双子と母親
車が使い物にならなくなったのは突然だった。坂道に差し掛かった時だった。アクセルを踏んでもまるで反応しない。
「うっわ、嘘でしょ」
紫音は頭を抱えていた。玲奈の顔にも動揺が広がる。
「ちょっと、玲奈運転代わってよ」
「わかった。試してみる」
そう言うと席を交代してみる。アクセルを踏んでも、レバーをガチャガチャ動かしても反応が無い。
「駄目だ、動かないよ」
「あんたの方が体重重いから、いけるかなと思ったんだけど」
「紫音、さすがに失礼だよ……」
どれだけアクセルを踏んでもピクリとも動かなくなっていた。
坂道を乗り越えることができない。バックすることも出来ない。坂道前で完全に停車してしまった。
「よりによって、こんなタイミングかあ……」
「紫音、アクセル踏んでて。私押してみるから」
玲奈が顔を真っ赤にして押してくる。
アクセルを限界まで踏み込むが、まったく反応しない。エンジンのキーを回し続けたが結局のところ変わらなかった。
途方に暮れてしまい。
修理をしてみようと思うが、手持ちの道具だけだと。完全にお手上げだった。
そもそも配線が分からない。
「……仕方がないね。歩いていくしかないみたい」
玲奈でさえ落ち込んだ様子だった。その顔には疲労した様子が広がっていく。
「うわ……こんなのあり……?」
「とりあえず荷物を取り出さないとね。なんか探してみようよ。手押し車みたいなやつがあれば良いんだけど」
玲奈の言葉で、滑車のようなものを探すが見つからなかった。
スーパーに入ってカートを探してみるが、車輪が外れてしまっているものしか無いのだ。
「紫音、見て。ちょうどいい物があったよ」
「えっ、それに載せんの?」
民家に侵入して玲奈が見つけたのは手押しのベビーカーだった。
双子用なのか、二人分の座席があるタイプのものだった。
仕方なく、それに必要な荷物を乗せて押していくことになった。
「ねえ、玲奈さあ、コレって本来なら何に使うか知ってる?」
「知ってるよ。赤ちゃんを乗せるために使うんでしょう?」
「なんだかずいぶんと重たい赤ちゃんだなあ……」
寝袋や簡易テントなどのキャンプ用品に混じって。アサルトライフルや散弾銃、弾薬が入ったケースが丸ごと置かれていた。
本来の用途とは全く違う。
「そういえば、紫音って兄弟とかいたの?」
「全然いないよ、玲奈は?」
「私も一人っ子」
交代しながら、ベビーカーを押していく。
途中、使えそうな車を探してみるが。見つからなかった。キーが抜けていたり。パンクして寂れた車ばかりだった。
「もしかして団地までこの調子なの?」
「そうなるかもね」
「勘弁してよ……」
アスファルトの上をガリガリいわせながら、ベビーカーを押し進めていく。
途中何度か止まってしまい、持ち上げるのに難儀していた。車輪の具合が悪いと言うより、重量をオーバーしてるのは明らかだった。
「これ車輪壊れちゃうんじゃないの?」
「……まだ、行けると思う。ギリギリで」
そう言いながら玲奈の表情はひきつっていた。
「待って、誰かいる」
「……え、どこに?」
緊迫した様子でコートの中に片手を潜らせ、拳銃の入ったホルスターに手を掛けていた。
二人組の男女が睨んでいた。近くには荷物をいくつも載せたスーパーのカートがあった。
男の方は弓矢をこちらに向けようか迷っているようだった。二、三度その手が微妙に揺れるが、こちらに直接向ける程の踏ん切りはついていないようだった。
それを見ていると、紫音は軽く安堵する。
玲奈なら弦を引くより早く、反撃できる。
まるで睨みつけ合うような形になり、お互いに次の動きが出来なくなっていた。
足が竦む。恐怖で心拍数が上がっていく。嫌な汗が流れるのを感じていた。
ベビーカーを挟む形で相対していた。
ドスのきいた声で怒鳴られる。
「ここで何をしてるんだ」
二人は怯えていた。
男が女を庇うように目の前にやってくる。
その様子に紫音は両手を上げて、手のひらを相手に見せた。
「あの、ごめんなさい。全然そんなつもりはないんですけど……」
男は喋らない。その目は紫音や玲奈ではなく。
どこかへと向けられていた。
どこを見ているのだろうか。
その意味に気がつく。きっと、囮役だと思われてるのだ。非力な女を『餌』に使って。待ち伏せていた男が不意打ちしてくる。そんな人間は沢山いる。
紫音もその現場を目撃したことがある。
きっと、その男も同じに違いない。
「もし、怖がらせてしまったならごめんなさい。すぐに別の場所に行きます。ほらっ玲奈も謝ろうよ……」
そう言って玲奈の肘を引いて、逃げ出そうとした時だった。
相手側のカートの中から大きな泣き声が聞こえてきた。
その声を聞いて、驚いてしまう。
「赤ちゃんがいるのね」
紫音が夫婦に大きな声で返した。
思わぬ展開に玲奈が戸惑っている。
「わたし達、車が壊れて動けなくなってるだけなんです。お願いです。そこをどいて貰えませんか?」
その様子に夫婦の表情から強張りが消えた。
「車が壊れてるのか? さっきエンジンの音がした。一台だけ。お前らだな?」
「そうなんです。ここを通りたいだけなんです」
男と女は顔を見合わせていた。
「車なら直せるかもしれない」
「あんた、何言ってんの?」
女の方が訝しげな顔をしていた。
「タダで直すのは無理だ。何か物々交換出来る物は持っているか?」
大きな声で男が聞いてくる。
「こっちにも缶詰がたくさんあります。先払いで渡していいし。車が動くようにしてくれたら、もっと渡してもいいです」
緊張で声が上擦りそうになりながら、紫音も返していた。
「……わかった」
男は了承したようだった。
「私は反対だよ。その人は拳銃を持ってる。車を直したあとに、皆殺しにされるかもしれない」
そう来るか。と思った。
でも、確かにこの人からみたらそうだと思う。
「俺たちには食糧が無い。どの道、他に手は無いんだよ。少しはわかってくれ」
ありがたいことに、男は女を説得しようとしていた。
それを見て、玲奈はホルスターのベルトを外していた。
皮のケースごと、ゆっくりと地面に下ろして、両手を上げていた。
それを見て、妻の方は不機嫌そうに舌打ちをしていた。
「……ったく、あんたも女相手には甘いんだから」
女はいつまでも、旦那の方に小言を言っていた。
その間、赤ん坊はいつまでも泣き続けていた。
古い家に案内された。
彼等の持ち物ではなく、他人の家を勝手に借りているらしい。
絨毯の敷かれた洋風の家で、全体的に年季の入った家具が目立った。
スーパーのカゴの中には毛布が敷き詰められていた。紫音はそのスーパーのカートの中を覗き込む。
その瞬間声を上げた。
「可愛いー。玲奈も見てみてよ!」
「え、どれどれ?」
手を引かれるまま。その中を覗き込む。
「小っちゃくて、可愛いよね」
紫音が慣れた様子で人差し指を、伸ばすと、ふんわりと小さな五本の指でつかまれた。
「この子、名前はなんていうんですか?」
その夫婦は、赤ん坊を連れていた。
生後間もない。まだ乳幼児くらいの大きさ。髪の毛も薄くて生え揃ってない。
母乳の影響なのか身体全体からミルクのような甘い香りがした。
「健人って名前なの、可愛いでしょ。私に似てて」
愛おしそうな表情で赤ん坊を撫でていた。
「ねえ、あなたも撫でてみる?」
玲奈は強ばったような手で自分を指差す。
「そう、あんただよ」
「でも……触るのなんて初めてで……」
「いいからいいから」
おそるおそる撫でてみた。緊張のあまり手が震えていた。
最初こそ申し訳無さそうにその頬や頭に触れていたが大胆になっていく。玲奈が顔をほころばせた。
「なんだか、ウサギさんを触ってるみたい。柔らかい、ぷにぷにしてる」
その手に撫でられていると、急にぐずり始めて。大声を上げて泣き始めてしまった。
「え、えと、どうしちゃったの?」
必死であやすも、泣き止まない。
その様子に玲奈はあたふたと戸惑うばかりだ。
父親が、突然立ち上がり、こちらにズカズカと近寄ってくる。玲奈は身をすくませた。
「あの、ごめんなさい、変な触り方をしましたか?」
「いや、別に良い。赤ん坊なんて泣くのが仕事だからな。その代わりに手をちゃんと綺麗にして触ってやって欲しい」
神経質そうな声を出していた。相当苛立っているし。不安そうな顔もしていた。
「あなた達の赤ちゃんは親戚の子なの?」
こちらのベビーカーを指されて言われた。母親の言葉二人は戸惑った顔をした。
まだ中身を赤ん坊だと勘違いしているらしい。説明が遅れていた。
「赤ちゃんっていうか、普通に荷物なんだけど……」
言い淀む。衣服類や食糧品だけならともかく。アサルトライフルや散弾銃が当たり前のように置かれているのは具合が悪い。せっかく打ち解けたのに誤解を招きかねない。
「実は違うんです、コレを見てください」
玲奈は日除けのカバーを外した。
それは、健康食品のサバの缶詰だった。
笠原から受け取ってからほとんど手をつけていない。今もダンボールの中にギッシリと詰まっている。
父親はそれを見て、ようやく納得したようだった。
「なるほど。それなら手を打てるよ。僕が直してあげる。時間がかかるかも知れないけど。構わないだろう?」
「ええ、もちろん」
交渉は成立した。
父親は母親の身体を労っていた。
母親は父親の身体を労っていた。
「あんた、ごめん。そろそろ時間だわ。どっか行ってて」
そういうと母親はスウェットとブラジャーをまくると、赤ん坊に母乳を飲ませ始めた。
乳房に吸い付いて、ミルクを飲む赤子。
それを抱きしめる母親。
その光景を玲奈は無言で眺めていた。真剣な表情で。
「こういうのを見るのは初めてなの? じっと見つめられるのって恥ずかしいからさ」
言われて、玲奈は顔を背けた。
「えっと、ごめんなさい。実は初めてなんです」
「あんたって一人っ子?」
「ええ、まあ」
「いとこは?」
「いえ、いないです」
曖昧な返事をするのを、紫音は眺めていた。
なんとなく玲奈の答え方が引っかかる。
やることも無くなり。
ソファの上で眠ることにした。
とりあえず目だけ閉じていた。安心感から呼吸もスローになっていく。
「寝ちゃったね」
「そうですね、疲れてたみたいだから。この毛布、お借りしても大丈夫ですか?」
「ええ、いいわよ」
自分ではそんなつもりはなかったのだが。
寝たと勘違いされている。
「おやすみ、紫音」
玲奈は丁寧に毛布をかけてくれた。首元まで。なんだかくすぐったくなってくる。
「長旅なんだよね、女の子二人で。結構あぶないでしょ、スリル満点だった?」
「危なかったこともあるけど。多分、あなた達ほどではないと思う」
玲奈は平然と返しているが、正直に言って、この夫婦以上に危険な思いをしている記憶しかなかった。
心の中でツッコミを入れてしまう。なんでやねん。と。
「どんな関係なの? 親戚とか?」
「色々あっての友達みたいな感じかな、年齢が近いから仲良くなって……」
それは紫音が用意した台本だった。
演技も多少は上手くなったと思う。
満足気にそれを聞いていた。
寝たふりをして、その言葉に耳を澄ませていた。
ちょっとしたイタズラ心だった。
あとでからかってやろうと思っていた。
玲奈のリアクションを想像しただけで笑えてくる。口の端が引きつるのを抑えていた。
「あなたたちを見た時。最初は姉妹なのかと思った。その子だって、てっきり十三歳くらいかと思った。背が低すぎる」
「ううん、この子は見た目よりずっとしっかりしてる。本当に幼いのは私だから……」
「あんたの方がよっぽどしっかりして見えるけどね」
「そんなことないです。この子の方がしっかりしてます」
母親はため息をついた。
その回答に吹き出しそうになる。息のリズムが狂わないようにするのが大変だった。
玲奈が大真面目に答えているのが、あまりにもおかしい。
「あたしもさ、この子の世話をしてると。この世界の嫌なことを少しだけ忘れられる」
ああ、始まった。と思った。
内心では「またいつものやつだ」と呟いていた。
深くゆっくりとしたトーン。何度も聞いていた。酷く感傷的な喋り方。こんな世界にいたら誰でもそういう状態になる。
「そう。癒されるから?」
「それもあるよ。赤ちゃんって場を和ませる天才だと思う」
数秒の間があった。
「でもね、あなたからはあたしと同じものが感じられた」
女の声にはどこか、寂しげなものが含まれていた。
「それは、母性とかっていうこと?」
「さあねぇ……、多分そうじゃない」
「つまりは?」
「依存したがってる……そんな心の悲しみかしらね……」
意外な言葉に紫音は内心驚いていた。
てっきり、愛とか、母性とか、陳腐な話に移行するのだとばかり思っていたからだ。
ピンポイントで言い当ててくるから意外だった。
「なんだか、あなたから、とても深刻な物を感じた。まるで救いを求めてるような」
「…………」
聞きながら、少し焦っていた。
玲奈が答えにくいと思ったからだ。
アドリブが効く人間じゃない。
しどろもどろになってないか心配だった。
沈黙が続いていたが、母親が話し始めた。
「この子はもともと双子だったの」
「それじゃ、もう一人の方は?」
「亡くなったわ、生まれてすぐに、産婦人科も、やっていないから、手の施しようがなかったの」
その言葉に、胸が苦しくなった。
悲しみを想像しただけで涙ぐみそうになる。
「だからかな、この子まで消えてしまったらどうしようかって。ものすごく不安になるの……正直に打ち明けると、あなたたちが双子用のベビーカーを押しているのを見て、すごく恨めしくなった。中身が荷物なのがわかるまで」
「無神経なことしてしまって、ごめんなさい」
「ううん、謝らないで……感情のコントロールが……出来ないだけ……」
「大丈夫? 苦しそうだよ」
「平気よ、たまになるだけだから、すぐに治る」
本来なら寝たふりをやめて、助けに行くべきなのだが。
そのタイミングを失っていた。
「だから、あんたを見てて。思ったの。この人も依存する先が消えるのが怖い人なんだってことに」
声が震えていた。
「……私達って血は繋がってないし。出会ったのだって。二ヶ月程度のとても短い付き合いなのだけど……」
「時間や、血の繋がり程度で、人間の関係性ってのは推し量れないんだよ。そんな軽いものでは無いよ。その子は、あなたのことを信頼してると思うよ。素直に反応するタイプだろうからさ。まるで子犬みたいに」
その言葉に少しだけカチンと来る。
この女は自分を犬と同列に見てるのかとイライラする。
しかし、その後に続く言葉で内心を見透かされた気がした。
「でもね、あなたのことをとても……とても、心配してる……何故かそんな風に見えたのよ……」
たしかに、そうだった。
助けてもらってるのは自分なのに。
精神的なことでいうと、自分の方が優位な気がしていた。いつも。
「というよりも、あなたもそれを、感じていたんじゃないかなって」
「うん、ずっと感じてました。気遣われてるなって。それに……」
「それに?」
「私、この子が好き。ずっとずっと一緒にいたい」
その言葉に紫音は思わずギョッとした。
耳を疑うような発言だった。聞いてて、恥ずかしくなるくらいに。耳が熱くなるのを感じていた。
「あたしもよ。この子無しの人生は。こんな世界で、考えられない、考えたくもない」
母親が愛おしそうな声を出している。慈愛に満ちた声だった。
「そう、こんな荒みきった世界で。誰かに縋り付きたくなる。あたしの場合はこの子だった。旦那じゃ無かった。この子なんだよ。自分よりもずっとか弱いこの子が救いだった」
絞り出すような声だった。
「どうしたら、私は紫音とずっと一緒にいられるのかなって……いつも思うんです……」
玲奈の質問する声音は幼いものだった。
「あなたも。その子と一緒にいられる方法が知りたい」
まるで子どものような喋り方。
「……それがわかれば苦労はしないんだけどね……」
女が二人慰めたり、嘆き合ったりするのを。紫音は黙って聞いていた。目を閉じて。寝息を立てたフリをして。ずっと。
盗み聞きは褒められたものではないけど。
どこかで、本心を知りたかったから。良い機会だった。
そのやり取りを聞きながら、何となく幸せな気持ちで眠りについた。
目が覚めると、隣には玲奈が眠っていた。
顔が目の前にあったから少しだけ驚いた。
いつのまにか床の絨毯がある方へ布団を敷いて添い寝していたらしい。
ドアが開くと父親が入ってきた。
「おはようございます」
父親が緑茶を持って来てくれた。紫音に無言で渡してくる。
「……いただきます」
寒い明け方でその温かい飲み物が胃に染みた。素直に美味しいと思う。
緑茶の中には明らかに砂糖が入っていた。
善意で入れてくれているのはわかるのだが、奇妙な組み合わせだと思った。
「……こいつの話し相手になってくれてありがとうな。助かったよ」
それだけ言うと、部屋から出て行った。
まだ、マグカップが二つある。玲奈と母親の分。紫音は起き出すと二人の肩を揺すって起こした。
車は動くようになっていた。以前のように、スムーズに。まるで何も無かったかのように。試運転すると問題が無く作動した。
「バッチリだね。前よりも運転しやすいよ」
お礼の食糧を手渡した。ダンボールごと。サバの缶詰を渡していた。
「ついでなんだけど、もしよかったら。このベビーカー使う?」
そう言われると、母親は微笑んでいた。
「ありがとう。この子も喜んでるよ」
運転は玲奈が担当することになった。
「それでは、さようなら。健人君もお元気で」
車が出発する。
紫音は後ろを振り返りながらため息をついた。
「……ぼったくり価格だったのかも、やっぱりわたし達、食料を払い過ぎたんじゃないかな」
後ろの窓から、三人の姿が見えているが、曲がるとそれっきり見えなくなる。
昨日の朝までは後部座席は缶詰のダンボールで視界が塞がっていた。今ではそれが全く無い。
「実はね。私もそれを疑ってた。すぐに直っちゃったし。実際に修理に使った手間暇ってそんなにかかってなかったように思う」
今更そんな話になっていた。
玲奈は別の話題を口にしていた。
「なんかね。変なことを言うけど。赤ちゃんのためにって思うと、あんまり怒りもわかないんだよね」
「なにそれ、犯罪を助長してるのかよ」
口では知らんぷりしながら。
紫音は昨日の話を思い出した。
赤ん坊と自分のことを勝手に結びつけられていた。あの話を。
「あのお母さんにとって、何に変えても守りたい存在だから。だから、人から盗んだのも少しわかる気がするの……変かな?」
「まあ。玲奈がそう言うなら、そうなんだと思う」
そして、名残惜しそうに悲痛な声を出した。
「でもなあ……あのサバ缶はハマってたから、もう一回くらい、食べておけば良かった……」
「紫音、熱とかあるの、顔が赤いよ?」
「え? 何で?」
まじまじと見つめてくる。
その黒い瞳に自分の顔が写っていた。
自分の顔に手をやる、確かに熱くなっていた。熱っぽく。意識するとそれがまた高まった。心臓さえも高鳴る。とっさに、誤魔化すことにした。
「いや、別に。寝過ぎただけかな……」
「ねえ、紫音」
「何さ?」
「昨日、赤ちゃん触ったら。あの子が泣いちゃってたよ」
「そうだったね」
「私って汚いのかな?」
「ええっ、何でよ?」
突然の問いに紫音は思わず声を出した。
「私って、酷いことするから。あの子がそれに気が付いて、怖くなって泣いたんじゃ無いかって、不安だったの……」
「ええと、本当にそう思う?」
「……うん、思うよ」
真剣な眼差しだった。
表情は固い。唇を一文字にしている。
「じゃあさ、わたしの頭を撫でてみて」
「なんで?」
「良いから、良いから」
玲奈は紫音の頭を撫でていった。まるで動物を触るみたいに。
「わたしの顔が怖がってるように見える?」
「全然、むしろニヤニヤしてる」
「そういうこと。つまり、わたしが喜んだ。超うれしい。それでよし」
玲奈は少しだけ笑っていた。
そんな様子を見ていると、内心めんどくさい女だと思う。
「それに、待ち合わせ場所も近いんだし。もっと気楽で良いじゃん。クヨクヨする必要ないって」
言いながら。それでも、どこかで。
漠然とした不安のようなものが心の中で膨れ上がっていくのを感じていた。
理由は分からない。目的地に近づくごとに。
嫌な予感が膨れ上がっていく。
いっそ、今みたいなドライブが続けば良いのにとさえ思う。
車が故障したのも、実は正解だったんじゃないか。
ゆっくり向かった方が良かったんじゃないか。
なぜかそんなこと思う。
「ねえ、紫音……」
「今度はなにさ?」
「もし、目的地に着いても。ずっと友達でいてくれる?」
その眼差しは不安そうだった。
その、不安を消飛ばすために、大きな声をあげて笑っていた。
「当たり前じゃん。てか、よそ見運転禁止だから」
大袈裟に笑ってみるが。何故か不安は消えなかった。
ねっとりとした不安感はいつまでも続いていた。
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