第三話 頼りにしてる?①

 古今東西、風という自然現象には、人間様に対する遠慮がない。


 あるときは人間が精魂込めて育て上げた大地の恵みを容赦なく土に落とし、あるときは燃え盛る家屋に無用な酸素を送って炎を育て、あるときは洗いたての洗濯物をかっさらって砂粒まみれにし、またあるときは滅多に穿かないフレアスカートを後ろからまくり上げ――。


 騒がしく窓ガラスを揺らす強風に、私は心の中で強く舌打ちをした。……二回ほど。


 ああ、うっさい。

 いま何時だと思ってんのよ!


 多くの人々が『二連休ウェーイ』『花金イエーイ』つって、はっちゃけているという事実は差し置いたとして、それにしてもですよ。


 常識的に考えれば、日本人の大多数は、たぶん……たぶんだけど、寝静まっている時間帯でしょうが!


 それをビュービュー、ガタガタと。やかましい。


 声なき声で毒づいた途端、一陣の風が轟と吹き付けた。


「ひぇえっ!」


 私は涙目になって、両腕で自分の肩を抱き締める。


 夜の学校というのは、どうしてこう、無駄に静かで無駄に暗くて無駄に寒くて、そして不気味なの!


「ああ、もうっ、信じられない。私のバカ」


 金曜日の放課後に、まさか読みかけの愛読書を学校に置き忘れるだなんて――。


 折悪しくも、ページ送りの進捗は究極的山場クライマックス


 ありえない。ほんと、ありえない。


 初めの一話二話を読み進めた程度であれば、月曜日の朝まで我慢できた。


 でもそうじゃなかった。私は既に、折り返し地点から二話三話と読み進め、起承転結の結の直前まできてしまっている。


 鉄砲水に呑まれた主人公が流れ着いた川辺の村で謎の部族に捕らえられ、身ぐるみを剥がされ、逆さ吊りにしてつつかれたりくすぐられたり調べられたりした挙げ句、塩と胡椒と五種類の香草を身体中の穴に詰められ塗り込まれ、今にもローストされかけているのだ。


 助かるの? 助からないの?


 あの作者、主人公も脇役も関係なく登場人物を躊躇なく殺戮するとして有名なのよね。


 しかも大体の死にざまはキョーレツで救いようなし、ああクッソ気……いえ、とっても気になる。これじゃ眠れないわ。


『大丈夫?』


 背中にパリパリの枯れ葉でも流し込まれたかのような不快なもどかしさに悶え苦しんでいると、耳元で聞き慣れた少年の声がする。


 私が学校司書として勤務するこの高校の生徒――藤村ふじむらたけるの柔らかなアルトだった。


「だ、大丈夫に決まってるでしょ。それよりなんで私の番号知ってるのよ」


『ふふふっ、ひみつ』


 スマホの向こうで蟲惑魔的な笑みを浮かべる彼の顔が、私の脳裏によみがえる。


 このガキ。


 どうやら、プライバシーという現代社会において超重要な概念を、爪の先ほども教わってこなかったようね。


 この前はスマホの待ち受け画面を勝手にあの子の自撮り──それがまた、若さを前面に押し出す旬のアイドルみたいにまばゆくて腹が立つのよ──に変えられていたわ。

 

 いやいや、待ちなさいよ。

 パスワードは?

 そもそも私の愛機、指紋認証を採用中なんですけど?


 思い出したら二重に腹が立ってきたわ。


 なぁによあの、月刊誌の表紙でも飾ってそうなキラキラ。あれだけかわいこぶっといて、違和感ゼロとかふざけてんじゃないわよ。


『にしてもさ、深夜零時の学校に潜入するなんて、超怖がりのクセに大胆なことするよね。鍵はかかってなかったの?』


 ごもっともだわ。


 夜の学校、すなわちホラー界屈指のお約束シチュエーション。創作の中でこそテンション上がるし食指も動くというものだけど、現実世界では廃病院やトンネルと並んで遠慮したいスポットである。


 読みかけの愛読書のためでなければ、たとえ愛する家族を人質に取られたとしても絶対に来ない。


「裏口から入ったの。守衛もいないし、ありえないザル警備よね」


 ちなみに、校門は表も裏も閉まっていたため、自慢の美脚でパルクールよろしく華麗に越えさせていただきました。


 先日おろしたばかりのスキニーデニムはまだ少し動きにくかったけれど、さすが私。わりと余裕でいけた。


『俺の感覚からすると、夜の学校に忍び込む大人のほうがありえないんだけど。学生じゃないんだからさあ』


「あ? きさ……貴方、いまオバサン扱いした?」


『してないってば。それより、まだ着かないの? 図書室』


「ええ」


 相手に見えるはずもないというのに、私は左手のスマホに向かって頷いた。


 どこまでも続いているかのような、暗くひんやりした廊下。


 髪の毛同士が摩擦する音すらうるさく感じる静けさに、気付けば自然と息を潜めている。


 さっきまで、あんなに風の音で騒がしかったのに。


 要らんところで要らん雰囲気醸し出してくるの、やめてくれます?


『怖いんでしょ』


「怖くないわよ」


『ごめんね。ついて行ってあげたかったけど、家族旅行中なんだ』


 スピーカーからは、藤村尊の残念そうな声と一緒に、ごうごうと風の音がきこえる。


「こんな時間に、旅行?」


『そ。寝台列車なんて初めて乗ったよ。意外とお客さんいるんだね』


「運賃が安いから、帰省に使う若者も多いみたいよ。寝てる間に移動できるし」


『それって経験談?』


「私は、いつも車で帰るから」


 といっても、最近はあまり帰りたくないのよねぇ。


 帰るたびに玄関で仰々しく出迎えられて、瞬く間に両親と祖父母に囲まれたと思ったら、やれ結婚だ、やれお見合いだ。うるさいったらない。


 去年なんて割と名の知れたメイクアップアーティストとカメラマンが待ち構えていて、危うくお見合い写真を撮らされそうになったわ。


『ねえ、まだ着かないの』


 実家のことを思い出してどんよりしている私を、藤村尊が現実世界に引き戻す。


 現実は現実でも、深夜の校舎をひとり探索するという、背筋の凍るような現実リアルホラーへと。


「……こんなに長い廊下だったかしら」


 裏口から入って五メートルの守衛室を通り過ぎ、理科室、保健室、それから進路指導室に面した角を曲がり、その先の階段を昇りきったところで、この子から電話が来た。


 なにか用事があったわけでもなく、どうでもいい話をし続けて、通話時間は体感でも十分以上。


 その間、私はずっと足を交互に動かし続けている。立ち止まってなどいない。歩行速度は比較的速いほうだ。


『もう二十分だよ』


「そんなに?」


 私の体内時計って、さほどあてにならないみたいね。


 ちょっと信じられないくらいだけれど、私のスマホはいま節電モードで画面表示がオフになっている。


 うっかり通話を切ってしまったりしたらこわ……藤村尊がかわいそうなので、ハードボタンの操作はやめておいた。


 この子が二十分だって言っているのだから、そうなんでしょ。


「ところで藤村くん。貴方、電話料金大丈夫?」


 ふと、未成年のお財布事情が心配になった。


 私が独り暮らしを始めた当初、ホームシックで実家に電話をかけまくっていたら、翌月携帯使用料としてはわりととんでもない額の請求書が来たのを思い出したからだ。


 ま、私はオトナなので、あれくらい痛くも痒くもありませんでしたけど?


『ちょっとヤバイけど、まだ平気。俺基本掛かってくる側だから』


 ちょいちょい自慢を挟んでくるのはわざとなのかしらね。


『それはいいとして』


 不意に、藤村尊のたおやかなアルトがワントーン低くなった。


『のんきに俺の財布の心配なんてしてる場合?』


 やけに真剣な声音だ。


 なんだか不穏なものを感じ、まだ少し湿った皮膚が急速に粟立ってゆく。


『そこ、本当に俺たちの学校なのかな』


 たのむからやめろ。


<②へつづく>

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