第16話 いつか溶けるもの
止まらないのではないかと思っていた食欲はちゃんと満たされた。
空になった皿を片付けたヨツバが再び戻ってくると、その手にはカップと、ガラスの器が乗ったトレイ…それらを一つずつ、ステラと彼女の席の前に置き、また着席する。
甘い香り。少し花のような香りもする。
真っ白くとろけるかたまりに、薄紫のソースがかかっている。
「デザートよ。ソースにはお花を使ったの」
「…魔法の花か?」
「いいえ、普通のお花よ。少しクセがあるから、苦手なひとも居るの…大丈夫かしら」
「食ってみないとわからねーな」
軽く返答したつもりだが、ステラは新たに運ばれてきた、さっきの食事とはまた違う見た目の料理に、満たされていたはずの腹がまた食欲に疼くのを感じた。
カトラリーの使い方はわかった。スープを飲んだものより小さく、不思議な形をしたスプーンを手に取り、とろけるかたまりを少し掬い、口に運ぶ。
ひんやりして甘い。花のソースは独特な香りだが好みだ。
…美味しい食事にすっかり絆されていたが、心底の疑念はまだ消えない。食事で満たされた腹の重みとはまた違う、黒い靄が胸をいっぱいにしている。
疑いがあっては、この料理の本当の美味しさは味わえないだろう…ステラはアイスクリームを食べる手を止め、ぽつりと訊ねる。
「家族が死んだと言ったな」
「ええ。さっきも言ったように…事故で」
「何で、そんな簡単に話せるんだ」
「簡単?」
カチャ、とスプーンとガラスの器がぶつかる小さな音…ヨツバが不思議そうにステラを見つめる。
ステラは俯いたまま、瞳だけを彼女に向ける。
睨みつけるようにして視界に映せば、何もわかっていないような純粋な眼差しがそこにある。
まるで死に無関心のように見えて。
家族の思い出など何もなかったように見えて。
ざわざわする。
「…あんたは、家族と仲が悪かったのか」
「まさか。とても優しくしてもらったわ」
「じゃあ何故だ」
…ヨツバがきょとんとしている。何を言っているのかわからないというように、そんなステラの心中をどうにか知ろうとしているように、だがやはりわからないというように…きょとんと、こどものように。
ステラはため息をついた。
「魔物の俺が言うことじゃ…いや、魔物だから言うんだが…死に無感動なのは俺ら魔物だけだ。純血のあんたらは、他者の死を悼むものだろう。それがあんたにはどうも感じられない」
「……」
「俺は野良だから、家族ってのの記憶もほとんどねー…だが、血が繋がっていて、常に側に居た奴らだろ…思い出して苦しくないのか。普通なら、話したくないと思うんじゃないのか。こんな風に問い詰められて、嫌な気分じゃないのか」
…無意識に語調は荒々しくなっていた。
自分は他者の死になど無感動なのに。そもそも、失って嘆く相手すら居ないというのに。
必死になった。
ヨツバが『魔女』でないことを祈りたくて。
彼女にはちゃんと、純血らしさがあることを願って。
…どうしてそこまで願うのだろう。
ステラはいつの間にか髪や尻尾をを逆立てていた。
…小さなため息が聞こえた。
「貴方は優しい魔物ね」
「は…」
穏やかな声色に顔を上げれば、困ったようなヨツバの笑み。若草色の目を細め、温かい眼差しをステラに向ける。
「きっと貴方は、私の家族の死を、私以上に悲しんでくれているのね。ありがとう」
「…悲しんでるわけじゃねー。俺は、あんたが…」
「そうね…私は少し、心を失っているのかもしれないわ」
心を失っている。
そう呟いたヨツバは俯き、胸に手を当てる。
「私は、家族が死んだと知ったとき…それを悲しいと思う前に、これからどうしたらいいんだろうと思った。悲しむ余裕なんてなかったの」
ヨツバが顔を上げる。
「…なんて言ったら、言い訳かしら」
「いや…その頃のあんたは、花売りじゃなかったのか?」
「当時は…当時は、母が。私自身が花売りになったのは、それからしばらく経ってから。魔法の花に触れたのも初めてで、生活をするお金を稼ぐのに必死で…お手伝いさんも居たのだけれど、彼らを雇い続けることも難しくなって」
「悲しむことができなかった?」
…静かに訊ねれば、ヨツバは小さく頷いた。
「思い出せばもちろん悲しくなるわ。けれども、ちゃんと悲しむことはもうできない…私はみんなの言う通り、魔女になってしまったのね」
「よせ」
低く、強く、ステラは制止した。
魔女。
それはきっと罵倒だ。魔物を悪い奴だと言って襲いかかってくる連中のように、得体が知れないものを忌まわしいと決めつけて攻撃する言葉だ。
だから。
「よせ。あんたは魔女じゃねー。今の話を聞きゃわかる…じゅうぶんな」
生きることには優先順位がある。
生きること。食事、睡眠、それを安心して出来る環境、生活。生活を行うための物。それを手に入れる稼ぎ。
純血の生活は複雑で難しい。魔物で野良のステラにはわからないことも多いが、たったひとつだけ、ヨツバを理解することができた。
「いつまでも、悲しんじゃいられねーのか」
ひとの死をいつまでも引きずっていては、生きることなどできない。生きているからには、悲しみを胸の内に留め、前を向いて生きなければならない。
「悲しむばかりが正しいわけじゃねーんだな…」
他者の死への感情を知らないステラは、ひとり頷き、にまりとヨツバに笑った。
「なんとなくわかったよ。悪かったな。疑っちまって」
「いいえ…むしろ、貴方はとても優しい魔物だとわかったわ。魔物らしくないくらいね」
…なんだか魔物である自分を否定されているような気分で、すっきりしたはずの胸に、また靄がかかったような気がするが、それほど悪い気はしない。
ヨツバがくすりと笑う。
「ありがとう。私を…魔女と呼ばないでくれて」
「…ああ」
「私の家族のことも、心配してくれてありがとう」
「…ああ」
「ありがとう」
「…ああ」
繰り返されるありがとうに、なんだかはずかしくなって…ステラはもう一度スプーンを手に取り、アイスクリームを見た。
とろりとしていた塊は、ほとんど液状になっていた。思わず『え?』呻いてしまう。さっきまでの可愛らしい丸みはどこへ行った?
くすくすとヨツバが笑う。
「ほとんど溶けてしまったわね」
「溶ける…溶けちまう物なのか?」
花のソースと混じり、薄紫のミルクが器を満たしている…それを少しスプーンで掬い、口に運ぶ。
味は変わらず、美味しいアイスクリームだ。
器から直接、飲み物のようにアイスクリームを啜るステラを見つめ…ヨツバはこっそりと、暗く目を伏せた。
重ねていく。
いくつも。何度も。何重にも。
嘘を重ねていく。
ステラから奪ったもの。
自分の家族の末路。
きっと今の彼には、自分は清らかで、憐れな女に見えているだろう。魔女と呼ばれて正しい自分を、切実に、魔女ではないと言ってくれたから…。
いつか本当のことを言わなければならないのだろうか。それを話したなら、ステラは自分をどう思うだろう。
軽蔑するだろう。
嫌悪するだろう。
憎悪するだろう。
忌避するだろう。
そんなの嫌だ。せっかく一緒になれたのに、また離れるだなんて…嫌。
だって、このひとは帰ってきたんだ。ここはこのひとの居場所なのだから。
そうだろう?
だから、お願いだから。
本当のことを話す日なんて、永遠に来ないでほしい。ずっと、ずっと嘘をつき、このひとを欺き続けるんだ。
そうすれば、もう二度と、居なくなったりしないでしょう。
あの子のように。
…ヨツバは、溶けたアイスクリームと花のソースをくるくるとかき混ぜる。ミルクにソースがからまるマーブル模様は、どろりとした自分の胸の内を表しているように見えた。
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