第18話 誓い
ガサガサと耳鳴りがする。
神経を擦るような嫌な音だ。
…ステラは体を起こした。微睡んだ片目は暗闇で紅く光る。
何だ…と、ひとり寝言のように呟き、自分の尻尾や爪を見る…爪が伸び、全身の毛が逆立ち、牙が唇に触れている。
攻撃体勢だった。
首を傾げる。何故こんな反応を…寝ぼけているのだろうか。夜の森の中で眠っていた警戒心が制御できずに出てしまっているのか。
伸びた爪で自らを傷つけないように、手の甲で荒く片目を擦る。
…ガサガサ、ガサガサ。
それにしてもうるさい耳鳴りだ。早く止んでくれないか。爪も尻尾もざわざわしてとても眠れない。
布団の中は温かい。体を包むクッションも柔らかくて心地が良い。もう少しで良い夢を見られるはずだったのに。
ガサガサ、ガサガサ…。
いや、耳鳴りじゃない。
音だ。確かに耳に聞こえる音。
草葉の擦れる音。散らされる音。
ぐしゃ、ぐしゃ…食われる音。
びちゃ、べちゃ…と汚らわしい音。
ステラは布団から出て窓辺に向かう。
自分の体に無意識に現れている攻撃体勢は、寝ぼけではなく、確かな本能だ。
乱暴にカーテンと窓を開け、身を乗り出し外を覗く。ステラに与えられた部屋は、ヨツバが育てているたくさんの花が咲く庭を見下ろせる場所だ。
昨日と今日の夕方を思い出す。ヨツバが困っているもの。庭に現れる厄介者。嫌な音。嫌な気配。
そいつは闇夜に隠れ、堂々と花壇に食らいついていた。
上から見えるのは黒い傘…そこから触手をいくつも伸ばし、花を刈り取り、傘の中へ突っ込んでいく。
などと見ている場合ではない。ステラは低く唸り、紅く光る尻尾を掴んで窓から飛び降りた。
猫と魔物の身体能力で、煉瓦の地面にタンと軽く着地し、尻尾から抜いた刈込鋏を掴んで魔物へ突っ込む。
魔物、クラゲのような魔物もまたステラに気づき、数本の触手を伸ばしてくる…先端は刃のようになっており、ステラを取り囲み切り刻もうとする。
刈込鋏を握る手に魔力を込め、向かってくる無数の触手を素早く躱しながら、鋏を振るった。
触手はあっけなく切断される。刃状の部分は鋭くも所詮は触手。ゴムのように柔らかく脆いそれらは、切り落とされると同時に破裂し、泥を撒き散らす。
躱し、切断し…躱し、切断し…。
しかし量が多い。何度切り落としても一向に減らない。その間にもクラゲの魔物は、残る触手で食事を続けている。
バカ正直に一本一本の相手をしている場合じゃない。
食い荒らされた花を見たときのヨツバの落ち込んだ顔が浮かび、花を守ろうとする必死な声を思い出す。
…自分には大切なものなんてない。あったのかもしれないが、今はもう思い出せない。だから、よくわからないが。
よくわからないが。
きっとヨツバ、花売りの彼女は、このたくさんの花たちが大切なものなんだ。生活を支えるもの…自分だけではなく、他者のことを思って育てているもの。昔から受け継がれてきたもの。
何も知らない狂った魔物なんかに、奪われて良いものではない。
だったら。
ステラの瞳はさらに濃く紅く光り、大きく見開き…迫る触手を躱し、強く地面を蹴った。
小さな体は高く跳び、刈込鋏を振り上げ両手で握る。目指す着地点は、黒い傘、クラゲの本体だ。
真上に跳んだステラを、少し遅れて触手が追いかけてくる…落下する小さな体に触手の刃がいくつか擦れるが気に留めない。
ステラは刈込鋏を閉じ、剣のようにして、クラゲの魔物の傘に勢いよく突き刺した。
迫る触手と、花を刈り取る触手の動きは止まらない。心臓部まで達していない。ステラは強く鋏を押し込む。深く、深く、深く、鋏の根元まで。内部で掻き回し、横に引き裂き、心臓部を探す。
そして、ブツリと奇怪な手応えがあった。
一度鋏を引き抜き、もう一度思い切り、そこへ突き刺す。
…途端、大量の泥の飛沫が上がった。噴水の中心から黒い傘はどろどろと溶けて行き、次々と触手も溶け、泥溜まりになる。
汚らわしい泥の雨を被りながらも、ステラは刈込鋏を放さない…刃の先端には腐敗した核が残る。
刈込鋏が脈打つ。紅い毛が逆立ち、ステラは…魔物の猫は、舌舐めずりをする。
すると核は少しずつ縮み、鋏に吸い込まれていく…屍でも魔物は魔物。死んでなお魔力を食らっていた魔物の核は、恰好の魔力補給の獲物だ。鋏から吸収する魔力を、ごくりと喉を鳴らし嚥下する。
ステラだって魔物だ。もしも自分が何も知らない、欲望に忠実な魔物だったなら、この庭の花は確かにご馳走だ。少しばかり食らいたくもなるだろう。
だが知ってしまったんだ。この花が、どんな苦労の果てに美しく咲き誇っているのか。それがたったひとりの少女が成していることだと。それを必要としている者が何人もいる事も。知ってしまった。
この花は、身勝手に摘み取られて良いものではない。欲望のままに食らわれて良いものではない。
ここはあいつの、ヨツバの大切な庭だ。
大切なものだ。
だったら。
今の自分にとっても、大切なものに違いない。
「ステラ⁉︎」
…ビクッとふるえ上った。
今は真夜中だ。純血の者たちは眠る時間のはず…なのに。
花壇の陰から、傘を被り、ランタンを持ったヨツバが顔を覗かせていた。
「何だ…あんた、夜は寝ないのかよ?」
「胸騒ぎがしたの。そしたら、雨が降っていて…でも違ったのね」
傘を閉じるヨツバは、地面に広がった大量の泥を見下ろす。クラゲの魔物の体は、ほとんど
「お花を守ってくれたのね」
「間に合わなかったがな…少し食らわれちまってるよ。すまん」
「いいえ…今までの被害よりはずいぶんましよ。ステラが守ってくれたおかげね」
そういう彼女はランタンで花を照らす。泥の雨に濡れた花は真っ黒に塗りつぶされていた。
ステラは顔をしかめる。
「…すまん。結構汚しちまった。その花は使いものになるか?」
「…そうね。今から洗い流せば、まだ間に合うはず」
間に合うはず…と聞き、ステラはさらに苦い顔をした。
花を守るはずが、結局使い物にならなくさせてしまったのか…心臓が重くなり、手に持っていた刈込鋏は自然と尻尾に戻る。
どろどろの自分。汚い泥を被り、腐敗した魔力の核を食った自分もまた、こんなにも汚い。
触手の刃に切られて出来た傷から溢れる血液も赤黒く、なんて汚らわしい色だろう。
自分だって魔物なのに。何を思って奴らとは違うと言い張る。理性がないから? 欲望に忠実だから?
自分だっていつそうなるかわからないのに。
いつ。
いま。
すぐ。
「そんな顔しないで、ステラ」
穏やかな声。
はっと顔を上げれば、優しく微笑む花売りの少女が居る。
そんな顔、とはどんな顔だろう。ステラは自分の頰に触れ、柔らかさと、ねちゃりとした泥の感触を確かめる。
「貴方のせいではないわ。私の管理が悪いの…もっと上手くやっているひとは、理性のない魔物が訪れないように、ちゃんと魔物除けを行なっているのよ」
「…何で自分を責めるんだよ。悪いのは魔物だろ」
自分だって。
…くす、とヨツバが笑う。
「悪い魔物ばかりではないわ。魔物でも、仲良くしている子も居るのよ」
「貴方のように」
にこり。
優しい眼差しで見下ろされる。
魔物の自分へ。
たった今殺した魔物と、本来何ら変わりない、同じ魔物の自分へ。
花壇を汚したのに。
ステラの耳がぶるりとふるえる。嫌な気分も僅かにあるが、向けられたヨツバの優しい目に、なんだか恥ずかしくなる。
暗くとも若草色の瞳はよく見える…夜目が効くステラには特にはっきりと。
嬉しいが、少し怖い。
「魔物除けが上手くないのも、悪いことばかりではないわ。お花が好きな魔物の子とも出会えるし、なによりも、貴方に会えた」
「よせよ…」
泥でベタつく手の甲を舐める…こんなに汚れている。花壇を守るためとはいえ、魔物を殺した。昨日に続き、今日も。
昨日はそうして、この女を怯えさせたのに。
「怖くないのかよ…」
「怖い?」
「昨日と同じじゃねーか。俺はまた魔物を殺して、花を汚して、こんなに汚れちまってる…昨日、あんたは俺に怯えただろう。同じじゃねーか。怖くないのかよ」
…怖がっているのはステラ自身の方だった。
魔物を殺し、その泥で汚れた自分自身。昨日のヨツバはひどく怯えていた。
だから、昨日と同じだ。
このまま自分は、また彼女を突き放すのだろうか。勢い余れば、昨日のようにまたこの庭を去るだろう。逃げる。あれは逃走だ。
魔物を殺したところで、ヨツバは喜ばない。
花を守ったところで、目の前にこんな汚れた自分が居ては、恐ろしいだけだ。
あの青ざめた顔なんて見たくない。
ステラが…俺が見たいのは。
見たかったのは。
「…後悔したわ」
「……ああ」
「昨日、貴方を突き放してしまったこと、去っていく貴方を止められなかったことを、ひどく後悔したわ」
「……え?」
続いた言葉は、ステラが望み、恐れていた拒絶の言葉ではなく。
ヨツバ自身の事。
「今日、貴方に偶然再会できて、心の底から嬉しかったの。でも、貴方は病院で点滴をされて。一度、死にか……死にかけていたのでしょう?」
「あんたの言いつけを破ったからだ」
「でもそれは、私が貴方を突き放してしまったからよ! 私があの場で、怯えたりなんかしないで、貴方の目を見て、大丈夫と呼び止めていなかったから…貴方に苦しい思いをさせてしまったの」
まただ。
この女はまた、自分より、他者のことを思って声をふるわせている。
闇夜に冷たい風が吹く。さやさやと花壇の草葉が擦れ、静かに囁き…少し湿ったにおいがした。
「だから」
「ああ」
「だからステラ。私は貴方に会えて、本当に嬉しいのよ。貴方が帰ってきてくれて、本当に、幸福なの」
それは望んでいたものよりも、はるかに美しかった。
ステラが望んだ、ヨツバの笑み。
青ざめてもいない。
涙も浮かべない。
美しい笑み。
大人びた顔立ちに、どこか少女らしさを含んだ、純粋な笑顔だ。
───ブツッ…と何かが、頭を過る。
一瞬鋭く頭が痛み、ステラはよろけた。
「ステラ?」
ヨツバの声が遠のく。
視界一面に現れたぼやけた映像が点滅する。
愛らしい少女。猫の純血。幸せだと笑う澄んだ声。満面の笑み。貴方と一緒なら、何があっても…。
その顔が潰れる。真っ赤に潰されて、跡形も無くなって、でもどこか面影が残っていて。
これは何だ。
これは誰だ。
あの屋敷に向かえば助かるはずだった。
あの屋敷を俺は知っている。
この場所を知っている。
ここはどこだ。
あんたは誰だ。
誰かが無感情な声で呟く。
真紅の眼を持つ狼。
ちがう。
漆黒の眼の…。
「ステラ⁉︎」
「っ…⁉︎」
強い声で呼びかけられ、ステラは我に返る。
呼吸が苦しい。
何か、夢幻を見ていた気がする。
たった今のことなのに、もう思い出せない。
「大丈夫?」
ヨツバがステラの肩をさする。
ああ、と呻いたステラの声は、掠れてほとんど音にならない…軽く咳払いをして、もう一度頷いた。
「ああ、何でもねー…自分がやったことに、冷静でいられなかった」
「…だったら、無理に魔物を退治する必要はないのよ。殺さなくても、追い払うだけでいいの」
「そうだな…殺さなくても、か」
魔物の自分には難しい話だ、と項垂れる。
話のし方がわからない。殺さない程度の攻撃がわからない。そもそも、屍の魔物には、言葉など通じず、互いにあるのは殺意だけだ。
「それに、今までは私ひとりだったのよ。多少の損害は問題ないわ。だから、貴方が無理をすることは…」
「俺は守りてーんだよ」
ステラは声を張る。
魔物らしい低い声で。
呪われていると噂される声で。
「俺が、守りてーんだ。あんたの大切なものを。大切な、この庭を」
ゆっくりと、ヨツバの顔を見上げる。
「俺は何も覚えていない。大切なものがあったのかもわからねー…だから、今の俺には何もない。けど」
わからない。
ヨツバが他者を思って感情を動かすことの原理なんて、わからない。
自分のこの感情が何なのか、わからない。
ただ。
ヨツバが哀しむ顔を見るのは嫌だから。
ヨツバが花を見て、笑う姿が見たいから。
だったら、ヨツバの大切なものを守るのが、自分の役目ではないかと思う。
なんとなく。
「なんとなく、あんたの大切なものは、俺にとっても、大切なもののような気がするんだよ」
…目の前のヨツバの顔が少しずつ桃色に染まっていく。
え、とステラは呻き、僅かに慌てた。
「ど…おい、どうした。熱でもあんのか?」
「ふふふ…」
口元に手を当て、静かに、だが抑えられず、クスクスと笑う。なんだ、とステラが呆然としていると、ヨツバはしゃがみ、目線を合わせてきた。
「ありがとう、ステラ。貴方が私の庭師になってくれるのね?」
「庭師…?」
「私の庭のお花を守ってくれるのでしょう? 貴方は優しい魔物ね」
「その言い方は気に食わねーんだが…」
だが、言いたいことは、つまりそれだ。
ステラは、この庭の花を守りたい。
この花たちを守って、喜ぶヨツバの顔が見たい…さすがにそれは言えなかったが。
目の前の嬉しそうな笑み。
初めて貰えた報酬。
なんて言えば少し重苦しいが。
この笑顔を、もっと、もっと、見てみたい。
喜ぶヨツバの笑みを。
「いいのか?」
「ええ」
「魔物の俺が、この庭の花を守ってもいいのか」
「ええ。お願いできるかしら」
「ああ」
ステラが答えると、すっとヨツバが立ち上がる。それから泥で汚れた花を見つめ、家の方を見渡す。
「そうね…だったらまず…」
と、ぽつり、空から雫が降ってきた。
ステラとヨツバは空を見上げる。暗闇で目を凝らせば、厚い雲が立ち込めていた。
ぽつり、ぽつり、続けて雫が落ち、少しずつ数を増やしていく。
「天の恵みね」
「…花の泥は落としてくれるか」
「これから強くなりそう。きっと大丈夫よ」
ぽつり、ぽつり、ぱらぱら…。
雫は雨になる。
水滴が耳にあたり、ステラはぶるりと身体をふるわせる。
「お花の汚れは雨が流してくれるわ。ステラ、貴方はもう一回お風呂に入りなさい」
「…またかよ」
「さあ戻りましょう。風邪をひくわ」
傘を開いたヨツバは、泥で汚れているにもかかわらず、ステラの手を掴み、屋敷の中へと引き返していった。
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