第17話 今までとこれから

『お風呂』というものは恐ろしいものだった。

妙な形をした大きな容器にお湯を溜め、そこに全裸で浸かり温まるもの…とはどこかで聞いていたが、ステラはひどい目にあった。

まず水が苦手だった。飲んだり触れたりするのはどうってことないが、全身浸かってびしょ濡れになり、なおかつそこに留まり、水分がまとわりつく、侵食されるようなあの感覚がどうも嫌いだ。尻尾や髪がべたつき、地肌に張り付くのも気持ちが悪い。嫌いだった。

それでもヨツバが勧めてくるから、我慢して浸かってみようと思った。初めての風呂にも興味があったから…もしかしたら、自然の池や沼などとは感覚も違うのではと期待し、浴槽に入ってみた。

だがステラの身長は低かった。女にしては背の高いヨツバが座って肩まで浸かれるくらいにお湯で満たされている浴槽。ステラが勢い任せに飛び込めば、変な体勢であっけなく沈んだ。

驚いてもがいても、浴槽はつるつる滑り、足がついても立てず、水面まで体を蹴り上げることもできず…耳の奥まで水が入り、ごぼごぼと空気を吐き出し、パニックで大暴れをしているところを、おかしな騒音に気付いたヨツバに助け出された。

異性の前で全裸でいる羞恥を気にする余裕もなく、ステラは喘ぎながら、瞳を真紅に染めて全力で叫んだ。

「二度と入るか、こんなもの!」


×


空き部屋は寝室だった。

傷を覆う包帯をほどき…魔物討伐隊の者たちが使っている、銃に似た機械は、鉛玉ではなく温かい風を吐き出し、ステラの髪や尻尾を乾かしていく。

ドライヤーを扱うヨツバにステラは笑う。

「本当に貴族だな。魔物の俺でも多少は知ってる…カミナリを使う道具は、貴族でなきゃ手に入らないんだってな」

「カミナリ…電気のことね」

「元々の財産はあったんじゃねーか。あんた、わざわざ花売りなんかで生計を立てなくとも生きていけるぜ」

「両親の物はなるべく手をつけないようにしているわ…それに、たくさんあるからと言っても、使っていけば必ず無くなるものよ」

…金銭の話はよくわからないが、使えば無くなるという話は理解できる。

冬場の食料調達は難しいから、木の実や果物は見つけては溜め込んだ。だがいつかは食い尽くしてしまう。食えば無くなるものだ。

ヨツバが花を育て続けるのも、花を摘んで売りに出せば、庭の花なんてあっという間になくなってしまう。そうでなくとも、いかれた魔物に食らわれる。

無くなってしまわないように保ち続ける。

あたりまえの話だ。

「それに…このドライヤーは貰い物よ。定期的にお花を届けに行くお客様が居るのだけれど、そのひとは電気を使う道具を扱うのが得意で、初めてお花を売った時に貰ったの」

「そうか」

カチリ、と音がして風が止まる。

ステラは自分の髪と尻尾に触れる…ジトジトとまとわりついていたのが嘘のように乾き、ふさふさ、もふもふ、さっきよりも触り心地が良くなった。自分の体だが気持ちいい。

着替えも貰った。寝間着という寝るときのための衣服は、昼間に与えられたものよりも肌心地が良く苦しくない。

「ありがとう」

振り返り礼を言う。

…しかしヨツバは、ドライヤーを握ったまま、ぼうっと暗い眼をしている。

「…どうした?」

「え…ああ、いえ、なんでもないの。そのお客様のことで、ちょっと…」

ヨツバはコンセントからプラグを抜き、コードを束ね、ドライヤーを引き出しにしまう。

「そのお客様は…ちょっと魔法の花に頼りすぎているのよ」

「…さっきの、イチゴたちとは違うのか? あいつらだって、たくさんの魔法の花に頼ってるぞ」

「彼はお医者様だから当然よ。でもそのひとはちがう…何と言えばいいのかしら。魔法の花に、依存しているの」

依存…難しい言葉はステラにはわからない。ただなんとなく、その客が良くないことをしている、というのはヨツバの表情で察せた。

「迷惑してるのか?」

「いいえ、迷惑ではないわ。心配なだけ」

…困ったような笑み。

ステラは目を伏せる。

つくづく不思議な女だ。自分のことより他人のことを気にして、泣いたり、表情を曇らせたり…。

だから、やはり引っかかる。

家族の死別を話した際の違和感。

何かが引っかかる。

「ステラ」

「ん?」

ベットを整えながらヨツバが言う。

「この部屋を使うといいわ。お布団は多めにしたけれど、もし苦しかったら、床に置いといて構わないし…暗いのが嫌だったら、このライトをつけていればいいわ。使い方は…」

「いや…なあ」

ベッドサイドのライトの紐を引っ張り、点灯させるヨツバを止め、ステラは苦笑いをする。

「こんな立派な部屋なんか要らねーよ。俺は野良で魔物だぜ。純血のお屋敷で眠るわけにはいかねー」

…半ば強がりだ。

本当はこのふかふかそうなベッドで眠ってみたい。温かいだろうし、誰かに襲われる心配もないだろう。ゆっくり、深く眠ることができるだろう。

だが野良で魔物としてのプライドだ。警戒も解いて、のんびりぐっすり眠るなんて、そんなことをしてしまったら…。

だから、せめてもの抵抗だ。

「物置小屋とかねーのか? 俺にはそっちで眠る方がお似合い───」

「だめよ!」


…ただ寝る場所の提案を止めるにしては、必死すぎる声だった。

キンと耳に響く音に耳をふるわせ、思わず身構えてステラはヨツバを見る。

青ざめている。

「だめよ。物置に行ってはだめ…あそこで寝るなんて許さないわ」

「おい…どうした。何なんだ」

「だめ。だめよ」

ぐしゃぐしゃとヨツバが髪を掻き乱す。瞳は暗く散瞳し、ステラを見ているようで見ていない…頭を抱え、ブツブツと何事かを呟き。

そしてステラの肩を掴んだ。

「だめ。行ってはだめ。あそこに行ったら、貴方はまた‼︎」

「痛い…おい、どうした⁉︎」

ステラが低く、荒々しく、魔物らしい声で怒鳴りつけると…ヨツバの表情に冷静が戻った。

逆立っていたもふもふの耳の毛も落ち着き、ステラの肩を掴んでいた手からも力が抜ける。

はあ、はあ、と乱れた呼吸を繰り返しながら、よろけるようにヨツバはステラと距離をとった。

「ああ…ああ、ごめんなさい。ちょっと、昔のことを思い出してしまったの」

「何だ…物置で何かあったのか?」

じんわり痛む肩を舐めようとするが、舌は届かない…ステラは警戒する眼差しでヨツバを見る。

顔を覆ったヨツバは、呼吸を乱したまま、何も答えなかった。

ステラはため息をつく。

「…そんなに必死になるなら、わかったよ。ここで寝りゃいいんだろ」

「えぇ、お願い。そうしてちょうだい…」

切実な呟きに、呆れにも似た感情でステラは小さく笑う。

「色々あったんだな…」

「…色々?」

「あんたも…あんただけじゃねーか。みんな…過去に色々あったんだな。嫌な事とか、嬉しい事とか、大切な事とか、思い出したくねー事とか」

「…えぇ」

「俺にもあったのかな」

ステラは勢いよくベッドに飛び込んだ。弾力のあるクッションが衝撃を受け、一瞬だけステラを跳ね返す。それからゆっくりと受け止め、沈んでいく。柔らかく、温かい。

「俺にも、嫌な事とか、大切な事とか…あったのかな…何も思い出せねーや」

「それは…つらいわね」

「そうでもないぜ。むしろ幸福かもな。苦しい思い出がないなら、これから気楽に生きられるんじゃねーか」

ごろんと転がり、暗い顔をするヨツバに、ステラはにまりと笑ってみせる。

「なかなか心地いいぜ。有り難くここで休ませてもらうよ」

「…えぇ。どうぞ」

ようやく彼女は、静かに微笑んだ。

微笑み、懐から緑色のアンプルを取り出す。それも少し大きい。

げ、とステラは呻く。

「夜の分は効果が長いから、途中で起きる必要がないのよ。これを飲んでから眠りなさい」

「安らかに眠らせてくれねーのかよ…」

「味は明日までにはなんとかするから、今日だけ我慢してちょうだい」

ぱき、と開封したヨツバがアンプルを差し出す。

渋々受け取ったステラはそれを口に咥え、尻尾をだらんと下げ、ゔーと呻いた。

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