第15話 魔女の食事

…視界がぼんやりしている。頭が働かない。体を受け止める柔らかいクッションの感触。もう何度目だ。

…口の中の苦味だけが確かだ。血の味ではない。草葉や土の味に似ている。体は痛まない。

ステラはゆっくりまばたきをし、体を起こして周囲を見渡す。

窓の外の空は漆黒の暗闇。すっかり夜だ。

眠っていたのか…だがどれくらいだ。

ヨツバがいない。

声をかけられただろうか。彼女はどこへ行くと言った…覚えていない。

ぞわ、と不安になる。

今までのことは全て夢だったのか。

ヨツバという花売りの少女とは会ってもいない…全て想像で、捏造で。今目を覚ました自分は、怪我を負ってここに寝かされていた始めの自分で。だったらこれから出会うのは…これから出会うのが…。

不安になり、ステラは自分の顔と、失った耳に触れようとした…その時。

「ああ!」


澄んだ声がキン、と耳に響いた。

ステラは、はっと声のした方を見ると、若草色の髪と瞳の少女が立っている。思わず身構える。彼女は自分が知っている彼女なのか。それとも…。

少女はにこりと笑った。

「目が覚めたのね、ステラ」

ステラ。

その名を呼ばれ、ステラは肩の力を抜いた。

よかった。夢じゃない。昨日のことも、今日のことも、すべて現実だ。ヨツバはここにいる。よかった。

逆立っていた髪や尻尾がへなりと落ち着くのを見たヨツバが、不思議そうにステラを見る。

「夢を見たの?」

「いや…夢じゃなくてよかったよ」

よくわからない。ヨツバは首を傾げるが、ステラの安心しきった様子に胸が温まり、くすりと笑う。

「夕食を作ったの。一緒に食べましょう」

「ゆうしょく?」

耳慣れない言葉に、今度はステラが首を傾げる番だった。

───いや、いつかどこかで聞いた言葉だ。


×


部屋を移動し、中央に大きなテーブルが置かれている部屋に入る。真っ白なテーブルクロスがかけられ、その上には、さわやかな香りの花が挿さった花瓶がある。

席はいくつもある。この屋敷には他の住民が居る様子はない…客人を招くことも、招こうとしてもできないはずだ。

「あんた、家族は…」

「死別したわ」

あっさりと返される。

死別なんて言葉を、何の感情もなくあっさりと。

一瞬、ステラは息を詰まらせる。

くすりと、続けてヨツバが笑うから、ステラは尻尾を逆だたせた。

向けられる笑み。

「このテーブルも受け継いだものよ。昔はたくさんのお客様を招く機会も多かったらしいの。今は見栄えばかりで、こんなに席があっても誰も座らない…寂しくなるだけね」

眉を下げ、寂しげに笑む。

ステラはそれを信用できない。

聞きたい話はそんなことではない。今ヨツバは、もっと重要なことを言っただろう。その寂しげな顔は、ただ席が空いていることに対してだ。家族の死別に関しては、何故無感情なんだ。

死に無感動なのは魔物だけのはずだ。

あんたは。

「好きな席に座ってちょうだい。すぐに食事を持ってくるわね」

「なあ、あんた…」

呼び止める声は戦慄し、ひくっと裏返る。

ステラのそのおかしな声に、振り返るヨツバは心配の表情を浮かべていた。

「どうしたの」

「…あんた、家族と死別したって」

ステラが低く問いかけると、ああ、とヨツバは、初めて思い当たったように声を上げ、胸に手を当てる。

「えーと…数年前、旅行の際に大きな事故に巻き込まれて…心配してくれたのね」

ありがとう…ヨツバは微笑み、奥の部屋に入って行った。

ステラはぞわりと青ざめる。

ようやくヨツバを信じることができたのに、今の様子は何だ。まったく感情がない。心配してくれてありがとう…などと見当違いな言葉が余計に恐ろしい。

魔女。

過ぎる声。

魔女。

「チッ…」

…大きく舌打ちをしたステラは、適当な席の椅子を乱暴に引っ張り出す。

考えるな。考えたくない。ようやく居場所が手に入った。ようやくひとを信じられるところなんだ。わけのわからない違和感で、何もかも台無しになるなんて御免だ。

嘘をつかれているとしても、事実ヨツバが魔女なのだとしても…ならば自分は魔物だ。魔女も魔物も似たようなものだ。

仮に彼女が自分をどうかするとしても、やられる前にやってやる。

…出会って初めの感情が再び浮き上がり、ステラはぐ、と喉元でえずくのを堪えた。

運ばれてくるのは、魔女の食事かもしれない。


×


テーブルに並べられた食事は果実や穀物がほとんどだ。

肉食は許されない。過去に食用にされていた牛や豚、鳥の原種は、時が経ち、その純血のひとびとによって命を守られるようになった。

未だ魚や虫の種族たちは守りが薄く、食らわれたり、殺されたりはするが、基本的に殺傷は許されない。

ひとの世界は、全ての命を大切にしている。

肉食は魔物の所業だ。

「少し物足りないでしょうけど…穀物でも、お肉に近い食感を出すことができるの。お口に合うかしら」

ステラの向かいの席にヨツバは座る。

ステラは食事を前に…見たこともない豪華な料理に驚きながら、不信感に殺気立っていた。

ヨツバが何を考えているかわからない…家族を失っても平然としていられるなんて、純血として普通ではない。

そんな女が作った食事だ。

何が入っているかも。

毒が入っているかも。

わからない。

だが…疑心暗鬼に反し、ステラの喉はごくりと唾を飲み込んだ。

料理。調理された食事なんて初めて見た。初めて見た物なのに、本能が気づいている。これはきっと美味しい物だ。自然の熟していない果実や生臭い虫などとはちがう。絶対に美味しい。

例え、ヨツバが悪意を隠し持ち、悪い物を仕込んでいるとしても…魔物本来の欲求が溢れる。

くす、と…向かい側のヨツバが笑う。

はっとして体を強張らせるステラの手の甲に、ポタリと生温い雫が落ちた。口元を伝う液体。

思いきりよだれを垂らしている。

「ふふ…まずはお口を拭いて、それから食べるといいわ」

「…みっともねーな」

ヨツバから差し出されたナプキンで乱暴に口を拭い、ステラはもう一度料理と向き合う。

…魔女の食事だとしても。

手を伸ばす。

すると。

「待って!」

…ヨツバが止めた。

止められた。ステラは身構える。

やはり何か入っているのか。こいつの性格のことだ…いざ毒物を口にしようとする者を前にして怖気付き、正直に白状するのかもしれない。

構える。

そうだとして、許せるか。

また信じることができるか。

じっとヨツバを見ていると…。


ナイフを差し出された。

ステラの髪や尻尾が逆立つ。

ナイフ。

刃物。

武器?

「何のつもりだ」

「何のつもりはこっちのせりふよ」

吊り上がった眉。強い眼差し。

彼女の意図が察せない。

ステラは身構えたまま、尻尾に手を伸ばす。本能的な臨戦態勢。瞳孔が紅く光る。

…するとヨツバの表情は、きょとんと呆けた。

「…もしかして、食べ方がわからないの?」

「食べ方?」

ステラもきょとんとする。

お互い、しばらく呆然と見合った後、ヨツバはナイフに続いて、フォークを差し出した。

「カトラリーというの…食事はこれらを使って、切ったり、刺したり、掬ったりして口に運ぶのよ。手で食べるのは、この中ではパンだけよ」

「かと……?」

わけがわからず、ステラはナイフとフォークを見つめ、自分の席を見る。同じ物が置いてあった。

ヨツバの手に握られた形と同じ物を見つけ、手に持ってみる。金属の冷たい感触は、尻尾に仕込む刈込鋏の刃と同じくらい冷たい。

どう見ても武器だ。

「…どうするんだ」

「こうするのよ」

ヨツバはゆっくりと、淑やかな動作で、穀物で作られた肉に似た物にナイフとフォークを当て、小さく切る。

見よう見まねで、ステラもナイフとフォークを料理に当てる…初めて使う物だ。持ち方もわからず、ぎゅっと握りしめ、力任せに料理にナイフを刺す。当然切れない。

「ステラ」

「あ?」

呼ばれてヨツバを見れば、細かく切った料理の皿を、ステラに差し出している。

「食べやすくしたわ。そのお皿と交換しましょう」

「…いいのか」

「ええ。そっちをちょうだい」

ヨツバの皿を受け取り、ステラは自分の皿を彼女に手渡した。

きれいに刻まれた肉もどき料理。細かくされても、なお美味しそうに見える。

…そして気がついた。

皿を交換した。今こちらにあるのは、ヨツバが食べるはずだった料理で、彼女の席にあるのが、ステラが食べるはずだったものだ。

毒物は交換された。それとも、もともとこの予定だったのだろうか。

魔女の料理。

魔女の企み。

目の前の女が、交換した皿の料理を口に運ぶ。

それを見れば…もう我慢できない。

ステラは左手のフォークを、一切れに乱暴に刺し、口に入れた。

「───んぐっ⁉︎」


舌を中心に、手足の指先や頭のてっぺんまでしびれが走り、心臓と肺がふるえたのは、毒物のせいだと、一瞬疑った。

しかしちがう。

じゅわり、と広がる塩気とスパイスの香り。辛味にも似ているが、どこか円やかで、舌がとろけるようだ。油分と唾液が混ざり、一層その味が口いっぱいに広がる。

ありえない。

想像も追いつかない。

美味しい。

たった一口で幸福になる。

魔物の肉なんて比較にならない。

ごきゅり、と喉を鳴らして飲み込む。

ステラはカタカタとふるえる。

食欲が刺激され、口の中に唾液が溢れる。

「美味しい?」

…すでにステラの様子で気づいているのだろう。嬉しそうな声でヨツバが訊ねる。

返答なんてできない。

初めて口にする美味しい味に、ステラは喋る暇も惜しみ、また一切れにフォークを刺し、口に運び…頰を染め、青い瞳と紅い瞳孔を、純粋にキラキラさせた。


その幸福そうな、生き生きとした様子にヨツバは安堵する。本当は死んでいるだなんて、忘れてしまいそうだ。


「ステラ、サラダやスープ、パンも食べるのよ」

「ん…」

さらだ、すーぷ、ぱん…どれが何のことだかわからないが、植物の葉に甘酸っぱい油がかかった料理や、甘塩っぱいとろりとした液体や、ふかふか柔らかい、手で食べてもいいという不思議な塊…どれもこれも美味しかった。

毒物なんて入っていなかった、と思いたかったが、ある意味では毒物だ。美味しくて、美味しくて、もっと食べたくなって止まらない。

魔女の食事は恐ろしい。

幸福感で満たされ、溺れて、死にそうだ。


初めてだ。

初めてのはずだ。

でも何だろう。どこかで、似たような幸福を感じたことがある気がする。

しかし、薄らとした記憶は、次々口に運ぶ新しい味に上書きされ、再びどこかへ沈んでいった。

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