本性

団地での暮らしが二週間ほど続いていた、思った以上に迎えが来るの遅かった。

いつまで経っても志賀は迎えには来なかった。

とはいえ、団地での生活は楽しかった。

紫音も玲奈も、その日の暮らしのあてのない旅路よりも。規則正しくスケジュールが決まった生活の方がはるかに楽だった

あくせくすることなく、食事も用意されて寝床も提供されるのだから、これまでの旅路での疲れを癒すのには充分だった。

紫音は、同年代の子たちとずいぶん仲良くなっていたし。普通に打ち解けていた。

オシャレの相談に乗ることもあれば、恋の悩みに対して聞き役になることも多かった。

笑い話をしてみんなを盛り上げることがあったり。自分からスポーツに参加することさえあった。

玲奈は、毎日のようにカメラの使い方を天野から教わっていた。

今では、自分でピントを合わせることもできるし。現像のやり方まで教わっていた。

夕方になると、団地の屋上から風景を撮影していた。

自分専用のカメラが欲しいと言い出していたし。

天野が所持していた、有名なカメラマンの写真集をいくつも眺めていた。

戦場のものもあれば、日常生活を撮ったものもある。世界遺産の本もあれば。三毛猫の写真集もある。

映画の撮影技法に関する本もあったので、作業の合間合間にその本を読み込んでいた。

その話を紫音にすることがとても多かった。

いくつもお気に入りの写真があるらしい。

「紫音、後でかぼちゃの手入れをしてほしいって、中島さんが呼んでたよ」

「うん、行ってくる」

紫音が、いつもの休憩所から離れた時だった、男たちが四、五人ほど集まってこそこそと何か話し合っているのを見かけた。

横目でチラチラとこちらを見てくるのを見て、胸騒ぎがする。

以前にも感じていた性的な目で見るような目付きが露骨になっていた。

胸や股間、臀部に視線を向けてくるのも、隠そうともしない。思わず身震いする。

父親ほどの年齢の男が話しかけてくるのが、特に怖い。

こんなに体格差があるのに、平気で付けよろうとしてくる。

年齢的には三十歳の差がありそうだ。

客観的に見て、滑稽に感じないのか。

玲奈と話し合って、さらに警戒を強めたほうがいいと思っていた。

夕食を食べ終わった後、すぐに玲奈のもとのに行こうとしたが。

まるで見計らったかのように、おじいさんに鶏の世話をしてほしいと言われた。

最初は断ろうとしたが、食糧のことに関して言われると、食べさせてもらっているために断りにくく、結局流されてしまった。

「この子さ、トサカが傾いちゃってる、あまり体調良くないみたいです」

「じゃあさ、リラックスさせてあげてね」

「はーい。こうやってツボを刺激するのって、結構楽しいですよね」

紫音も鶏の世話は慣れたものだった。

鶏たちを捕まえると、ひっくり返して、太ももと胴体の間にあるツボを指で刺激してリラックスさせていく。

こうすることで、血行を良くして体調が安定していくのだ。

教わった通りの手解きで飼い慣らしていく。

鶏達は人慣れしているので、逃げ出すことも無く。世話自体は楽だった。

「そうそう、トリビアなんだけどね。この子達のエサの中に、死んだニワトリの骨を入れてるんだよ、そうすると味の濃い卵をたくさん産むからね」

「ええっ、それじゃ共食いじゃないですか?」

言いながら、鶏を抱えて、壁際の方まで移動した。壁にもたれかかるように座り込む。

死角を作ってしまうと背後から襲われるんじゃないかと警戒してるからだった。

「そうだよ、だけどそれをやることで俺たちに栄養価の高い玉子を産んでくれるし、餌も節約できるって寸法なんだよ」

鶏を揉みながら、相手の男を見た。

紫音から見てどこかよそよそしい態度にも思えた。

はっきり黒と言えないが、白とは絶対に言えないグレーだと思った。

「ごめんなさい、今ちょっとお手洗いに行ってもいいですか?」

「あーいいよ、行っておいで」

その場を抜けると、数人の男達がやはりジロジロとこちらを見ているのがわかる。

昼間以上に露骨だった。

女性たちも、その場全体の異変には感づいている様子ではあった。

「気持ち悪い……」

思わず口からため息と共に漏れる。

いつもの裏庭に行くと玲奈を見つける、彼女は子供たちに囲まれて一緒に皿洗いをしている様子だった。

「ねえ、玲奈。ちょっといい?」

「うん、わかってる。みんなから睨まれてるの、私だってわかるよ」

紫音はそのとなりにいる子供たちに近づく。

「ねえ、わたし頭が痛いから休む。田中のおっさんにごめんなさいって謝っておいて」

「わかったー、しおちゃんゆっくり休んでてねー」

「ありがと、おやすみなさい」

紫音は手を振った。

「やっぱりわたしたち、狙われてると思う。子供たちは何も知らないみたいだけど……」

手を振りながら話していた。

玲奈は子供の背中を見ながら口を開いた。

「もしかしたら、お風呂場とかで会話を聞かれたのかもしれないし今だって……」

「うっそ、お風呂覗かれてたの? 最悪……」

「お皿洗い、途中だけどおしまい。今から車に乗って、ここを出よう。間に合わなくなる前に」

「……そうだね。志賀さんのところに直接駆け込んじゃおうか」

二人の決断は早かった。引き返せるなら今のうちだった。

駐車場まで走って行く。

ようやく車が見えた時だった。

一台の大型トラックがこちらに向かって走って来ていた。

「ねえ、あの車。動きがおかしくない?」

明らかな暴走運転のようで、減速するつもりは無いらしく。こちらまで走ってくる。

思わぬ迫力に紫音は目をつぶってしまった。

トラックは二人のいる地点から寸前で止まっていた。通せんぼするかのように。横に停車する。

運転席から、男が降りてくる。

田嶋だった。建築現場にいるようなグレーの作業服を着ており。足元はコンバットブーツで固めていた。

粗暴な顔立ちで、耳には年不相応な金色のピアスを付けており。浅黒い肌で、白髪混じりなのがまた清潔感を欠いていた。

下っ端の若い男達がドタバタと、集まってくる。あっという間に取り囲まれてしまう。

紫音は不安げに周囲を見回す。

作業着の者もいるが、ジャージ姿の者も多かった。みんな同じように鋭い目つきで睨んでくる。異様な雰囲気だった。

「君たちと話をしたい、いいかね?」

田島は余裕の表情で、こちらに問いかけてくる。

男たちはざっと十五人近くいた、素手でやりあって勝てる人数ではない。

紫音は、自分たちの車を横目で見ていた。

車の中にある武器弾薬はもしかしたら、すでに奪われてる可能性はある。

ガソリンさえ抜かれているかもしれなかった。

「できれば争いたくはないし、おとなしく従ってほしいと思っている」

「ねえ、待ってよ。なんで? 志賀さんとの約束は?」

紫音は聞いていた。

「必要だからだ。黙ってついてきて欲しい」

田嶋は冷徹に言い切った。

手下の若者が武器であるクロスボウを構えていた。すでに矢がセットされている。

本来なら野生動物を捕まえるために皆で共有していたのに、今は自分たち向けられている。その意味はとても恐ろしかった。

「今から君たちとじっくり話さなくてはならない」

人通りが少ない道を通りながら、ほとんど手入れがされていないエリアの方まで向かっていく。

その部屋は他の部屋と違い、簡素で、ロクに家具も置かれていなかった。

その代わり金属バットや木刀がそのままの状態で置かれている。

明らかな血痕があり。錆色のペンキのように飛び散っていた。

紫音は怯えた様子で玲奈の手をずっと握っていた。それを玲奈は庇うように歩いていた。

「二人とも上着を脱げ、ゆっくりとな」

田嶋の指示に従い、紫音は慌ててマウンテンパーカーを脱いで手下の青年に渡していた。

逆に玲奈はノロノロと時間をかけてコートを脱いで、近くの若者に渡した。

「おい、これはなんだよ」

コートの中のナイフが取り出される。

それも四本も。

それを見て田嶋はニヤニヤ笑っていた。

「こんなものを持ち歩いているのか。面白い子だな」

大、中、小、小のナイフがテーブルの上に並べられる。

紫音は息を呑む。

これだけの物を見られてしまうと、話し合いで解決するような段階ではなくなってしまう気がした。

「こんな部屋、天野さんの写真集にはなかったんだけど……」

この状況で、玲奈はどこか達観したように話していた。

「そりゃそうだ、誰もこんな部屋、好き好んで作ったわけじゃない、部外者のわけのわからない連中のために用意したからな」

嫌味ったらしく、田嶋は言った。

木製の椅子に無理矢理革のベルトを取り付けたような椅子を軽く蹴り飛ばした。明らかに拷問用だとわかる。

「これを聞いてみろよ」

『あー、貴重なお湯がもったいない、まあいいか』

機械特有の荒い音声、それを聞いた紫音は愕然とした。

羞恥と驚愕のあまり、顔が赤くなる。

田嶋は手に持ったボイスレコーダーをヒラヒラと振った。まるで扇子のように。

一部始終が全て録音されていた。

お湯が跳ねる音や二人の息遣いまで。

「俺も星は綺麗だと思う。感受性は乏しい方だが、見てると癒されるよ。都会が全滅してからは特によく見えるようになったな」

音声が流れ続けるボイスレコーダーを見つめながら、田嶋は聞いてくる。

「ざっくばらんに聞くけど、君たち二人は何者なんだ? 俺にはみんなを守る責任と義務があるからな」

「私たちは。西の方向へ目指してる。それは志賀という方とも話がついてるはずだけど……」

田嶋は玲奈には脅しが通用しにくいと判断したのか、その隣にいる紫音に目線を合わせた。

萎縮しており。顔を下に伏せたままだった。

「そっちの小さいの。遊び呆けてそうな雰囲気感じるよ。まあ、最近の若い子はみんなそうなんだろうけどさ」

玲奈の手を握りしめる強さが増した。

逆に紫音の手を力強く握り返していた。

「言っておくけど、この子をあなた達が手出しした場合。私だけでなく、依頼主の人たちもあなた方に報復すると思いますけど」

静かに玲奈が告げた。

「報復報復って、そんなに大袈裟になるのか?」

「今は大人しくしているけど、もし何かしてきたら。私、戦います」

真っ直ぐに視線を合わせる。

その目に迷いは無い。

「もう一度言うが、別に争うつもりはない。俺はただ、この街でラクな生活がしたいだけなんだよ」

田嶋は虚ろな目で答えた。

とろん。とした気力のない目。

瞳孔が開きっぱなしの黒い目。

「時々、戦いに行くフリはしてるさ。噂でも聞いてるだろ? だけど、大抵は浮浪者みたいのを適当に痛め付けているだけだよ。なぜそんなことをするのかというと、みんなの持つ恐怖を利用すれば、この小さな『国』は平和でいられるからだ」

田嶋の告白には熱も感情もこもっていなかった。ただ事実だけを述べているように冷ややかだった。

「みんなこんな状況だから。何かに依存したい。だから、俺が正義のヒーローと汚れ役をやってあげてるんだよ。何となく分かるだろ?」

特に言い訳がましくもなく。あっけらかんと答えていた。本人の認識もその程度なのだろう。

「……誰も何も言わないけど……薄々皆感づいてるんじゃないの……仕方なく従わされてるだけだって……ご飯だってわたし達の分はすごく少ないもん……みんな時々噂してるよ……」

紫音は震えながら、つぶやくように言った。

隣にいた玲奈も頷いた。

「おい、お前。口の聞き方に気をつけろよ」

若い青年が腹を立てて、詰め寄ろうとする。

それを田嶋が手で制して止めた。

「よせよ。別に構わない、事実だからな」

ふふん、と鼻を鳴らす。どういうわけか、とても満足げに。

「誰も一人で生き抜く力は無いんだよ。俺だってそうさ。だからこそみんなで助け合わないといけないんだよ、俺はその『お手伝い』をしている。みんなより多少得はしているけど、手数料として受け取っている感覚かな」

平然としていた。一人で喋って一人で納得してるような滑稽さがあった。

「それよりも、誰と誰が俺のことを疑っている? 天野か? それとも吉川か? 俺もあいつらには手を焼いていた、場を乱すような連中にはここにいて欲しくない、事故で死んでもらいたいくらいだった」

突然、田嶋は苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。

「それでもリーダーとして反抗的な連中も従えさせるしかない、有効なのは『共通の敵』がいた時だな。みんなが納得するわかりやすい脅威を作り出すと場がまとまりやすくなる。その役割をお前たち二人にやらせてやってもいいとも考えていたこともある」

そこで口の両端が吊り上がって笑みを浮かべた。黄色い犬歯が剥き出しになった。作り笑いにさえ見えた。

「だけど、お前たちにはもっと違う利用価値があると考えた、お前を俺の女にすることだな」

田嶋がじっと見つめてくる。

紫音は不安気に後ずさった。歯がカチカチと震えていた。思わず顎を食いしばる。

「ねえ、何を言ってるの?」

さすがの玲奈も田嶋の言動には訝しむ。目の闇が深まっていく。今にも怒鳴り出しそうな、険しい目付きだった。

「若くて。血統のある女を嫁にして、俺の地位を上げ。この国の発展を願いたい。早い話、逆玉の輿に乗りたいと思っていた」

「ちょっと待ってください、それはどういうことですか?」

一方的な田嶋の会話に玲奈の目が深く澱んでいく。

隣にいる紫音には彼女の身体から凶暴な殺気が放たれているように感じた。

だんだんと自分の体全体が震えていることに気が付いた。手汗が流れ出ているのがわかる。

「だからさ。恋愛関係に陥り。子供を授かった。そういう既成概事実を作りたい」

その話を聞いていて、紫音は青ざめた顔になる。

「……なにそれ、本気なの? わたしがあんたと……?」

田嶋は真顔になる。

瞳孔が開き切って真っ黒な目をしていた。

「ああ、大真面目だよ。こんなことでふざけたりなんかしないだろ」

紫音の隣で、一際強い殺気を感じた。二人の発する悪意にすくみ上がるしかない。

「あなたがそれを望んでいたとして、この子がそれを受け入れると思いますか? 志賀さんを騙し通せると思いますか? 私がそれを許すと思いますか?」

毅然とした態度で玲奈は低い声で伝えたが、今にも暴れ出しそうな危うさがある。

おそらく、冷静さを欠いている。

怒りを抑えるのに精一杯なのだろう。

肌で嫌な緊張感が伝わってくる。

「俺ももう歳を取りすぎた。昔みたいな無茶は出来なくなって来てる。君達の若さが羨ましいよ。だからここらで身を落ち着けたいとは思ってたんだよ」

それに対しても田嶋は何も動じることなく。悪びれる様子も無く。平然と語り続けていた。

虚無だけが、深まっていく。

「わかりました。もう何も言うことはありません」

「ふう、みんながもっと物分かりが良いと助かるのになあ……みんなに振り回されてばかりで困ってるよ……」

田嶋はただ呆れたような顔をした。

傍にいた若い男が怯えたように後ずさる。

無理も無い。紫音でさえ、あまりの緊張感から震えひとつ起こせなくなっていた。

田嶋に対してではなく

雰囲気だけで憎悪と殺意だけが無制限に膨れ上がっていくのがわかる。玲奈から手を離してしまいたいとさえ思った。

「出来るだけ痛い思いはさせたく無い。頼むよ」

「痛い思いはさせない。最初から」

「面倒だよ、まったく。ほらやれよ」

田嶋が指を向けた。

次いで、背後の男たちが動く。

スニーカーやブーツの足音が近付いてくる。

そして玲奈が振り向きざまに男達の顔に何かを繰り出した。

二人の男が悲鳴を上げる。

単なる手刀だった。指先で目を素早く突いた。

猫のように俊敏な動きだった。

視界を痛みとともに封じられた男二人に蹴りの追撃を加える。

女だからと油断していたようだった。

あっさりと戦意を喪失していた。

田嶋の動きは早かった。どこからともなく拳銃を握りしめていた。照準を玲奈に合わせる。

それすらも察知していたかのように、玲奈はいつのまにか拾い上げていた灰皿を投げつけていた。

拳銃を持った腕に命中する。

「あっ、いてえなっ」

リーダーは立て続けに何発も拳銃を撃った。狭い部屋の中に火薬の音が響きわたる。鼓膜が割れてしまいそうだった。紫音は思わず耳を塞ぎたくなった。

狙いがまともに定められていない凶弾は部下の男の頭をえぐった。もう一人の青年は左胸に命中して風穴を開けた。玲奈が盾に使ったからだった。

悲鳴を紫音はあげた。

血飛沫が周辺に飛び散り、何も無かった部屋に二つの死体が音を立てて倒れ。血溜まりを作っていく。

「ちくしょう。あとでぶっ殺してやるっ」

捨て台詞を吐くと。そのまま田嶋は部屋の外へと走りだして逃れていった。


一瞬の出来事だった。

紫音はわけもわからないまま。目の前で起きたことを眺めているしかない。突っ立っていることしかできない。

その隣で玲奈が何かを呟いていた。

「……逃したか、失敗した、私は馬鹿だった」

早くも奪われたアサルトライフルを取り出すと、いつでも発射出来る状態にしていた。

どうやら田嶋達は使い方がわからなくて、放置していたらしい。

「今度はトドメを刺す。もう……許さない」

さらにコートを羽織る。黒いロングコートが悪霊を連想させた。

「紫音、隠れてて。部屋の外の男達はみんな殺すから……。あなたは子供達のいる部屋に避難して。出来るだけ他の子達を集めて盾にするように努力して」

その言葉に、自分の耳を疑った。

「え、何を言ってるの? そんなことしたら、みんなを巻き込んじゃうんだよ?」

「紫音、しっかりしてよ。先に裏切ったのはあっちの方。だから庇う必要無いよ」

「でも、あの人たちには何の罪も無いんだよ?」

「関係無くは無いよ。私達を最後まで庇うべきだった。それなのにその努力を怠ったんだよ」

様子がおかしかった。

いつもとは全然違う。憎しみに囚われているような不穏な状態。目だけが血走ったように開いている。

この前、湯船の中で語り合った時とはまるで別人だった。

「怒るのは分かるけどさ……出来るだけ、離れた場所で戦うとか出来ないの?」

紫音の必死の訴えにも、聞く耳を持ってはいなかった。

「あの人たちは尻尾を振る相手を間違えた。死んでも仕方がない。役に立たないなら。せめて弾除けくらいにはなってもらえば良い」

淡々と告げた。ライフルの弾倉を取り付け。コッキングした。

その言葉に、血が凍りそうだった。

それは子供達を盾に使うような冷酷な指示だった。

さっきまで一緒に皿洗いまでしていたのに。

「早く準備して。私といると危ない」

今度は拳銃の用意をしていた。

「玲奈、お願いだから。そんなこと言うのはやめてよ。あの人たちと同じになっちゃうよ。わたしの言ってることがわかるでしょう?」

「私に必要なのは見知らぬ人間のつまらない命なんかじゃ無い」

きっぱりと跳ねつけてくる。

「今はただ、あなたを守りたい」

「……わたしを守りたい?」

「そう」

「そのためには何でもしていいの?」

「そうだよ。そのためなら何だってする。この場の全員を敵に回しても良い。片っ端から消していってやる。一人も残さない」

「やめて、怖いよ……」

紫音の怯えが伝わったのか、玲奈は気まずそうに顔を背けた。目に険がある微妙な表情。

「こんな感情、あなたには分からない。分からないままでいて欲しい。こんなに辛いことは私だけが引き受ければ良い」

その手が紫音の頬に触れた。思わず、身をすくませる。

あれだけ受け止めようとしていたのに。

今は怖くて仕方がなかった。

「やっぱり温かいね……」

「…………」

「ごめんね。早くして、今から出発するから」

「…………」

自分の判断を微塵も疑ってない。完全にスイッチが入ってしまっている。今はどんな言葉もきっと届かない。

それを見て、玲奈という人間の本質を垣間見た気がした。

「……わかった」

そしてそれに従う自分も、同類なんだと感じられる。

「どうすれば良いか教えて。言う通りにするから」

紫音自身も心の中では見切りをつけていたのも事実だった。

この団地の人達とは、上辺だけの安っぽい付き合いでしか無かったのだ。

現実的に考えて。何の利益も無い。このままいけば酷い目に合わされる。それこそ死んだ方がマシなくらいの地獄のような思いをさせられる。

誰が好んで強姦などされるのか。

それだったら。目の前の玲奈が守ってくれるならそれでいい。

辛いことを引き受けてくれるなら、それを代わりにやってもらえば良い。

攻撃してくるなら、壊して消してしまえばいい。消される前に消してしまえばいい。

自分では出来ないことだけど、玲奈ならやれる。

本人もそれを望んでいる。

それの何が問題なのか。

「私が出発した後、五分後に部屋から出て行って。あなたはすぐには殺されない。何かあったらこれで反撃しなさい」

玲奈は小さな拳銃を取り出すと紫音に差し出した。

「ねえ、玲奈」

「なに?」

「生きて帰ってきて。一緒にいたいから」

もうそれしか、本心から言える言葉は無かった。

伝えられる時に伝えないと。消し飛んでしまいそうだった。

「そんなことはわかってる」

泣きそうな表情で返された。悲壮感さえ漂っていた。

玲奈は扉を開けると、迷うことなく低姿勢で突き進んだ。

それを紫音は黙って見ているしかなかった。

殺意と憎悪。それらが入り混じったドス黒い感情を露わにした姿を見せ付けられたにも関わらず。愛憐のようなものを感じていた。

こんなにも自分を想ってくれている。

残酷なまでの一途さに胸を掻き乱される。

それは間違いなく幸せなことだった。

そんな姿を見せられて、誰が玲奈を責められるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る