黒衣の女

「あのおっさん、私のことずっと見てる」

 一人の少女が言った。

 身長は百五十センチ程度。

 青いジーンズに黒いタンクトップを着て。

 やや茶色い髪の毛を後ろ二つに結えている。

「あんた。アイツは要注意だよ。頭がボケてるから、もう理性なんか残ってないよ。怪我しないうちにあっちに行ってなさいな」

 人の良さそうな中年の女は少女に注意していた。

 そう言われて、少女は少し早めに歩き出す。

 五十代くらいの男性相手に、視線を上下されているのがわかった。

「私だって若い頃はあんな風に見られてたよ」

 そういうと、女は少女を庇うために。男を追っ払っていた。

 訳の分からない言葉を吐きながら、男は逃げていく。

 その光景を眺めながら、少女はため息をついた。

「ねえ、オバチャン。私たちってなんのために生きてるのかな?」

「そういう哲学は嫌いだよ。さっさとそれを持っていきなさいな」

「はーい」

 そういうと少女は大きな布袋を担いでいった。

 中には洗濯物がぎっしりと詰めこまれていた。

 男達が働いて帰ってくる。

 その作業服を洗うことで何とか生計を立てていた。

 仕事がおわると、マウンテンパーカーを羽織り帰宅することにした。

 身体のラインが一切わからないような地味な服装だった。

 そして何より疲れ切った表情。

 みんなが「集落」として使っているのはショッピングモールの駐車場だった。

 いくつもの車が無造作に止めてある。

 そのほとんどの車のドアは常に開いていた。

 更にブルーシートを足して、さながらキャンピングカーのように加工したものまであった。

「オバちゃんいつも付き添いありがとうね」

「いいのよ、あんたは可愛いから気をつけなね。あそこのジジイとか目付きがいやらしくって気持ち悪いのよ。きっと昔からロリコンなのよ」

 少し離れた場所に少女の寝床があった。

 ワゴンタイプの軽トラック。

 後部座席は取り払っており。そこに寝袋が直接置かれていた。

 寝袋の中には筒状の膨らみがあり、缶詰が仕舞い込まれているのがわかる。

 少女は「給料」として支払われた、粥を貪るように食べている。美味しいとも不味いとも思わない。魚の缶詰や米が煮詰まっただけの残飯のような代物だった。塩が効きすぎてて喉が渇く。それを美味しいと感じてしまうくらいにはまともな物を食べていなかった。

 それぞれの住民が思い思いの過ごし方で、終末の世界から現実逃避していた。

 その光景を無表情に少女は眺めていた。

 酔ったような老人が気持ち良さそうに何かわからぬ歌を喚いていた。

 噂だと、シラフでこの調子ならしい。

 その隣で妻である一回り若い老女が同じように呆けている。

 誰が面倒見てるのか、とりあえず生きている。

 近くにはバナナ、リンゴ、食パンをガラスの瓶に入れ、水を入れたものが転がっている。

 アルコールが発生して酒になるらしいが。

 とても飲みたいとは思えない。

「おお、お疲れ様。ここに入って半年かな? 紫音ちゃんかなり頑張ってるよ」

「今、ちょうど八ヶ月です。ここの人達には本当にお世話になっています」

 人の良さそうな初老の男性が喋りかけてくる。

 紫音、と呼ばれた少女はにこやかに笑みを浮かべた。

 少し遠くでは女が焚火の前でハーモニカを吹いていた。

 木の枝にトカゲを突き刺して真っ黒に焼いていた。

 その傍らでは、空き瓶を逆さにひっくり返したお手製の楽器で演奏している男。

 二人はカップルだった。

 情熱的な演奏は周囲の人たちを楽しませた。

 異国情緒溢れる民族調の曲だった。

 この駐車場の持ち場である。大型スーパーマーケットはとっくに使われなくなっていた。

 最初こそはみんなそこで暮らしていたが。

 建物内で暮らすのは地震などが原因で怖いらしい。

 外で車やテントで寝泊まりしていた。

 協力し合うことも多かったが。誰かが誰かの私物を盗むことも多かった。

 それでも何となくまとまっているのは。たとえ弱者同士でも、群れて生活していたかっただろうし。そうしたかったからだった。

 紫音もそれに従っていた。

 ふと、夜空を眺めると。

 満月と星空が広がっていた。

 街の灯のない世界。荒廃した世界。

 自由というにはいささか行き過ぎた世界。

 無法の地になってから、今まで必死に生き抜いてきた。

 あたりが騒がしい。

 見ると、駐車場の中に一台の車が強引に入ってきていた。

 視力の良い紫音はその様子がよく見えた。

 クラクションを鳴らすこともなく。

 無礼にも押し入ってきたらしい。

 ヘッドライトが眩しくて目をしかめた。

 集落の人間の安物のトラックに比べて、明らかな高級品なのがわかる。

 エンジンや排ガスを噴き出す音も違っている、静かすぎる。

 少女はその車に見当がついた。

 黒い車だった。キャンプの炎に照らされていやに不気味に輝いていた。

 何人かは反応したが、ほとんどは無反応だった。

 トラブルや争いを避けるためにわざと無関心を装っているのだ。

 そんなことしても、無駄なのだが。

 扉が開き、中から現れたのは、細身の女だった。

 黒いロングコート。短く切り取ったようなウルフカットの黒い髪。物憂げな表情。

 年齢は二十歳前後だろうか。まだ若い。

 紫音は自分と同年代の人間を久しぶりに見た。

 しかし、女には年不相応な威圧感があった。

 ゆっくりと、それでいて確かな足取りで駐車場内を進んで歩いていく。

 黒いコートがわずかに揺れる。

 焚き火とヘッドライトにてらされて、まるで死神のように見えた。

 何人かが尻込みするように、座ったまま引き下がった。

 両手を胸の前に合わせて、怖がる者も現れる。

 ふいにコートの懐に手をいれると、何かを持って取り出した。

「この人をさがしてる」

 意外にも幼い声だった。

 どこかたどたどしい、今にも消え入りそうな小さな声で女は喋った。

 一枚の写真。それは少女のものだった。

 十二歳くらいだろうか。童顔の少女。ショートカットの髪の毛。ブレザー姿のもの。卒業写真か入学式のものだろうか。人探しならしい。

 紫音はそれを見た瞬間に逃げるように、自分の住処であるトラックに走り出した。

 一瞬だけ目があった。

 運転席に駆け込み。エンジンをふかしてアクセルを踏み込む。

 て早いハンドル捌き。精一杯の動き。

 クラクションをガンガン鳴らす。

 周りの人間が驚いて、蟻の大群のように逃げ出した。

 他の住民達のブルーシートを巻き込むのも構わずにワゴンは突き進んでいく。

 子供たちがふざけて積み上げた空き缶を蹴散らして軽トラは暗闇の中へと消えていく。

「待って」

 小さく呟くと女は、車へと滑り込む。

 最低限の猫のような動き。明らかに訓練された体捌き。

 黒い車はほとんど音もなく動き出し。

 同じように逃げ出した少女を追いかける。

 残された住民たちは気まずそうに、それぞれの宴をやめることしか出来なかった。




 当てもなく走り出したも同然だった。

 紫音の運転するワゴンは決して馬力やスピードが高いものでは無い。

 たいして動かしていないから、久しぶりに使うエンジンは明らかに弱り切っていた。

 対して追手の方は車体のスペック自体が数段優れており。洗練された動きなのが素人目でもわかった。

 いつ追いつかれても不思議じゃ無い。

 明らかにこちらの低スピードに合わせて。迫る速度をあわせている。それが威圧感となって恐怖の速度を高めていた。

 車の速度が落ちるたびに、恐怖が高まっていく。

 紫音はアタッシュケースから、小さな折りたたみのナイフを取り出していた。

 スプーンまで付いた十徳ナイフ。ないよりマシと言うだけで。

 いざとなったら何の役にも立たない。

 それをポケットに入れていた。

 手や足が震えるのを意思の力で無理にでも押さえて。運転に集中できるようにした。

 少しでも生きる手段を模索する。

 あちこち左右に目を向ける。

 何かか動いた。

 ミラーで確認すると。後ろからライトも付けずに別の車が追いかけてくるのが分かった。

 現れたのは同じ様に黒い車体だが、こちらの方はセダンだった。

 突然、ハイビームを使って照らしてくる。

 反射した光が目に入る。あまりの眩しさに目を閉じかけていた。

 すると。それが狙いだったのか。こちらに向かって一気に加速してくる。

 紫音は恐怖からハンドルを横にきった。

 それが間違いだった。

 ガードレールにぶつかってしまい。激しく車体が揺れていた。

 慌ててブレーキを踏もうとするが、足が空回りする。

 ゆっくりと速度を失い。ようやく停車した。

 トラックはギリギリのところで車線を飛び出すことなく踏みとどまる。

 荒れ果てた畑が目の前に広がっていた。

 ギリギリのところで踏み止まっていたらしく。段差まで突っ込んで落ちていたら、骨の一つや二つは折れていたかもしれない。

 遠慮することなく黒のセダン達がそばに寄ってくる。

 逃げ道を塞ぐような停め方だと気が付いたのは、ワンテンポ遅れてからだった。

 扉をこじ開けようとする者達がいた。

 地味な長袖シャツを着込んだ男たちだった。

 作業服のズボンのようなものを着ている。

 紫音は慌ててドアをロックしようとするが、間に合わず、男達が車内に入ってくる。

 助手席から運転席の紫音に手を伸ばしてくる。乱暴に二の腕を掴み上げて。ねじってくる。

 それなりにチームワークが取れているらしく。

 悲鳴を上げるが容赦なく、さらに力を込めてくる。

 口を塞がれてしまう。

 あまりの握力に護身用のナイフを落としていた。

 腕は全く動かないのに足だけがガクガク震える。

「嫌だっ! 助けてっ!」

 短く悲鳴を上げる。

 紫音の目にはすでに涙が頬を伝って落ちていた。

「大人しくしろ」

 冷徹に男が告げる。

 暴力慣れした人間。

 男の威圧感という恐怖を存分に発揮していた。

 対しての紫音は無力だった。

 この付近をうろついている犯罪者達がいる話には聞いていた。夜中は絶対に出歩くなと。

 車に乗って追いかけ回されて。

 いたぶられた挙句、亡くなった親子もいた。

 そういえばその子も自分と同い年の子だった……。

 頬を平手で打たれて我に帰る。

 殴られた方の耳がキーンと鳴り響いている。

 そのまま軽トラの車体に押し付けられる。

 締め上げられて、紫音は短く呻き声をあげた。唾液混じりの咳がでる。

「馬鹿野郎。大人しくしてろよ」

 冷たく命じられる。

 もう一人の男の手が紫音の頭に伸びた時だった。

 突然のたうち回ったように、男が悲鳴を上げて痙攣しながら倒れていった。

 一瞬だけ、男の裏返った眼球、それも白目だけの表情が見えた。

 残りの二人もあとは同じだった。

「あっ! あ、あっ! あ」

 声にならない声をあげている。

 無様に踊り狂い倒れていた。

 最後の一人は慌ててズボンのポケットに手を突っ込んでいた。何か武器になるものがあったのだろうか。

 しかし、もはや抵抗するには遅すぎた。

 バランスを崩し。その場に倒れて同じように事切れた。

 一瞬の出来事にも関わらず、紫音にとっては人生のどの場面より壮絶な体験だった。

 紫音は足元に水溜りが出来てることに気がついた。

 それが男たちの血液であることに気がつき。気を失いそうだった。

 どれが誰の血液なのか分からなくなるくらい、アスファルトの上で混ざり合っていた。

 暗闇の中から現れたのは、先程の女だった。

 よく見ると右手にはレーザーポインターの付いた拳銃が握られていた。

 細い筒のような消音器まで取り付けられており。

 そこらの強盗レベルの装備でないことは、すぐに理解できた。

 まるで軍隊が持っているような……。

 黒のロングコートが風に揺らされ、わずかに衣擦れの音がする。それ以外は全てが無音だった。

 女が近づいてくる。その際の足音はほとんどしない。

 乱雑に切り揃えた黒い髪が額から垂れ下がっている。

 美形の部類だろう。

 眉は太く、目はやや大きな切れ長で、凛々しさに加えて野性味さえ感じる風貌。

 憂いを帯びてるような、凄んでいるような微妙な表情。

 化粧品の類はしていない。

 暴力的というよりも、恐怖だけ感じる。

 見下ろされるような姿勢で紫音は縮こまっていた。

 ふらふらと腰が抜けて、その場にへたり込んでしまう。

 女がその腕を掴んで立たせてくる。

「時間がない、いそごう」

 その声を聞いて、紫音は眉をひそめた。

 思ったよりも幼い喋り方だった。

 声質は鋭く、年不相応に落ち着いているのに、なぜだがアンバランスな幼さがある。そんな声だった。

 女は手を取って、紫音を強引に立たせて、車の中にひきずり込んでいく。

 なすがままにされて、助手席に座っていた。

「まって! 持っていきたい物があるの」

 女の手を振り解き。

 紫音は先ほどまで住処にしていた、車の中から缶詰の詰まったボストンバッグを取り出す。

 一年間の生活で得たものはそれしか無かった。

「急いで、別の人達がやってきてしまうから」

 同じように幼い喋り方。

 女に促されるように、車内の中に入る。

 気がつくと、運転席の横には先ほどの男たちが使用していた拳銃がすでにその場に回収されていた。

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