第5話 すいれん

スイレンは、とても物静かな少女であった。

うなずき、首を振り、指をさす。だれも…世話係の女たちさえも、彼女の声を聞いたことはなかった。

固い針金のようなブルネットの髪を長く伸ばし、それを三つ編みに編んでいる…レンズ越しの顔が歪んで見えるほどに度が強い眼鏡もあいまり、彼女はカミサマに選ばれるために飾り立てる少女たちの中では、とても目立たない存在だった。

そんなある日のことだ。スミレとスズランがカミサマの元へと旅立ち、ナズナが命を絶った頃…女たちの元に、カミサマから次の花嫁の指示が下された。

その指示に、女達は戸惑いを隠すことはできなかった。…もちろん、施設に集められた少女達はみな、どこかひとつ、美しいところを持って産まれた者たちなのだが、この選択には誰も納得することができなかった。


「嘘でしょう…」

「何かの冗談だわ」

「そんな…カミサマが、美しい声の少女を求めてスイレンを選ぶなんて…」

みな、口々に動揺を口にした。

「これは、カミサマの意思です。…スイレンを、カミサマの元へ送る準備をしましょう。」

施設の管理を任されている、白髪の目立つ痩せた女…少女たちに、お母様、と慕われている女が声を上げる。それと同時に女達はヒソヒソ話をやめ、女の指示に従い、目立たない存在のスイレンを世界一美しい少女に仕立て上げるために、ドレスを仕上げ、それに合わせ髪のアレンジを決め、化粧の計画を立てはじめた。


そして、スイレンへとカミサマの意思を告げる役割を任されたのは、つい最近、彼女の世話係についた妙齢の女だった。彼女はモモと呼ばれ、素朴だが愛嬌のある顔立ちで、化粧っ気もなく乱雑に整えた髪を唯一のおしゃれとしてリボンで結んだだけの垢抜けない姿をし、一方的に目立たない存在のスイレンへ共感を覚えていた。

モモがスイレンの元へ向かうために居住区の廊下をエプロンドレスの裾を翻して歩いていると、ふと聞こえた歌声に足を止める。ここ最近、少女たちの間で噂になっているのだ。夜になると、この世のものとは思えないほど…まるで妖精のような歌声が聞こえると。

なるほど、とモモは膝を打つ。たしかにガラスの鈴を鳴らしたような、カナリアのようにゲージに閉じ込めてしまいたくなるような…そんな美しい声だ。

ずっと聴いていたいとも思ったが、仕事の途中でさぼっていては上司に怒られてしまう。モモは急ぐことにした。


「スイレンさん、入ります。」

返事がないのはいつものことだ。

モモは少し間を置いて部屋へ入ると、飾り気のない空間に座るスイレンの、メガネの奥の瞳を見つめ「カミサマに、選ばれました。おめでとうございます。」と告げた。

次の瞬間、にっこりとスイレンは笑った。おそらくこの施設にいる誰もが見たことのない笑顔だろう。

真っ白な肌に、すうっとナイフで切れ込みを入れたかのような切長の瞼が三日月を描き、赤い唇が歪む。その姿は、息を呑むほどに美しかった。施設で一番美しいと言われるアザミに匹敵するほどだろうか…蠱惑的な魅力のアザミとは違い、儚く消えてしまいそうな繊細な美しさだった。

「ようやく、迎えにきてくれたのね」

スイレンの薄い唇が発した声は、先程モモが聞いた歌声と同じ…ガラスの鈴を鳴らしたような美しい声であった。

「スイレンさんだったんですね。…あの、噂になっている歌声…」

「あなただから聴かせるの。…もう、隠している必要もないしね。」

軽やかな声色でそれだけ言うと、スイレンは再び、何も物言わぬ大人しく地味な少女へと戻ってしまった。含みのある言葉に戸惑いながらも、モモは自分の妹ほどに歳の離れた少女の言葉に心を揺らし、静かに惑わされていた。


それからすぐ、スイレンがカミサマの元へ旅立つ日が訪れた。

少女たちは目立たず美しくもないスイレンが選ばれた事に嫉妬し、口々にスイレンを罵った。しかし、彼女は何も気に留める様子もなく、ただ変わらない日常を過ごしていた。

彼女の身支度を整える役割は、希望もあってモモひとりに任されることになった。スイレンのために用意されたドレスを着せ、プランの通りに固い髪を結い上げて睡蓮の花の飾りをつけ、分厚いレンズのメガネを外して化粧を施す。

シルクの光沢を活かしたシンプルなドレスも、彼女の長い手足やほっそりとした身体を彩るには充分すぎるほどで、美しい顔を隠していた髪を整えメガネを外してしまうと、そこにいるのは清楚な花嫁そのものであった。

「スイレンさん、こんなに美しいのならきちんとすればよかったのに…」

「モモ。本当に大切なものは隠さなくてはいけないの。人は醜いものよ。大切なものを表に出しては奪われてしまう…本当に大切なら、渡してもいいものを差し出してでも守らなくてはいけないのよ。…それが、私にとっての顔の美しさ。…声を奪われて、みんなにバカにされる事を選んでも私はそれを守りたかった。」

モモは、はっと、息を呑んだ。

誰も知らないはずなのに。…スイレンは、いつ知ったのだろうか。誰に教えてもらったのだろうか。普通はひとりの少女の世話係は変わることはない。少女が赤ん坊の時に世話係として召し抱えられ、何不自由なく暮らす生活と引き換えに、担当した少女が施設を出る日まで共に暮らす。けれどもスイレンは……自分の前に、スイレンの世話をしていた女性は、どうしたのだろうか?


「モモ。あなたはとても美しい目をしているわ。それを、大切にしてちょうだいね」


思考を巡らせているモモの耳元へ、スイレンが静かに声をかける。

はじめて、彼女が褒められた瞬間であった。


スイレンがカミサマの元へ旅立つ瞬間を、たくさんの少女達が見守った。…そのほとんどが、美しくない、とされていた彼女の花嫁姿を嘲笑う事が目的だったのだが、すらりとしなやかな身体を純白のシルクで飾り、固いブルネットの髪に艶が生まれ、メガネを外した彼女の涼しげな瞳と赤く薄い唇…美しい彼女の姿に、少女達は笑う事をやめ、みな押し黙ってしまう。

そんな少女たちに、スイレンはにっこりと笑って

「それじゃあね、みんな。わたしは一足先に、こんなところからおさらばするわね。」

と、手を振った。


スイレンは無事にカミサマの元へ旅立ち、モモは新しい少女となる赤ん坊を胸に抱いている。

あれから、施設へは妖精の歌声は聞こえない。

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