第3話 影屋敷

 巨大な黄金のアーチをくぐり、馬車はリルデバルデ家の敷地に入った。そのはずだ。だが屋敷が見当たらない。白い石畳の道は広大な緑の草むらの真ん中を割り、まっすぐに小高い丘へと向かっている。その丘の頂に至り、ようやく見えた。


 漆黒の豪邸。これはまた悪そうなお屋敷だ。


 高さはそれほどでもない。窓を見る限り三階建てだろうか。だが幅が広い。到着までまだ時間がかかりそうなのに、首を左右に振らなければ視界に収まらない広さ。いったい何人家族だよ、と思うのは貧乏貴族の性か。


「影屋敷と呼ばれています。建物を一色で統一するのは威圧感があって私は嫌いです」


 バレアナ姫は、誰に言うとでもなくつぶやいた。


 そしてようやく馬車は影屋敷の玄関へとたどり着く。ターベルがドアを開け、姫と俺が馬車から降りると、玄関では何人もの使用人たちが大きな扉の左右に分かれて出迎えた。


「姫殿下、王子殿下、お帰りなさいませ」


 王子殿下、って誰のことだ。俺がキョトンとしていると、バレアナ姫はまた小さくため息をついた。


「あなたは末端とは言え王の血族の家に入り婿として来たのです。王位継承権はありませんが、一応王子ですよ」

「ああ、なるほど」


 今朝まで貧乏貴族の三男坊だったのに、いまは王子か。出世が早いね。そんなことを思っていると、耳の周りに少しだけ白髪を残したほぼハゲ頭の大柄な老人が、困ったような顔で歩み寄ってきた。


「姫様、その泥だらけのドレスはいかがされましたか」

「婚礼が嬉しかったので泥遊びに興じただけです。それよりアルハン、私の夫を部屋に案内なさい」


 おそらく執事なのだろう、アルハンと呼ばれた老人は俺の方を向いてやや同情したような表情を見せると、後ろに並ぶ下女の一人に声をかけた。


「マレット、王子殿下をお部屋に……」


 そう言いかけたとき。


 遠くからガラガラガラと雷のような音が聞こえてくる。丘の方を見やれば、黒い塊が物凄い速さでこちらに向かってきていた。よく見れば馬車だ。黒い馬四頭に引かれた、俺たちの乗ってきた物より三倍ほど大きな黒光りする立派な馬車。それが石畳を削り取る音を立てながら急ブレーキをかけ、影屋敷の玄関前に滑り込んだ。


 アルハンが慌てて駆け寄るが、彼が馬車のドアに触れるより早く内側から押し開けられ、黒いマントを羽織った浅黒い小柄な老人が飛び出すように降りて来る。


「だ、旦那様」


 アルハンが声をかけたのと、使用人たちが口を揃えて出迎えたのはほぼ同時。


「親王殿下、お帰りなさいませ」


 そう、彼がこの影屋敷の主人にしてバレアナ姫の父親、つまりは俺の義父となるグローマル・リルデバルデ親王。王位継承権は確か十三位だったか。姫に会うより先に一度面通しをされているので、これで会うのは二度目だ。


 口元にタップリと蓄えた真っ白いヒゲを震わせて、グローマル殿下は不満に爆発しそうな顔でバレアナ姫をにらみつけている。


「着替えの白いドレスを用意していた」


 見るからに怒鳴りつけたい気持ちを押さえて、諭すように言葉を紡ぎ出す。


「装飾用の宝石も、式の前につまむ軽い酒と食事も、この日のために集めた化粧師も、ワシが式場で手渡すはずだった誓いの指輪も、式の終わりにおまえからワシに渡してもらう予定だった花束も。無駄だ。全部無駄になってしもうたわ、おまえのせいでな」


「あらそうですか。それは存じ上げませんでした、申し訳ございません」


 平然と答える姫を、グローマル殿下は苦虫を噛み潰したような顔でにらみつける。


「ワシはいい笑いものだ。親戚連中からも、貴族どもからも嘲笑されて。何でこんな目に遭わねばならぬのか」


 そのとき、グローマル殿下の背後の馬車から声が聞こえる。


「もう良いではありませんか」


 それと共に現われたのは白い肌のふくよかな、大きい、黒い大型馬車ですら窮屈そうな赤いドレスの大柄の婦人。ワイラ妃殿下だ。グローマル殿下の隣に立てば、まさに大人と子供。


「済んだことをグチグチと。自らを卑小に見せるのは王家の品格に関わります」

「ぐぬぅ」


 言いたいことはまだあったのだろうか、女房には頭が上がらないのか、グローマル殿下は口をつぐんだ。それを確認してちいさくうなずくと、ワイラ妃殿下はバレアナ姫に顔を向ける。


「でもバレアナも悪いのですよ。いい加減、子供じみた反抗はおやめなさい」

「ならば部屋で一人頭を冷やしてまいります」


 そう言うと姫は屋敷の中に入って行った。下女が数名、無言で付き従う。


 やれやれといった風にそれを見送ると、ワイラ妃殿下は俺に近付いた。


「スリング王子殿下」

「は、はい」


「イロイロと言いたいこともおありでしょう。でも、どうかあの子を、あの子のことだけはよろしくお願い致します。支えてあげてくださいまし」


 そう言って頭を下げる。アルハンや下女たちは驚愕の表情で見つめていた。

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