日常を借りる
その道を走るのは危険だった。
あちこちに小動物を狩る為のトラップが仕掛けられていたのを玲奈が発見した。
罠の量も多く。トラバサミまで用意されていた。
人間が多くいる。おそらく近くに集落がある。
言葉が通じるなら良いが。問答無用で襲撃してくる集団だとまずい。
夜の道をヘッドライトだけで移動するのは良い的だった。
何よりも怖いのは散弾銃で容赦なく次々と撃ち込まれること。
狩猟用のものが日本にはかなり出回っているし。
紫音も集落で所持していた男を見たことがある。
その男は、猟銃を見せびらかして他の人達を脅していたことさえあったから、脅威は知っていた。
不意打ちになれば、さすがの玲奈も対応することは出来ない。
二人は相談して、大きく道を迂回することにした。
かなりのタイムロスだったが、安全には代えられなかった。
納得がいくような道をひたすら探していた。
たどり着いたのは簡素な住宅街だった。
古い民家がいくつも連なっていた。
天候がかなり悪くなっていた。遠くから雨の匂いがしていた。
紫音は呟いた。
「台風かな?」
「台風だね、季節外れの」
どこかで雨宿り出来る場所を探すことにする。
その中でも比較的日の当たらない、静かな家を選んだ。
虫なども特に湧いておらず。きれいな家だった。
何より、そばにガレージがあり車を隠すことができた。
ナンバープレートを別の車と取り替えて、カムフラージュに使った。
「この家にしよう。人の気配もないし」
「うん、もうクタクタだもん……」
紫音は洗面台に向かうと、鏡を見ていた。唇の一部が剥がれていた。歯を使って剥くと。血が流れた。さすがに肌が荒れてきたなと思う。
二階に上がると、布団も揃っており、久しぶりに足を伸ばして眠れるのはありがたかった。
紫音は結えていた髪を解くと、上着を脱いで。ジーンズを脱いで。布団へと潜り込んでいた。
玲奈も同じだったが。さすがにズボンは脱がなかった。
玲奈の足をやふくらはぎを紫音が指と手全体を使ってマッサージしていく。
「ありがとう」
意外に幼い声で玲奈が言った。
「いいって、慣れてるからさ」
血流の悪さから体全体の不調に繋がるのは避けておきたかった。
これも以前住んでいた場所で教わったことのひとつだった。
「じゃあ次、わたしもお願いね」
そう言いながら紫音はうつ伏せに横になった。
交代交代で肩や腰をマッサージし合っていた。
揉みながら、玲奈の皮膚の裏に隠された異常に硬い筋肉を感じていた。
タイヤのゴムみたいな弾力があって、それでいてしなやか。まるで鍛えられたアスリートのようだった。
いざという時の防衛として、玲奈は隙は出来るだけ作らなかった。
すぐ側にはアサルトライフルがすぐに撃てるようにセッティングされていた。
八時ごろになると、完全な暗闇になった。
密閉された空間なので余計に闇が色濃く感じられる。
すでに車移動だけでかなりの体力を消耗しており。微睡んでいる二人の間に会話はほとんど無かった。
「ごめん、もう寝るわ。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
すー、すー、と心地良さそうに玲奈が寝息を立てていた。思わず覗き込むと、その寝顔はとても幼く、自分よりもずっと歳下に思えた。
「意外にコイツ可愛いな」
そう独り言をつぶやき。深い眠りへと入っていった。
紫音は夢を見た。
いつだったか、家族と離れ離れになってしまった直後の場面だった。
襲撃を受けた直後だった。
両手には母親の血がべったりとついていた。
時間の経過とともに、少しずつカサブタのように乾燥して剥がれていく。
手をこすりながらパラパラと粉になっていく。手の上で自分の涙と混じって粘土のようになるのを感じていた。全部取れなくて結局そのままにした。
あてもなく、街を歩いていく。
死体が、当たり前のように落ちている。
どこもかしこも。
何かに足を引っ掛けて悲鳴を上げながら転んだ。
それは子供の死体だった。
もう、泣き出すことさえ出来ないくらい深い絶望を感じていた。
場面が飛ぶ。記憶が飛んでしまったからだ。
大型スーパーマーケットの駐車場にいた。
全てが絶望的で。
誰かに殺されたい。
そう、自分から望んでいたのも、この頃だ。
生きることを放棄したいと願っていた。
昼間はただ。いつものワゴン車の席で。太陽の光を眺めていた。夏場の強烈な日差しに身を焦がしていた。
肌は日に焼けていき。直射日光を直接見ていた。あまりに強烈な光に視界がおかしくなっていく。理由も無くそれをずっと続けていた。一種の自傷行為なのは自覚していた。
緩やかな自殺だった。
その傍らに同い年の子がふらふらと倒れこんだ。名前も知ってる。
悪い男に引っかかり、散々利用されて、力尽きたのだ。
辛い時には慰め合ってきた子だった。背が高くて、大人っぽくて、社交的。だから自分が犠牲にならず。選ばれずに済んだ。
自分の身代わりになったようなものだ。
大人達が大騒ぎしている。
必死で助けようと頬を叩いている。
それを、横目で一瞥した。そしてまた太陽に向き直っていた。
「廃人かお前は」
誰かが非難した。
その言葉をかけられると、余計に心を閉ざさざるを得なかった。
夜になると怖くて。
昼間感じていた不安が数倍に膨れ上がって襲ってきていた。
呼吸が整わず。過呼吸のような状態が続いていた。
朝起きると。何かが音を立てて壊れた。
このままだと見捨てられる。
ショッピングモールのトイレの鏡の前でタバコを吸いながら。
自分がどう振る舞うべきなのかを考えていた。
自分の代わりに死んでいったあの子。
あの子のマネをして。
みんなに愛想良くして。
守ってもらえるようになれば良い。
喋り方も。振る舞い方も。すぐそばで見ていたから。覚えていた。
だから、本来の自分のことは押し殺した。
練習したとおりに。
服装は子供っぽいものに取り替えていた。
あの子は大人っぽい服装だった。
でも、自分でやるならこの方が良いと思った。
短くしていた髪の毛も伸ばして、二つで結えることにした。
出来るだけ幼く見えるように。
子供のように。
場合によっては本当に幼児退行したように振る舞っていた。
老人達は自分のことを孫のように扱い初めていた。
面白がった男が体を触ってきた時も、震えを抑えながら我慢して笑っていた。
別の男がそれを紳士気取りで嗜めて守ってくる。
どの男達も下品な笑顔で眺めてくる。
それだけで生きていたく無いと思った。
多分、真っ赤な顔をしながら笑っていた。
男達にとっては自分の感情などどうでもいいことなのだろうと思った。
誰も理解しない世界。
誰も共感しない世界。
人間なんて。
______この世界は。無い方がマシだと思った。
ある日、一人の男から押し倒されていた。
みんなが見てる前で。正気を失ってしまった男だった。
無理矢理着てる服を脱がされそうになっていた。
別の男が近くにあった金槌でその頭を打ち砕いた。
血があたりに飛び散った。
自分の顔にも降りかかり、目にも入った。
老婆が優しくタオルでそれを拭き取ってくれた。
ありがとう、おばあちゃん。
必死で抱きついて。頭を撫でてもらう。
その時はそれが一番ベストな気がした。
もう何も感じていなかった。機械的に無邪気な子供を続けていた。
出来るだけ庇護欲をそそるように。
細心の注意を払いながら。
笑いながら、涙が流れ出ていた。
生きていたくない。
もう、終わりにしたい。
ああ、こんな世界は……。
先に起きたのは紫音だった。
隣の玲奈は未だに眠っており、起こさないように注意しながら布団を這い出た。
布団からわずかにアサルトライフルがはみ出している。
安全装置がかけられているのはわかるが、どうにもおっかない。
畳の床はすでに薄い茶色に変色しており、経年劣化が激しい。
仏壇が飾られており。
持ち主がこの家を手放す前はギリギリまで手入れしていたらしく、状態は良好だった。
壁の天井には神社や寺のお札が貼っており。
子供のラクガキが貼ってある。
「おじいちゃんへ」と書かれたその紙で。
この家の年齢層がなんとなく伝わってくる。
せいぜい羽蟻がいる程度。脱いだ靴下で叩いて追っ払ってしまった。
床なども清潔なものだった。
使える物を探し回るが、食料の類は見つからず。
料理包丁がニ本あるだけで、それ以上の品はない。
料理油のボトルや、醤油のボトルがあるが。それらは全て無視した。
ブラウン管のテレビや、足の短いコタツテーブル。座布団。
ワインのボトルの中身が四分の一ほど残っていたが。あえてそれを飲もうとは流石に思わなかった。コルクを抜いただけで嫌な酸っぱい匂いがした。腐ってる。
タバコが一箱見つかったが中身が空っぽでガッカリした。
タンスを開くと、年代物のコートなどがかけられていたが、湿気の匂いがひどく、着るつもりは無かった。
玄関には、男性用の革靴が置きっぱなしになっていた。
サイズも合わないし。万が一にも水虫に感染するのは良くないので放置していた。
風呂場の窓を開くと雨混じりの風が吹いていて、どこかさっぱりとした気分になる。
結局、何日か、雨が止み終わるまで、ここに滞在することが決定した。
足止めではあるが、体力を消耗しており、休めるのは幸運だった。
口にこそ出さないが玲奈も同じだったらしく。相当疲労が溜まっていたらしい。
ほとんど半日間、眠ったままだった。
その隣に紫音が横たわった。
特別、警戒とかはしていなかった。
上下に揺れる胸を眺めていた。
全体的に玲奈の肌はきれいだった。
あれだけの戦いの日々の割には飛び抜けて少なかった。
打撲か何かで極一部は変色しているが、他は軽い切り傷が薄く見える程度。ほとんど無傷だった。
単純に戦闘能力が高いからだろうか。
野生動物でも、その個体が強ければ強いほど体の傷が少ないと聞いたことがある。
二回ほど玲奈は起きたが、軽く身体を動かして、水を飲み、再び眠ってしまっていた。
布団に入る時に、ふざけて一緒に潜り込んでも文句一つ言わなかった。安心されているのかと思う。
なんとなく好奇心で胸に顔を押し当てても、反応はなかった。
胸は薄くて、代わりに胸筋があるような感じだった。肋骨の感触が頬に当たった。
ブラジャーの感触がするだけで胸そのものは薄かった。
「……イタズラはやめてよ」
それだけ言うと、玲奈は寝返りを打っていた。
「ごめん、ごめん」
紫音は笑って誤魔化していた。
大雨は続いていた。停滞し、足止めされていた。
打開策も見つからなかった。
食糧だけはあったから、それだけが救いだった。決められた分だけかじっていた。
「紫音、ちょっと来て」
玲奈が薄着のまま紫音を畳の部屋まで引っ張っていく。
「今は私が守っていられるけど、簡単な扱い方くらいは教えておいた方が安全だと思う」
その手には拳銃が握られていた。
「わたしがそれを持ってもいいの?」
「うん、いつ危険なことになるかわからないし。知ってて損は無いと思う」
玲奈は紫音に銃器の扱いや、簡単な護身術をレクチャーしていた。
銃器の分解。
弾のこめ方。
照準の合わせ方。
銃口の向け方。
立ち位置。
セーフティの外し方。
「慣れない人間が変な撃ち方をすると脱臼することになるから、必ずその体勢を覚えておいて」
ガッチリと腕や肩を押さえて丁寧に教えてくれる。
「それと、素手は危ないから手袋をすること。これを使ってみて」
それは押し入れにあった、作業用の手袋だった。無いよりはマシならしい。
「こうやって、手袋しないで打つと脱臼するかもしれないの。間接が抜けちゃうんだよ」
弾倉に弾を込める作業は意外なほど心理的なストレスが掛かった。バネ仕掛けで弾が入りにくい。
玲奈の使っている拳銃は短い割にはゴツゴツしていて。全部は握りにくい。
スライドが引かれた瞬間、バレル自体が回転して薬莢を排出する特殊な作りで。
使いやすく、頑強な作りなのが特徴ならしいが。銃器の説明を受けてもあまり頭に入らなかった。
筒状の消音器を銃口に取り付けると。いよいよ、試射に入ることになった。
安全装置を外し。適当に拾ったブロックを積み重ねて作った的に、照準器で狙いを定める。引き金を引くと、腕に重い衝撃が来て。炭酸ジュースのプルトップを開くような音がして。ブロックが弾き飛ばされた。
「すごい! 当たった!」
確認すると、狙ったポイントよりも。やや左下にの位置に当たっていた。
「実際にこのくらいの距離でもあんまり当たらないから、動く標的なんて余計に当たらないんじゃないの?」
「普通だったら、無理だよ。動く物を狙うのは経験が必要だと思う。よく、スローモーションになるという人もいたけど。実際は逆で。常にみんな動き回ってる」
聞いてて、それを実際に経験してきたことを想像すると、凄まじい世界だと思う。
「それとね、相手との距離が離れてる場合、視界を一点に集中させてると、動き回るものって案外見つけやすくなるの」
紫音は畳の上の一点に集中した。
「本当だ、動き回ってるクモがすぐに見つかった、こういうことか」
「そう。その方法で私は動いてる相手を見つけ出してる。相手より早く見つけて、より有利な位置に移動してる、素人ほどパニックになって、無駄な動きが多くなる。発見されないつもりが。逆にサインを相手に送ってしまってるの」
簡単な格闘術も教わった。小柄ならインファイトに持ち込めば良いということも。
背の高い相手からすると、的として小さく厄介な場合もある。誇張ではなく、百八十センチの男が三十センチも低い相手に倒される場面も見てきたと言う。
「言っておくけど、私が教えたことを、実戦で使おうとは思わないで、絶対に無理だから。もし相手に鉢合わせしたのなら、背を向けて逃げることを約束して欲しい」
「わかった。あんたが言うならそうする」
あくまでも逃げ切ることを、玲奈は教えていた。
どんなに卑怯な方法でも、最終的には無傷で生き残ることが大切だと。
ナイフで攻撃すると良い場所も教わった。
体の軸に沿って縦に切りつけ、しゃがみ込むように下から突き上げて股間に刺し込むやり方。
腹を狙い、相手の体重を利用して奥まで差し込み致命傷を与えるやり方。
聞いていて痛々しいものばかりだ。
フェンシングのような取り扱い。あるいはナイフを軽く握るだけで柔らかく柔軟に切りつけて獲物を攻撃する方法。もしくは逆手に持って腕を使ってナイフを見えにくく隠すやり方も教わった。
定規を使って練習していた。
玲奈がナイフをチラつかせるたびに。実際にそれを実行してきた臨場感が伝わってくる。
相手の首を掴む動作をすり抜ける頭の動かし方。
相手との適切な距離の保ち方。
手首に素早くナイフで切りつけるやり方。
それは特定の格闘術というよりも、いかに急所に触れて手っ取り早く壊すかという実践的なやり方。
紫音にとっては動物的なやり方に思えた。
玲奈は少し舌足らずな口調でその動作を教えていた。
まるで母猫が子猫に獲物の取り方を教えるように。
不意を突いて、優位に立ち回ること。
「殺す」というより「壊す」ことを教えられた。
そして、聞けば聞くほど、玲奈はまともに戦おうとはしなかった。
暗闇や物陰を利用して、不意打ちをして、それがダメならすぐに逃げ出すらしい。
どれもこれも合理的だった。機械的なくらいに。
不意に「殺人マシン」という言葉が脳裏に浮かんだ。
休憩時間も多く取った。
疲労を身体に溜めてしまうと体調を崩しやすくなる。その分だけ生き残る確率が減る。
こんな世界になってから。カロリーを使わないように、運動することもほとんど無かった。息切れていた。
「あんたは、あんまり声にはっちゃけてる感じが無いから、その印象を逆に使ってみようよ」
紫音の提案に玲奈は戸惑った。
まるで子供のような顔で。
「どういうこと?」
「わたしもさ。玲奈に教えられることって沢山あると思うんだよね」
コミュニケーション能力。というよりも。
異性への媚びの売り方。バランス感覚。
今度は逆に紫音が教える側だった。
集落でどんな生活をしていたか、話していた。
髪を指でいじった。
「ほら、私って背低いから、こういう風に子供っぽく見せた方が得なわけよ」
「どういうこと?」
「うん。相手も油断してくれるし。優しくしてくれるの。わたしって十三歳とかで通るからさ」
「そういうことか」
「そういうこと、玲奈は逆にお淑やかに演じてれば、怖がられないし、守ってくれる立場は確保できると思ってんだよね」
あっけらかんとした口調で伝えている。
「つまり、か弱い人間を演じることで守られるようになれば良いってことなの?」
「そうそう。無理に強がっちゃっても。周りから疎ましく思われるからさ、その方が良いよ」
「例えば、紫音が私だとして。どんな人を演じるの?」
「うーん、そうだなぁ……。普通に大学生やってて。心理学とかのカウンセラーをめざしてた、でも震災があって。彼氏も家族もみんな死んじゃったんです……。そういう経歴にしようよ」
「そんなのって。バレちゃうんじゃ無いの? 私、心理学のことなんか何も知らないよ」
「それならさ、とりあえず悲しそうな顔してれば良いよ。深くは突っ込まれないから大丈夫」
「そんなものなの?」
「うん。その程度の嘘ってみんな付いてるからさ、あんただけじゃないし。わたし、上手い設定を考えておくわ」
言いながら、缶詰をいくつか、鍋の中にいれて、カセットコンロで煮込み始めた。塩の入った小瓶を振る。
「料理だけは得意だったからさ、これで生き延びたようなものかな、みんなのパシリやって、雑用もやって」
「そういうのって大変だったんじゃない?」
「もちろん、最初は震えながらやってたし。その時のオバチャンが怖い人で、吐き気堪えながらやってたもん。でも、わたしの立場って恵まれてたんだよ」
「自分で自分を恵まれてたと思うんだ」
「うん、それでもキツかった、だって私、もともとは普通の女子高生だったんだもん。この世界がおかしいんだっつーの」
喋りながら、そのスープを食べていた。
「美味しいよ、紫音って料理上手」
「うん、まあまあかな。九十五点くらい」
談笑はいつまでも続いていた。
異変があったのは、よく晴れた日のことだった。
雲一つないほど晴れていて、二人で他の家の隅々まで探すことに決めていた。
役に立つ物があれば良いと思い始めていたが。
大抵はガラクタしか見当たらなかった。
その中に一つだけ、おかしな家があった。
その家だけ妙に片付いている。土足で二人とも上がり込んだ。
暗い廊下だった。一つの扉だけが何かを隠すかのように。厳重にロックされていた。
ドアノブ自体が改造されているようだった。
紫音は玲奈の手を握っていた。
「ねえ、これって手形だよね?」
近くの壁に黒い染みがあった。
大人の男くらいのサイズだった。
一つだけじゃなく。無数にベタベタと付けられていた。
紫音は身震いしながら言った。
「これじゃ、ホラー映画のワンシーンみたいだよ」
無数の人間がうめき声をあげている様が連想された。
苦しげに、恨めしげに。
「これさ、入ったほうが良いのかな?」
言いながら、紫音はドアをノックしていた。
ドアはロックがかかっておらず、そのまま引けば開いた。
内側からは開けられないだけで。外側からは開けるらしい。
「なにこれっ、やだっ」
扉が開いた瞬間。
二人とも飛び退いて後ずさっていた。
あまりの臭いに玲奈までもが顔をしかめ、咳き込んでいた。
男の顔が覗いている。
白髪まみれで、髭も伸び切っている。
浮浪者というよりも、映画に出てくるミイラやゾンビのような容貌だった。
手足に手錠が嵌められていた。
アンモニアのような鼻の奥が痛くなる刺激臭。
公衆便所のような不快な匂い。
身体が受け付けないように拒否してるのがわかる。呼吸が出来なくなる。
二人は慌てて外へと飛び出していた。
紫音はえづいていた。思わず口元を抑えた。
しばらく咳き込んでようやく口を開く。
「あの人のこと、助けなくていいの?」
玲奈も軽く咳き込みながら返した。
「もう、死んでる」
死体の存在感は強かった。
目に焼き付いてしまっていた。
ハエがたかっていた。それに植え付けられた蛆虫も蠢いていた。
湿ったような空気感も吐き気を催すのには充分だった。
「酷い……あの人、何でこんなことになってんの?」
「わからない、でも。ここまでのことが出来るのは、日本人では無いとは思う」
玲奈はしゃがみ込み手を合わせると、黙祷していた。
「…….…」
意外な行いに、紫音は驚いたが。
すぐに同じように真似をして手を合わせて、目を瞑った。
成仏できますように。安らぎを与えて下さい。
心の中で祈った。
とても意味があるとは思えないが。
その時だった。風が吹き付けてくる。
それに乗って二人のいる遥か遠くから、車の運転する音が聞こえてきた。無数の車が同時に向かってくる。
「玲奈……この音って……」
「おそらく、この人を監禁した人たちの車だと思う。急いで、隠れるから」
その言葉を聞いてゾッとした。
飛び出した家をもう一度眺めてみる。
「どうしよう、扉をあけちゃったこと、バレるよね?」
今も臭いがあたりに漂っていた。
強烈な臭いで、喉が痛くなってくる。
「とにかく離れよう」
玲奈に手を引かれるまま。先程の民家へと避難した。
逃げるにしても、観察するにしても、かなりいい位置だ。
二階の窓から覗き込んでいた。
僅かな隙間から見下ろせる。
トラックは乱暴な運転でそこに止まった。ドアが開く音がする。
出てきたのは日本人では無く、大柄な外国人だった。南米系。メキシコ人だろうか。
一人はヘルメットを被り、スポーツ用のプロテクターまで着込んでいた。
そして、狩猟用の散弾銃やライフルを所持している。
その装備はさながら軍隊のようでさえあった。
この荒廃した世界で、なお筋肉が発達し肥大しているところを見ると。
彼らが「奪う側」だということを認識させられる。
聞いたことがないような外国語でお互いに話しては笑っている。
死体の前で冗談でも言っているのか。
まともな神経をしているとは思えない。
窓から見える男達を見ていると。同じ人間には思えなかった。
「人間を家畜みたいに扱ってる、そういう人達なんだと思う」
玲奈の冷静な言葉で、息を呑んだ。
よく見ると、彼女は大して取り乱してもいなかった。
「どうするの? ここで隠れてる?」
「紫音は隠れてて、あなたは良い『商品』になってしまうから」
言いながら玲奈は拳銃を取り出していた。
すでに安全装置は外してある。
細長い筒。消音器をくくりつけていた。
「玲奈だって、同じだよ。その……犯されるよ?」
小声で批難していた。
見つかってしまったら、応戦は免れられない。
それにも関わらず、戦うつもりならしい。
「私は大丈夫。そこでじっとしていて、見つかる前に、先に攻撃するから」
突然、玲奈が動き出す。
玲奈の動きは素早く、紫音が止める間もないほどだった。まるで影がスッと動くような静かさ。
「え、待ってよ……」
一人取り残されたので気が気で無かった。
しかし、諦めた。
動く勇気も決断力も何も無かった。
仕方なく、窓から眺めていることにする。
玲奈が戻ってこない時間。それは無限のように感じられた。
もしかしたら……と思うと、気が気では無い。
突然、背後で何かが動いているような気がした。
背中側の床が軋む音がした。
「玲奈? 大丈夫だったの?」
小さく声をかけると振り向いた、最初は玲奈だと思ったからだった。
でも、それは違った。
心臓が止まりそうになる。
いつのまにか、浅黒い肌の男がそこにいた。
眉毛が濃くて、目が爛々と輝いてる。まるで獲物を見つけたとばかりに。
黒い肌に白い歯が歪なコントラストを醸し出していた。
獰猛さが滲み出てる。何より気持ち悪い。そう思った。
恐ろしいほど目力が強く、真っ直ぐにこちらを見つめていた。今にも襲い掛かってきそうだった。
紫音は逃げ出そうとした。
部屋から部屋へ。走り出した。
だけど、男の腕が絡み付いた。容赦なく。紫音の子供のような身体に、太い腕ががっちりと抑えつけていく。
アバラが軋むような圧迫感で、胃液が食道まで逆流するのがわかる。
後ろから首を狙って、ホールドするように押さえつけられている。
どのような体勢になっているのか今の紫音にはわからない。
三次元的な感覚が麻痺していく。
男が本気で殺しにきてると思うと恐怖で気が遠くなった。頭の中が真っ白になる。
いっそのこと早く殺して欲しいとさえ願う。
「オトナしくしろ!」
イントネーションのおかしな日本語で叫んでいる。
血管が分厚く浮き出ていた腕が目の前に迫ってくる。ズルズルと動くから鼻の頭にも当たってくる。鼻が押し潰されそうになる。軟骨がぐりぐりいっていた。
紫音はその腕に噛みついた。
「ああっ! 痛えっ!」
男が悲鳴を上げる。
耳のそばであまりにも大声を出すから鼓膜が震えた。野獣のような咆哮。
「あああぁっ! やめろっ!」
いざとなれば噛み付けばいい。
そう玲奈から教わった。
服の上から噛むと、歯が折れる危険がある。だからこそ、大切なのは素肌を狙うこと。
大抵の動物よりも人間の方が噛む力が発達している。
外国の子供は防犯に噛み付くことを護身術として教わるケースさえあるらしい。
死に物狂いで噛み続ける。離してしまったらもう後がない。前歯や犬歯が相手の腕に食い込んでいくのが自分でもわかる。皮に歯がめり込んでいく。ブツっという音がした。血の酸味が口中に広がる。それでもやめない。
骨ごと噛み切るつもりで顎に力を込めた。
「てめえ殺してやるっ!」
紫音は目元を叩かれてようやく口を離した。
そのまま、床に投げ出される。這うような体勢から素早く立ち上がる。
思わぬ反撃に男が思考停止状態になっている。
それが一番の狙いどころだった。
高濃度の酒が相手の目に入る。それも腐った酒だった。
目の前にあったから、反射的に投げつけていた。
男は更なる金切声を上げた。声にならない絶叫。転倒し、壁に頭を激しく打っていた。
「このやろーっ! 殺してやる!」
それでも喚くことはやめない。
その光景から逃げ出すように、また背中を向けて走り出した。階段を駆け上がっていく。
もう一度捕まったら、今度は間違いなく殺される。
部屋までたどり着くと、ドアを閉めて、机を動かし、本棚を倒して突っかけにした。
すぐさま男が上がってくる。
「あけろぉーっ!」
ドアをバンバンと叩いてくる。
木製のドアが安っぽい音を立てて裂けていく。男のブーツが見えた。
紫音は目の前にあるカッターを取り上げる。
カチャカチャ言わせながら構えた。
やるしかない。
ここで、自分が殺すしか無い。
殺すことでしか、生き残ることが出来ない。
だから、やるしかない。
でも、本当は怖い。カッターを持つ手が震える。
「あけろぉぉぉぉおおお!」
血管まみれの腕がドアの裂け目から飛び出た。それが引き抜かれると、さらに蹴りで破壊してくる。
それを見ても、踏ん切りがつかない。
時々手を使って破壊してくる、腕がモグラ叩きゲームみたいに出たり消えたりする。そこを狙って脈を切ればいいのに。
怖くて。身体がうごかない。頭ではチャンスだとわかってるのに。それが出来ない。
ついに蝶番が外れてドアが意味を成さなくなる。
紫音が百八十度、振り返り、窓から脱出することを決めたのは同時だった。
窓を開くと、隣の家の屋根がすぐそばにある。
それをジャンプして飛び移る。瓦の音を立て鳴らしながら走り続ける。硬い屋根の上を走っていく。男も追ってくる。
殺し合いをしてるとは思えないくらい間抜けな場面だと思う。
絶体絶命の危機。自然と腰が抜ける。へたりこんでしまう。
「死ね」
さっきとは打って変わって、冷静な声で死刑宣告を述べた。
もうだめだ。
紫音は目を閉じた。
小さな破裂音がした。
目を開けると。男が踊り狂いながら、血を撒き散らし、派手に赤く回転しながら、屋根を転がり落ちていく。
破裂音がした方向を見ると、そこには拳銃を構えた玲奈がいた。
「紫音! 大丈夫!」
「馬鹿あぁっ! 助けるのがおそいってえ!」
さっきまで呆然としていたのに。
紫音は怒りに任せて叫んでいた。
紫音は玲奈に抱きついていた。
怖くて、悲しくて、しがみついていた。
一方の玲奈は完全な棒立ちだった。
何をすれば良いのかわからない。といった状態だ。
抱き返そうとした、その手をまた下ろした。
なすがままにされている。
紫音が落ち着きを取り戻すまでは時間がかかった。
そんな紫音をなだめるのは大変だった。
無理もない。
何人も発狂した人間を見てきた。
完全に幼児退行した者も大勢いる。
ついさっきまで銃を撃った手。火薬の匂いが染み付いた手で緑茶を淹れた。
温存しておいたチョコレートを、紫音に与えていた。血糖値を上げて落ち着かせた。
「……おいひい」
紫音はうつろな目で遠くを眺めていた。
そんな彼女に、玲奈は申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめん、早く来れなくて」
「おしょいんだよ、おまえは」
まだ怒りがおさまらなかった。チョコレートを咥えたまま発音した。
「……ごめんね。私って肝心なところで鈍臭いよね」
玲奈は立ち上がると、次の作業をやり始めた。
それは死体の後始末だった。
慣れた手つきで一回りも二回りも三回りも大きな体の亡骸を抱えると、それぞれに出来るだけ丁寧に仰向けの体制にしていく。
紫音はその死体を見ていて、顔を背ける。
数年前に、これとは比べ物にならない量の死体を見たが、やはり慣れるものでは無い。
それから、使用していた銃器の回収作業だった。
狩猟用の散弾銃四丁に弾薬が六十包、リボルバー拳銃五丁。弾丸合計四十発強。
狩猟用のスコープが付いたライフルもトラックの中に積まれていた。
それらを一つ一つ自分たちの車の中へと積み込んでいく。
並べられた遺体を前に玲奈は手を合わせた。
「本当はきちんと燃やしたほうがいいのかも知れないけど。燃料も節約したいし。それに……」
玲奈は先程の監禁された家があった方を向いて俯いた。
こんな人達に、火葬するだけの労力は使いたく無い。そんなところだろうか。
戸惑う玲奈に答えを突き出すことにした。
「そんなひとたちのことって、れつにまいしょうしなくていいれしょ」
「そっか、それもそうだね」
「しょれより、かたきうちできたんだから、いいんやにゃい?」
「仇打ち?」
紫音はややあきれた顔で眺めていた。
「ふこしは、むくわれたんじゃないかな?」
「そっかな?」
ふと、思い出す。自分たちが住んでいた民家のことを。
「……亡くなった人たちの中に、わたしたちが住んでいた家の持ち主もいたかもね」
紫音はしんみりと言い出した。
「おじいちゃんへ……って描かれた子供の絵があった……もしかしたら、捕らえられてしまっていたかも知れない……部屋も最近まで使ってて綺麗だったし……」
玲奈も同じことを思い出したのか。手を口元に当てていた。
「でも、玲奈が仇を打ったから少しは救われたと思うよ」
咥えていたチョコレートを食べ終えると、紫音は立ち上がっていた。
「もう、次のところに向かったほうがいいと思う。あの人達の別の仲間が来てしまうかもしれないもん」
もともと最低限の荷物しか持っていなかったので、車の中に乗り込むと早速出発することにした。
心の中で、せっかく家を使わせてもらったのに。
めちゃくちゃにしてしまって、申し訳ないと思いながら。
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