友達と夢と星空と写真

 天気の良い日だった。

 待ち合わせ場所の団地まではあと数キロしかなかった。

 そこで待っていれば、迎えの者が来る。

「入国」するには、例え紫音と玲奈であっても厳密な審査が必要だという。

 そのために、まずはそこで暮らして欲しいという。

 団地の住人達とは話もついているらしく。

 そこに住み続けて待っているだけで良い。

 二人はベンチに座っていた。

 そこは寂れた遊園地だった。

 町の外れにあるような小学生くらいの子のための遊園地。そのカフェテリアの一席。

 規模自体も小さくて、大きめの公園に遊具を取ってつけたようなこじんまりとした作りだった。

 なんとなく、寄り道したいと紫音が言い出した。今も何かと理由を付けて。時間を稼いでる。出発したいとは言い出さない。

「胸騒ぎがしちゃってさ」

 それだけ言うと、もう何も言わなかった。

 玲奈も紫音のワガママに付き合うのは慣れていた。

「そっか、それなら仕方ないね」

 最初は出発を促していたが、諦めていた。

 体重を紫音の体に寄せて傾けていく。

「うー、重いー、やめろー」

 おどけた声を出すが、顔は無表情のままだった。

「せっかくの遊園地なのにね、もっと楽しそうな顔すればいいのに」

「……だってさ、呪いの遊園地みたいじゃん。全部がお化け屋敷みたいになってる。アレとか超キモいんだけど」

 指さしたのはパンダの乗り物だった。雨に野ざらしにされてきたのか、目の部分の錆が流れ出して、茶色い涙を流しているようにしか見えなかった。

「そうかな? 逆に私は可愛いと思う」

「じゃあ、アレは? 天国に行けそうだよ。いや、地獄の方かな」

 簡素なジェットコースターだが。

 レールの部分は劣化していて、動かせば折れてしまいそうだ。

「スリルがあって楽しそうじゃないかな?」

「スリルなら、アレの方がきっと楽しいと思うよ」

 それは打ち捨てられた自動販売機だった。

 亀裂があちこちに入っている。

「ただの自動販売機じゃないの?」

「ちがうよ。開けると黒くて長い触覚が生えたカブトムシみたいな奴がうじゃうじゃ出てくるの」

「えっ、それはいやだな……」

 ようやく玲奈が観念した。身震いまでおこしていた。両手で自分の身体を抱いている。

「あれって食べられるのかな」

 ぼんやりと紫音が呟いた。

「食べるって?」

「この世界の食糧がゼロになった時に、今度はみんなでゴキブリを奪いあって殺し合うの」

「……ありそうな話だよね。想像力あるよ」

「でしょ? だからさ、ゴキブリって今のうちに食べて慣れておいた方が良いのかなって真剣に考えてた」

「……ねえ、紫音。楽しい話をしようよ」

「楽しい話? じゃあ、バター入り味噌ラーメン四百八十円が食べたい」

 その言葉に振り返ると、メニューが並んでいた。ラーメンやサンドイッチといったテイクアウトの品揃え。

 玲奈はため息をついた。

「本当だ、昔はここでみんなが楽しい休日を過ごしていたんだなって」

「昔はアイスクリームだけが楽しみだった。コーンに入ったチョコミントのアイス……。今は逆。こってりした味噌ラーメンが食べたい」

「私もおんなじ、チャーシューと紅しょうがが入った豚骨ラーメンが食べたい」

 カツ丼、カレー、ラーメン、寿司、焼肉、うなぎ。オムライス。ミートソース。鍋。ハンバーガー。次々と食べたい物を並べ立てていく。

 二人は食べたい物をあげながら、ふらふらと歩いていた。

 震災前から寂れていたのか。どこもかしこも全体的に古い。

 昭和のようなノスタルジーさえ感じさせる。

 柵をまたいでコーヒーカップに二人で乗ろうとするも、あまりに汚れていたからやめにした。

 唯一、メリーゴーランドの馬の一体だけが比較的綺麗な状態で乗ることが出来た。

 紫音が前に、玲奈が包み込むように後ろに乗った。

 二人で身体を揺すってみるがビクともしない。

「こういうの、懐かしいな」

 玲奈がぼそっと呟いた。

「え、なにが?」

「ううん、何でもない。ただの独り言」

「わたしも元気ないけど、あんたも元気ないよね」

「うん、待ちくたびれただけ、そろそろ行こうよ。疲れちゃった」

「先に行けば?」

「それは駄目。絶対に駄目」

 少しだけ声に力が入ったのを紫音は聞き逃さなかった。

 その一言がキッカケで踏ん切りがついた。

「そうだね。そろそろ行こうか」

 紫音は双眼鏡を覗き込んだ。

 団地が見えている。紫音は少し興奮した様子で喋り始めた。

「人が動いてるのが見えるよ」

「向こうの人もこっちに気がついてる?」

「そこまでは分からない。多分気が付いてない」

 志賀が話をつけてくれている。あそこで暮らしていればいずれは迎えにくると。

 意を決した様子で紫音は口を開いた。

「……一応聞いとくけど。あんた、もしもさ、わたしが死んじゃったらどうする?」

 玲奈は回答に困った様子だった。

「どうしよう……。でもそんな事は考えたくないかな……」

「決めておいた方がいいと思う。わたしがいないと、玲奈は迎え入れてはくれないと思うから」

「……それなら、引き返すしかないんじゃないかな」

「引き返すって、どこに?」

 いつに無く、紫音が強く聞き返した。その目は真っ直ぐ玲奈に向かっている。

「わからないよ。でも私は一人でも生きていけるから」

「わたし、できるだけ死なないようにするから、玲奈も一緒に暮らそうよ。二人でさ、みんなと一緒に迎えられて、じいちゃんのことだって。父さんのことだってあるから、特別扱いしてもらえると思うし、生活にも困らないと思うの」

「私のこと。迎え入れてくれるかな、みんなから怖がられないかな」

「むしろ喜ばれるんじゃないの? あんたのその格闘技をみんなにレクチャーすればいいと思う」

「そんなものなのかな」

「そうだよ、今みんな困っているし、私たちができることって多いと思うしさ。みんなの役に立てば迎え入れられてもらえると思う」

「紫音は、凄いと思う」

「何がさ?」

「いつも明るい未来を考えていて、見せてくれるから」

「大袈裟なんだよ、玲奈は。わたしはただ、その日暮らしの生活とかはもうしたくないだけ。だからさ、毎日楽しく暮らしていければ、それが一番なの」

「あの……二人で暮らしたら……」

 玲奈が少し言葉を詰まらせた。

「二人で暮らせたら、どっちが掃除をしたり料理をしたりするの?」

 紫音が呆れた顔をした。

「そんなの交代でやればいいじゃない」

「そっか」

「そうだよ」

 紫音が双眼鏡を畳んでケースに入れると、歩き出した。

「あんたにはもう辛いこととか、悲しい事はやって欲しくないし。私のために料理とか、マッサージとか、掃除とか、一日おきに代わりになってくれたらそれでいいの。もうこれ以上文句言うんだったら、わたし怒るからね」

「……わかった」

「はいはい。じゃあ早速、行きますかね」

 予定通り、一定のリズムでクラクションを鳴らすと、早速街の住民達が集まってやってきた。

 皆、顔には不安や不穏なものを隠せていない。

 車を停めると、二人は車外にでた。

 そして練習した通り笑顔を見せつけた。

「はじめまして」



 団地の人間と馴染むのが早いのは紫音だった。

 屈託のない笑顔で話しかけるので。

 すぐに周囲の人間と打ち明けていた。

 老若男女分け隔てなく、対等に接するためだった。

 紫音と玲奈の二人にはすでに固定ファンも多いらしく。

 同世代の異性はひそひそと噂話をするようになり。

 老人の場合は孫のように扱い出す者も出てきていた。

 特に老婆の場合は、それが顕著で。

 おやつにと、おにぎりを持って来てくれることさえあった。

 玲奈と紫音は二人、白湯を飲みながらそれを食べていた。

 目の前には庭を耕した畑が広がっている

 時期になれば、かぼちゃなどが手に入りそうだ。

 日差しも強くて、のどかだった。

 そこだけはまるで田舎町のようでさえある。

 風が吹くと作物達がさらさらと揺れていた。

「こういうコミュニケーションってさ、慣れてるっちゃ慣れてるけど。旅の途中でこれは疲れるわー……」

 紫音はついさっきまで、同年代の異性達と雑談したり、少年同士のサッカーの見学から帰ってきたところだった。

 同年代の異性は珍しいのか、あちこち連れ回されていた。

「気になってたんだけど。演技なの? 全部?」

「そうだよ。前にいたところで、こういうのとか慣れてるからさ」

 愛想よく振る舞っているが、実際のところ、緊張が途切れると疲れが遅れてやってくる。残りのおにぎりを頬張っていく。

「すごいね。そんなにすぐにみんなと仲良くなれたの?」

「そうだよ、こういうのって命綱だったんだもん。玲奈も後で教えるから覚悟しといて」

 そうおちゃらけながら。急に真剣な顔つきに変わっていく。

「……でね。話しておきたいことがあるんだよ」

 目だけを横に動かして、周囲に人がいないかを確認してる様子だった。

 大丈夫、今誰もいないよ、と玲奈は言った。

「あのリーダー格の田嶋って人なんだけどさ。以前は黒い仕事もしてたみたい。他の街とかも襲ってるみたいで……色んなところで恨みを買ってるって」

「……そうだったんだ。実は、私もあの人のことを見た時。あんまり良い印象は無かったよ。あくまでも私の直感だけど」

 玲奈も同意していた。ああ、やっぱりなという感じで。

「そうだろうね。みんなも裏では同じようなことを言ってる。ああいう、リーダー的な人って結構モテるはずなのに、なんだか誰も近寄りたくないみたい……」

 田嶋はこの場所のリーダー的な人物であり。あまり団地にいることはなく。時々戻ってくる程度ならしい。

 常に取り巻きの若い男達を従えており。

 作業着を着ているか、ミリタリージャケットを着ているかのどちらかだった。外見からして、明らかに武闘派だと分かった。

「……あの人が怖いのはなんとなくわかる。常に威圧感を纏っているような感じ」

 基本的に、嫌悪感を表に出さない玲奈が珍しく嫌がっていた。露骨なまでに眉をひそめていた。

「わたし、あの人に、何度かちょっかいかけようか迷ったんだけど。やらなくて正解だったと思う……」

「ちょっと待って、ちょっかいって?」

「とりあえず、上目遣いしたりとか、からかってみたりとか、気がある振りしたりとか。毎回これで上手くいくんだけど……でもダメだった。怖くて出来なかった……」

 その話を聞いていて、玲奈は少し怒ったような顔をしていた。

「……ねえ、危なっかしいよ。むやみに話かけるのはきっと良くないし。無鉄砲だよ。絶対にやっちゃダメだよ」

 そう真面目に返されると、紫音も大きく頷いていた。

「わかってるもう絶対にそんなことしない」

 そして、紫音は意を決したように話しだした。

「……それに、アイツってあんたのこと、疑ってるっぽい。色々な人にあんたを監視するように命令してるらしいんだよ」

 その言葉で雰囲気がキリリと張り詰める。

 二人の間に不穏な空気が流れた。

「……どうしてかな? あなたも疑われてるの?」

「わたしみたいな。力でどうにかなる相手は怖くないと思う。怖がってるのはあんたの方。男の子とかおばちゃん達がこっそり教えてくれたの。命令されてるから気を付けてねって……」

 玲奈は自分の腕をさする。不安そうに。いつも冷静沈着だが。珍しく怖がっていた。

「一応寝込みとか、一人になる瞬間は避けて。トイレとかも女の子とかおばあちゃんと行動するようにしてて。間違っても男と一緒にいないこと」

 その言葉にも、何度も頷いていた。

「わかった。紫音がそう言うならそうする。私も無意味に争ったりは嫌だから」

「今晩はパーティやるって言ってる。わたしとあんたは何も知らない体で、楽しく参加する、楽しく参加してご飯を分けてもらって。みんなと雑談して。みんなと同じように笑って。みんなと傷の舐め合いをして。それで、無難にやっていこうよ」

 紫音はいつもとは比べ物にならないほど、冷たい口調で淡々と言葉を繋げていく。そのあと、我に帰ったように、玲奈から顔をそらす。

「……ごめん、こんなことばかり言ってて。わたし、性格悪いよね」

「ううん。紫音が真面目に考えてくれているの。わかってる。私はそんなにうまくみんなのことを考えられないから。すごく助かってる」

 休憩時間が終わると、二人はそれぞれの畑仕事をやり始めていた。

 そして、あっという間に夕方になっていた。

 女の子の一人に呼ばれて、会場に向かった。

 パーティというには、あまりにも粛々としたものだった。鶏肉と野菜を塩とハーブで煮込んだスープ。僅かな果物の酒だった。

 だけど、楽しく参加した。

 身の上の話をして、家族や親友の死を嘆き合った。普段よりもみんな表情が固かった。

 呼吸を深くして。悲しんでいるフリをしていた。

 できるだけ深刻に受け止めているふりをしていた。

 そのほうがみんなが喜ぶ。

 感極まって泣き出す子もいた。目の前で家族が外国人に殺されてしまったらしい。トラウマから。情緒不安定が続いていた。

 それを彼氏の少年が支えていた。誠実そうな顔立ちだったから安心した。紫音はふと顔を横にやった。

 玲奈がすぐ隣にいる。順番が回ってきて、ゆるやかに深呼吸していた。

「……私は……大学で……付き合ってた人もいたし、でも震災の時に……家族とかも死んじゃって……わたしだけ生き残って……」

 彼女は練習の通り、偽りの経歴を話した。

 素のキャラクターを活かすように、物静かに。悲しげに、声のトーンをゆっくりと落として。全て紫音が指定したものだった。

 設定した紫音でさえ、その演技は驚くべきものがあった。

 もともとの経験の悲惨さが、聴く者に納得させるには十分なほどの説得力があった。

 それは大変「ウケ」が良かった。

「大変だったのね……あんたも……ゆっくり休みなさいな」

 後ろで聞いていた中年のおばさんが深くうなずいてため息を付いていた。

 後ろめたさもあったが。それ以外に穏便に済ませる方法も無かった。だからそうした。

 そうする他、何があったのだろうか。

 二人にはわからない。

 だけど、嘘で癒される人間がいるのも事実だった。

 深い、濃い、話はゆったりと、続いていた。

 玲奈が話し終わった後も、誰かが語り始めた。

 一人が終えると、また誰かの話が始まる。

 中には何度も同じ話をしているものもいる。あの時から今までで変わった心の変化を語っている。

 もしかしたら、嘘をついてるのかもしれないが、一種のセラピーのようで、それはそれで心地よかった。

「不幸は人を酔わせる」と誰かが呟いた。

「だからこそ、享受して、美化しながら共存していくしかないんだ」と続けた。

 その言葉にみんなが頷いた。

 三日月と星々が、夜空にきらめいていた。

 紫音は玲奈の手を握った。いつのまにか。

 肩と肩を合わせていた。

「世界ってこうなっちゃったけど、楽しかったことってある?」

 紫音は聞いていた。

「不幸に酔えることかな、心置きなく」

 さっきの少年が呟いた。

「君は?」

「……わたしは、なんだろ、夜空の星が綺麗に見えることかな?」

 紫音の言葉でみんなが天へと顔を上げた。

 星々があちこちに輝いていた。

「良いね。こういうの、空なんて全然見てなかったな」

 隣の少女が言った。

 天の川さえ見れそうなほど、星々がまたたいていた。

「大丈夫? みんな悲しいこと言ってるのに、ノーテンキかな?」

「んーん、全然。素敵だと思う、紫音って超ロマンチスト」

 少女はニコニコと笑っていた。

「ねえ、玲奈はなんか無いの?」

 紫音は聞いた。

「……今日のスープ、すごく美味しかったことかな」

 玲奈は答えた。

「うわ、色気より食い気ってやつ?」

 別の子が大袈裟に驚いてみせた。

 みんなが笑っていて、玲奈は少し顔を赤らめた。

「ごめんねー。この子って、ド天然だからさ」

 紫音のフォローでまた笑いが生まれた。

「あのさ、ちょっとこっち来てもいい?」

 一人の少女がカメラを持っていた。

「みんなで記念撮影したいなって思って」

 全員が団地の階段付近に集まった。

「はい、チーズ」

 カシャっという音はこちらまで届いてきた。

「それって、現像できるの? てか、フィルムってバッテリー使うんじゃないの?」

「できるできる、これって完全機械式だし。暗室も私だけのを持ってるんだよ。もしよかったら部屋に来て欲しい」

 誘われるまま、その人の部屋についていく。

 確かに、押し入れを使った暗室があった。

 現像液の酸っぱい匂いがした。

 壁を見ると、今まで撮影したであろう写真がいくつも貼り付けられていた。

 年代別に分けられていて。細かく日付が書かれていた。

「この団地の発展していく姿を写真にして、一冊の本にするのが私の夢なんだ」

「本にするのが夢なの?」

 珍しく玲奈から口を開いた。それも興味津々といった感じで。目を輝かせてさえいた。

「そうよ。ここは私たちの第二の故郷でもあるわけだし、その過程がとてもドラマチックだったから」

「過程って? どんなことがあったの?」

「いろんな人がいて、いろんなことがあったり、いろんな出会いと別れがあった。こんな世界だと、日常のほんの些細なことが幸せだったと思えたからさ。それを一枚一枚積み重ねていって。あとで振り返った時に、『あー大変だったけどあの時頑張って良かったな』って思えたらいいなって。そんな思いで撮影してるんだよ」

 その話を聞いて、玲奈は感心したようだった。

「そういうものなの? 写真ってやったことないから」

「例えば、あなたの頭の中にも。楽しかった瞬間の記憶ってあるでしょ」

「……もちろん、ある」

「それを私は写真に残すことで、誰かと共有したいと思ってるの。もちろん自分のためにも」

「写真が本当に好きなんだ」

「一枚の紙に決定的な瞬間が残るってすごくない? それが好きなの」

「もっと見せて欲しい」

「もちろん」

 二人のやり取りを紫音は見守っていた。

 玲奈が他者と交流したり。カメラに興味を持つとは思わなかったのだ。カメラを触らせてもらっている姿は嬉しそうだった。

 そして、初めての被写体は紫音だった。

 両手でピースを作り、笑顔で撮影してもらう。

「……玲奈ってロキノンとかサブカル系だったんだ」

 つぶやいてしまう。

 思わず想像してしまう、カメラを持って、あちこちを撮影して回っている、普通の人生を送ってきた玲奈を。



 その日の夜の締めは入浴だった。

 脱衣所に入った途端、湿った空気を感じた。

 すでに石鹸類の甘い香りがしている。

 部屋の一室の浴槽を使って、温めたお湯を入れて玲奈と紫音は二人同時に湯船に浸かることになった。

 服を脱ぎながら、紫音が口を開く。

「ねえ、あんたが自分から喋るなんて珍しいじゃん」

 その言葉に、玲奈はジーンズを脱ぎながら答えた。

「うん、気になったの。思い出とかって……私にはあんまり無いから、過程を大切にしたいって」

「なんか、あんたって影響されやすいとこあるよね……」

 そんなことをつぶやく紫音を少し上目遣いで玲奈は睨んだ。

「だって、私は今がすごく幸せだって感じるから」

「玲奈、ちょっとこっちきて口開けて。目も瞑ってて」

 え、と小さく声をあげた。

 言われるままにすると、玲奈の舌の上に飴玉が置かれていた。

「おばあちゃんがくれたやつ。あんたにあげる、賞味期限切れだろうけどさ」

「おいしい……どうしてこんなのくれるの?」

「なんかね、当たり前のことで一々喜んでるの見てる方の気持ちにもなってよ」

「ごめんね、変なことした?」

「ちゃうちゃう、謝らなくていいから。とにかくさ、この程度で大喜びしないでよね。……まだまだ、きっとこれからだから」

 そういうと浴槽の扉を開けていた。

「うわ、本当に久しぶりだな。こういうの」

 紫音の感想に玲奈がうなずいた。

「私も、お風呂に入るのは久しぶり」

 狭い風呂場だった。

 その狭い浴槽に二人はすし詰めになって入るのだからお湯が外に流れ出てしまっていた。

「あー貴重なお湯がもったいない、まあいいか」

「私、誰かと一緒にお風呂に入るのって初めてかも」

 紫音の肩に玲奈が顎を乗せた。くすぐったくて身をよじらせる。

「なんか、そんなに密着するものなの? ぶっちゃけ暑苦しい」

「……ごめん、紫音。私の過去のこと今から話しても良いかな?」

 その唐突な話題の振り方に驚いていた。

「えっ、今やんの?」

「だめ?」

「いやさ、ダメじゃ無いけど……正直言ってビビった……」

 言いながら、戸惑っていた。

 いきなりの提案だったのだから。

 玲奈は完全にその気になっていた。

 だけど、まだ、心の準備が出来ていない。

「できれば今話したいな……。本当はずっとだれかに話すべきだって思ってたから……。作り話じゃ無くて、本当のこと……プライベートなこと……」

「プライベートって……意味が微妙に違う気がする……」

 お湯の中でそっと手を繋いだ。

 指と指が絡まった。

「オッケー、そう思うならそうしなよ」

「話すね……」

 そういうも、しばらくは無言のままだった。

 あまりにも沈黙が長くて取りやめるのかと思ったほどだった。

 やがて小さな声で告白を始めた。

「私は……紫音の想像通り。普通の人ではなくて。親が誰なのかもわからないんだよね……」

 紫音は少し驚いた。

 ただし、概ね想像していた通りでもあった。

 相手を受け止めるつもりだった。何があっても。

「私、三歳の頃にね、遊園地で誘拐されたんだよ」

「誘拐って?」

 思わず聞き返す。

 突拍子も無い言葉だった。

「うん、子供をさらって、海外に売ったりするんだって、臓器とか。犯罪組織がそういうことをしててさ」

 そういう噂はネットで聞いたことはあった。

 記憶の片隅に東欧の方の人身売買を扱った映画を思い出す。たまたま、志賀が見ていたからだ。

「子供の物は特に、健康的だから。お金持ちの人に高く売れるんだって」

 その映画の中では赤ん坊まで商品として扱っているのがショッキングだったから記憶に残っている。

 目の前の人間がそれを経験していることが信じられなかった。

「だからね。遊園地にいた時にね。すごく懐かしい気持ちになったの」

 その言葉に紫音は複雑な表情を浮かべる。

「それって、どんな気持ちなの?」

「あの頃は良かったって……戻りたいなって……」

「お父さんお母さんのことって覚えてる?」

「……少しは覚えてるよ。でもね、大人たちが私の手を引っ張って『お父さんとお母さんが事故にあったんだよ。こっちに来ようね』って教えてくるから、子供の頃の私って素直に信じちゃったの。相手もオバサンだったから、疑いようがなくてってさ」

 その光景を想像して気分が悪くなる。なんの罪も無い子供を誘拐する者達がいることにも。それが実在することにも。玲奈が被害に遭ったことにも。

「……オバサンが誘拐犯だったの?」

「そうだよ、疑われにくいから結構多いんだって。その時に迷子になった時のためのカードを持たされてたみたいで。そこに私の名前が入ってたの。だから名前呼ばれて騙されちゃってさ。そのカードって今でも持ってるよ」

「カード、後で見せてくれる?」

「うん。紫音になら見せてあげる」

 玲奈は心なしか顔を赤らめていた。

 本人にとってはよほど大事なものならしい。

「着いたところは孤児院って聞かされててさ、普通に育ってたと勘違いしていたんだよ」

 少しくらいは疑うのではないか。

 そう思うが。自分が同じ状況なら信じただろうな……とも思う。

 まして、判断が付かないような年齢のうちに拐われたのなら。

「最初は臓器を売りにアメリカに連れて行かれる予定だったんだって。でもね。私って運動神経良かったから。訓練をさせられて、人殺しの道具に使うと決められたの」

 その話を聞いていると。全てが納得出来た。

 異常な身体能力の高さや。サバイバルに強いことも説明がつく。

 玲奈に感じていた疑問が解けていった。

 今までもどこかで疑う気持ちもあったが、それらが自然と消えていく。

「そこから、訓練がすごく厳しくて。嫌でサボっちゃうことも多かった。でも私って戦うことだけは才能があったみたいで、みんな驚いてた。使えるから生かしてくれてたの」

 声のトーンが若干低くなっていく。

 あまりに暗い声音に心配になる。

 休ませるべきか迷ったが。

 それでも玲奈は続けたから。止める訳にはいかなかった。

「ある時。一週間マンションの中で潜伏していたことがあって。その時は真夏でとても暑かったから、裸でずっと過ごしてた。いつ相手が来るか分からないから眠ることなんて出来なくて。お風呂場でジュースを飲んで過ごしてたよ。ようやく相手が来た時に私は裸のまま相手のことを刺し殺した」

「うん」

「その時に、部屋の中に姿見があった。その鏡に映った自分の姿を見て、自分がやってる事は間違ったことなんだと気がついた。こんなことは異常なんだって。だから抜け出さなきゃって考えてたの」

「わたしだったら耐えられなかったかな。……ごめんね。続けて」

 そこから玲奈は少し考え込んでいるようだった。

 どう言葉を繋げるか。模索しているようだった。

「えっとね。そこから抜け出すために、色々と考えてたんだけど……どれもこれも脱走したのがすぐに見つかってしまうような手段しかなくて。多分、脱走を防止するために最低限の情報しか教えてくれなかったんだと思う。だから盗み聞きして一人で勉強してた。学べば学ぶほど、抜け出す手段なんて無いと思い知らされた。真剣に自殺も考えてたんだよね」

 聞いてて、視界が涙で滲んでいた。

「そんなこと……しなくて正解だったよ」

 言いながら、指に込める力を強めた。

「でも、そんな時に大きな地震があった。紫音も経験してるでしょ? とても大きな地震が……」

「うん、あの日のことだよね」

 あの日。全てが終わった日。多くの人の間ではそんな風に呼ばれていた。

 あの凄まじい大震災のことは忘れる訳が無い。

「今まで見たことのないような激しい揺れで、私の監視役だった人は棚の下敷きになっていた。運が悪かったの。頭から血を流して。死んでるのがわかった。だから、お金だけポケットにつっこんで、監視カメラを全部壊して。泥棒とかに見せかけて荒らしまわって。事務所から逃げ出してた。これしかチャンスなんて無いと思ったから。そうしたの」

「うまく逃げ切れたんだ」

「というか結局、誰も追いかけて来なかった。私に残されたのは何も無かった。あとはホームレスやったりとか。考える時間がすごく多かった」

「何を考えていたのかな?」

「本当はわかっていたこと。それ以前からずっと後悔や罪悪感に気がつかないふりをして、自分の感情を押し殺していた。少しでも残りの人生を人の役に立てれば償えるのかも……って思ったから」

「そうだよなぁ……あんたってそういうところで真面目なんだよなぁ……」

 大きく頷いた。言いながら声が震えていた。動揺を隠せない。全てを受け止めるつもりなのに。やっぱり大き過ぎた。

「紫音と過ごしていくうちにね。自分の行いを悔いるようになっていた。でも自己満足なのもわかってる。罰を受けても仕方がないって」

 玲奈はそう言うと、がっくりと項垂れた。紫音の肩に頭を乗っける。

「疲れちゃった」

 子供のようにもたれかかってくる。

 紫音は湯船の中でその身体に抱きついていた。

 大粒の涙が溢れていた。

「あんたは頑張って生きてきた、過去の事はきっと永遠に忘れられないと思う」

 互いの骨と骨がぶつかることも構わず、力を入れていた。

 玲奈はゆっくりと抱きしめ返した。

「……紫音は優しいから許してくれるけど。他の人はどうなんだろ」

「さぁ、わかんないよ。でも私はあんたに救われたからさあ……」

 とりとめもなく、言葉だけが溢れてくる。

「……ごめん。わたしにはあんたのやったことなんて些細なことなの。ただ、あんたが苦しんでるのが嫌なの」

 苦しみを取り除く方法が欲しかった。

 救ってあげたかった。

「紫音、痛いよ」

 紫音はなおもキツく抱きしめている。

 嗚咽混じりに首を振って。涙が玲奈の肩に落ちていく。鼻水まで流して泣いていた。

「ずっとずっと。おかしいって思ってた。あんたは誰よりも強い。だけど……」

 そこから完全な泣き声に変わっていた。

「だけど誰よりも傷ついてる。救われるべきなのはあんただよ……」

 玲奈は紫音をきつく抱きしめ返していた。

「救ってくれて、ありがとう」

 ただ、それだけを伝えていた。

 どれだけそうしていたのだろうか。

 玲奈はぼんやりと言った。

「なんだかさぁ、露天風呂みたいだよね、星が見えていいなぁって思う」

 窓から見える星空は満天とまでは行かなかったが。気持ちが晴れていく。

「今度はさ、旅行とか行ってみたいよね」

 紫音は返した。

「旅行?」

「そう、今度は旅じゃなくて旅行に」

 狭いバスタブの中でお湯の音だけが鳴り響く。


 二人してお湯から上がると、車の中に入るまで手を繋いだままだった。

 懐中電灯で灯りを作った。玲奈はコートの懐のポケットから、それを取り出した。

 住所と電話番号、そして生年月日。

 ピンク色の合皮の定期入れのケースに、その黄ばんだ紙が入っていた。隙間から雨が入ったのだろうか。

「最初の頃は、首からぶら下げられる紐を通す穴があったんだけど、破れちゃってさ」

「ほんとだ、年季入ってるね」

「十五年近く持ってるもの」

 悲しそうな顔をして、答えた。

「これだけは、盗み取ってた」

 肌身離さず、身につけていたらしい。

 唯一、身分を証明してくれるカード。

 玲奈の出生にまつわる手がかり。

 それが、こんなちっぽけなカードだった。

「立入禁止区域になってるから、実家を訪ねることは出来ないけど。いつか戻りたいって思ってる」

「その家に戻りたい?」

「うん、今の私の夢だから」

 戻れる。戻れない。の問題じゃ無い気がしている。そもそも崩壊しているんじゃ無いかと思う。玲奈本人もそれに気が付いて無いはずが無い。

「そうか、なら叶えようよ」

 それでも、その夢を否定せず。共にそれを望むことにした。

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