第2話 泥まみれの挙式
きらめく短剣が振り上げられ、医者は恐怖に息を呑む。だがそれが静かに目の前の机に置かれると、当惑した表情で首をかしげた。
柄と鞘に宝石が散りばめられた金色の短剣は、おそらく儀式用の物だ。
「これを売れば相応の金額になるでしょう」
バレアナ姫は微笑みもせずに言った。
「この娘の母親に薬と手当てをお願いできますね」
まさか医者も断る訳には行かない。作り笑顔で首振り人形のようにうなずいた。
「は、はいそれはもう姫様」
「なお後になって、もしこの娘と家族に対するぞんざいな扱いが判明した場合には、その首を撥ねることになりますので、よろしく」
「ひっ……」
青ざめる医者にいささか同情しながら、俺は先に馬車に戻った。
「ねえ、ターベル」
年老いた御者はドアを開けながら頭を下げた。
「何でございましょう」
「バレアナ姫は、いつもああなの」
「いつもではございません。ときどきでございます」
「ときどき、ねえ」
いい人ではあるんだよな。まあイロイロとアレだけど。
予定から一時間は遅れただろう、馬車はようやく教会へとたどり着いた。下男や学僧たちが大慌てで走り回り、式の手順を姫と俺に説明しようとしたのだが、バレアナ姫はそれを無視して入り口へと歩いて行く。
いや、そんな穏便な感じじゃないな。突撃した、と言った方がいいかも知れない。
俺が姫に追いついたとき、すでに扉は押し開かれていた。それまで内側から聞こえてきていたざわめきは一瞬で静まり、着飾った紳士や貴婦人たちが目を丸くしてこちらを見ている。その中を姫は泥だらけのドレスの裾を蹴り上げるように進む。
――あらあら、「老い花」の姫様ったらお美しいこと
そんなささやき声が聞こえた。
――ドレスの泥がとってもお似合いね
――ほら見て、あの花婿さん。まだ子供じゃない
――借金の片に婿養子に取ったのでしょう。可哀想に
――ポートマス家でしたっけ、ご存じ?
――何代も前にここよりもっと田舎に封ぜられた地方領主ですって
――それじゃ貴族というより豪族ね
「顔に出ていますよ」
立ち止まったバレアナ姫の言葉に俺は苦笑するしかない。目の前では真っ赤な僧服をまとった教父が銀色の斜め十字を背に、隣の学僧が差し出す聖典に手を置くべきかどうか戸惑っていた。
「さっさと始めてくださいな」
バレアナ姫の凜とした声が張る。
「神の前で誓えばいいのでしょう。誓います。これでよろしい?」
そして姫は斜め下の俺に目を向ける。しゃあねえなあ、いまさらひっくり返す訳にも行かないし。
「はい、僕も誓います」
小さく右手を上げて俺がそう言うと、途端にバレアナ姫は後ろを振り返った。
「用は済みました。帰りますよ」
教父も学僧も、そして参列していた貴族たちも、みなが唖然とする中をバレアナ姫は颯爽と歩き去る。俺はその背を追いかけるしかなかった。
「あれで良かったんですか?」
リルデバルデ家に向かう馬車の中、たずねた俺に当たり前と言いたげな顔でバレアナ姫は答える。
「形式だけの結婚です。体裁が整えば中身などなくても十分」
「でも教会にはご両親もおられたのでは」
「いたのでしょうね。けれど彼らの希望は叶えたのです、それ以上何かをする必要もないでしょう」
「はあ、まあそうなんでしょうが、それでも一応僕の義理の両親となる方々ですからね、あまりメンツを潰さなくてもと」
俺がそう言うと、姫の厳しい眼差しが俺に向けられる。
「意外ですね。随分と楽しそうに見えますよ」
「え、いや、別に楽しんでる訳でもないですよ、ただ」
「ただ?」
「……なかなか面白い人だなあ、と」
するとバレアナ姫は呆れたように小さなため息をついた。
「おかしな人ですね。でも、それくらいがいいのかも知れません。心の優しい人間には向かない世界に暮らすのですから」
自分で言うのもアレだが、結構優しいつもりなんだけどな、俺。
そのとき、馬車がガタンと揺れた。と思うと、馬車の走行音がカラカラと軽やかになり、振動が減ったのがわかる。
「リルデバルデ家の直轄地に入ったのです」
バレアナ姫の言葉に窓から外を眺めて見れば、さっきまで泥道を挟んで灌木がまばらに生える土地が延々と広がっていたのに、いまは明るい色調の石造りの建物が左右に軒を並べている。道路は煉瓦で舗装され、水たまりなどない。
顔を上げれば金属のアーチが組み合わさった塀が延々と伸び、その向こうには緑の森と花畑、さらに向こうには白い屋敷が見える。
「貴族の邸宅です。さっき教会にもいたのではないでしょうかね」
何の感情も湧かないのか、淡々と話すバレアナ姫に対し、俺は感心の声を上げてしまう。
「はあ~、なるほどうちの屋敷なんて犬小屋ですね、こりゃ」
そして姫を見つめてこうたずねた。
「リルデバルデ家のお屋敷は、もっと大きいんでしょうか」
「ええ、もっとずっと大きいですよ。もっとも中に住んでいる人間が、それに比例して偉大であるかは話が別ですが」
なるほど真顔で毒を吐くのか。そりゃあ敵も増えるし、親は持て余すわな。
「気に入らないようですね」
バレアナ姫の目がまっすぐ俺を見つめている。ここは弱々しく視線をそらせた方がいいだろうか、と思って、やめた。
「たとえ正論でも、親の悪口は聞くに堪えないですから」
「あなたは良いご両親に育てられたのでしょう」
「とんでもない。借金の片に息子を売り飛ばすような親ですから、まあいろんな意味で『人間的な』二人でしたよ。ただ、それを言葉で表現するのはどうもね」
「親を立てて尊敬し、美辞麗句で飾れと?」
「そうは言いません。世の中にはどうしようもない腐った親だっているもんです。でもそれを言葉にしたら、口にしたあなたが傷つくでしょう」
姫の表情は変わらない。だが視線が鋭くなった気がする。
「随分と世の中を理解しているのですね」
こう言われてしまっては、苦笑を返すしかない。俺は両手を小さく上げた。
「はい、もう黙ってます」
バレアナ姫は窓の外に視線を向けた。気のせいだったろうか、少し残念そうに見えたのは。
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