事だった。火の粉が舞っていた。

 夕焼けの橙色と炎の朱色が混じり合い、赤い地獄を作りだす。

 みるみるうちに炎が燃え広がる。

 ありえない。

 直感でわかる。団地の建物がこんな燃え方はしない。

 意図的に誰かが燃やしたのだとわかった。

 玲奈は紫音の口元をさっきの濡らしたハンカチで覆った。

 この手の建物は燃えると人体に有害な物質が空気中に散らばりやすく、炎そのものよりも直接の死因になる。

 さっきまで叫んでいた住民達が四方八方に散らばっていく。

 わんわん泣いている子供を置き去りにして走り出していた。

 玲奈も同じことをした。紫音を抱き抱えて。

 突然、小さな破裂音がした。

 ばたり。と目の前の老婆が倒れた。

 狙撃されているのだ。

 誰が撃っているのか分からない。

 殺し損ねた住民だろうか。

 腰元で何かが弾け飛んでいた。アサルトライフルに流れ弾が当たってしまったのだ。もう使い物にならない。ベルトごとそれを投げ捨てていた。

 改めて紫音を抱き直す。

 車の中にまで駆け足になるしかなかった。

 身体中の血が沸騰しそうなほど、熱かった。

 風向きのおかげで、煙を吸わなくて済む。運が悪ければすぐに死んでいただろう。

 破裂音が鳴り響く。住民達が次々と倒れていく。無差別射撃だろうか。

 バタタタタタッ。というバイクのエンジンが震えるような音だった。

 それがマシンガンの掃射音だと気がつくのに、長い時間がかかった。一瞬だけ棒立ちになってしまうほど。

 玲奈のそばの男がさらに肉を弾け飛ばしながら、倒れた。顔に血肉がかかる。

 動き続けた方が良い。

 パニックになりかけながらも、突き進んでいた。

 玲奈は足を掴まれて転倒しそうになりかけるが、蹴り飛ばして突っ切った。

 戦場から地獄へと化した団地。そこから逃れるために。生きながらえるために。

 近くの老婆が血で赤い霧を生じながら倒れた。運良く二人の盾として弾丸から庇ってくれた。

 貫通力の弱さから、拳銃弾を使用するサブマシンガンだとアタリを付けていた。

 パニックになりそうな頭で思考回路は反射的に答えを導き出した。

 バタタタタタッとまた、鈍い音が鳴り響いた。視界の端で、また別の誰かが撃たれた。確認してる暇はない。

 弾薬を使い切ったから、装填されるまでは余裕があるだろうか。

 発作を起こし、意思疎通が出来ない紫音。周囲の状況。熱気。そして何者かの狙撃。戦闘と殺し合いの疲労。精神的な負荷。それら全てで頭がどうにかなりそうだった。

 それでも、生きなくてはならない。生き延びて。生き続ける。ただ生きる。

 この赤い地獄を。赤しかない世界から。

 体の反応だけでどうにかしようと走れるのは、修羅場をくぐり抜けて来た、勘だった。

 また、大きな爆発の音がした。

 どうやら複数で同じような放火が行われているらしい。

 激しい爆発音から、それが爆弾の類だと思った。

 業火に燃えていく。みんなが暮らした世界が無惨にも燃えて無くなる。

 黒い人影が見えた。その男はヘルメットをかぶっていた。

 レンズ越しにこちらを眺めている。

 複数いる。軍隊か何かだろうか。

 玲奈は拳銃を構えた、だけど男達は背中を向けてどこかへと去っていった。

 燃え盛る街。視界の端にかぼちゃ畑が燃えているのが見えた。全て、外部の人間の仕業なのだと。悟った。積み重ねてきたものが全て壊されていく。

 車の中に滑り込んだ。

 紫音の身体も押し込んだ。

 慌ててアクセルを踏み込む。血塗れの腕でハンドルを握る。

 赤く染まった地を出ようとした。

 勢いよく発進させていく。

 道路から飛び出た。

 助けを求める男を無視した。

 全ては。全ては紫音を守るため。それ以外の理由は必要無かった。

 異変に気が付いた。

 煽り運転のようにバイクが激しく動いている。

 窓ガラスを開けると、玲奈は拳銃を片手で突き出し、何度も発砲した。こんなデタラメな乱射なんて。命中しないことは分かっていた。

 運が良ければ当たればいいし、牽制になると踏んでいた。

 バイクは特に微動だにせず。スピードをさらに早めて。こちらの先を二十メートル程進んでいた。

 蛇行運転は、めちゃくちゃな動きにも関わらず不気味なほど、正確だった。

 拳銃の弾が切れた。スライドが引きっぱなしになって固定された。

 新たな弾倉に取り替えようとする。

 その瞬間に車が派手にひっくり返るのを遠のいていく意識の中で感じていた。



 一体どれだけの時間が経ったのだろうか。

 雨の中で倒れていた、訳がわからなかった、自分が紫音なのか、玲奈なのかさえも分からなくなっていた。

 あるのはただ、冷たい雨に打たれて、全てがわからなくなってくるばかりだった。

 泥が、冷たく。体を、底なし沼のように、冷たい空間の中に埋め込む落としていた。

 呼吸をするたびに冷たい空気で肺が凍えてしまいそうだった。

 もう光がなくなっていた、自分が死んだんだと思っていた。意識が途切れ途切れだ。誰かに掴まれてたくさんの人間に掴まれて渡されていく。

 大量の腕が絡み付いていた。

 なすがままになっていた。

 どこか車の中に入れられた。男たちの声がする、必死で動こうともがく、だけど体も動かなかった。水浸しの服が脱がされていくのを感じていた。空気が冷たくて怖い。胸を強く押されているのを感じた。怖くて堪らないのに。眠気は限界を迎えていた、なによりも心地の良い強烈な眠気が漂っていた、暗闇の中で暗転した。


 夢を見ていた。

 男が立っていた。

 自分がしでかした、その顛末を見ていた。

 自らもずぶ濡れになりながら。

 破壊し尽くした街を眺めていた。

 平和だった。小さな国を壊した。

 善良な人々を死に追いやった。

 それでも、足りなかった。

 彼の中の憎悪は、雨程度では冷えなかった。

 燃えつくような激しい憎しみが、胸の内で煌めいていた。

 もっとたくさんの死を求めていた。

 無感動に、ただ。

 他者の死だけを求めていた。

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