第14話 橙と青

崩れた煉瓦の道も、ほとんど跡形もなくなりかけた頃、猫、ステラの鼻を、新たな甘い香りがくすぐる。

昨日嗅いだ花のにおいが懐かしい…しかし、もっと昔から知っていたような気もする。不思議な気持ちだった。

花売りのヨツバは、道が途絶えても、ステラの手を引きすたすたと歩みを進めた。自分の家に帰るだけ。彼女にとっては慣れた道。日常の道だ。


そうして、ヨツバに導かれるまま歩き続けると、目の前に、植物の蔦が絡まった、古びた鉄格子の門が現れた。隙間から見える大きな花壇は、確かに昨日見た庭だ。

「門から入るのは…初めてよね」

「…当たり前だ」

「ここが私の家よ」

ヨツバが門に手をかける。ギシギシ、キイキイと、半ば錆びて軋む甲高い音が少し耳障りで、ステラは顔をしかめる。

まるで廃墟の入り口ようだ。中はあれほどきれいなのだから、修理くらい頼めばいいのに…と考えてから、医者のイチゴから聞いた、彼女が街で何と噂されているかを思い出し、声に出すのはやめた。

門から中へ入れば、広い庭一面に花壇が並び、色とりどりのたくさんの花が咲いているのがはっきりと見える。ステラは改めて感嘆する。

「あんた、これだけの花を全部、ひとりで育ててんのか」

「ええ」

「行き届かない場所もあるんじゃないのか」

「全てきちんと育てているわよ」

ヨツバは花壇に近寄り、花を確認しながら、楽しそうに話す。

「お世話をするのが楽しいの。お花だけではないわ。自分の身の回りの事や、さっきの…イチゴ先生たちに、お花の事を教えるのも好き。他人の手を借りる方がちょっと苦手ね」

「…そうか」

本当に変わり者だ…きっとその言葉に嘘はない。

だが、やはり他人の手を借りる事は、苦手と言ってしないより、出来ないというのもまた事実に思える。

変わり者だ。

魔女だ。

…もやもやする胸を押さえながら、ステラがため息を吐いていると、ああ…とヨツバが嘆息した。

「…やっぱり、だめね」

「どうした」

訊ねながら、ステラはヨツバの側へ行く。

彼女の前の花壇の一角は、泥まみれになり、花びらや葉っぱがちぎれ、散らされていた。

昨日のように、魔物に食い荒らされてしまったのだ。


×


屋敷の中へ入れば昨日の記憶を思い出す。

広い玄関…出て行くときのことは覚えていても、入った時のことは覚えていない。傷ついた自分を、ヨツバは中へ運んだのだろう。だから本来、ここを見るのは二度目のはずだ。

「どうぞ」

と手を差し出し、ヨツバはステラを招く。中へ入ったのだから、もう道に迷うことはないだろう…ステラはその手を取らず、ヨツバの側へ歩み寄る。

確認したヨツバは、ゆっくり歩き出す。

階段の左側の部屋に入る…そこもまた記憶にある場所だ。

昨日、ステラが目覚めた場所。広い部屋に、古くも高価そうなテーブルやソファが置かれ、壁際にも雑貨が並んでいる。ガラス棚の中の食器類、壁に掛けられた絵画、陶器の置物。それから暖炉。

「いい趣味だな」

「…嫌かしら」

「皮肉じゃない。本当にいい趣味だ。好みだぜ」

「ありがとう…ほとんどは、先代から受け継いだものや、頂き物よ。その棚の中の食器は、使ってはいけないと教わったわ」

「何故だ」

「わからないわ…勿体無いわね」

ため息をついたヨツバが、大きな窓の方へ歩いて行く。

大きな窓の向こうは庭だ。ヨツバが育てているたくさんの花がよく見える。夕日のオレンジが窓に反射する…少しだけ夜が混じり、濃い青が侵食する空に寂しさを感じる。

今日が終わる。

ヨツバがカーテンに手をかけた。

「閉めちまうのか?」

「え…?」

ステラの問いかけにヨツバが振り返る。

問いかけてから、ステラはほとんど無意識に声に出していたことに気づき、目をそらした。

「わりぃ…何でもない」

「お外が見えないと不安なのかしら」

「いや…不安というか」

不安だ。

カーテンを閉められると、少し息苦しく感じる気がする…屋根の下に縁のないステラは、空や周囲が見えないことに若干の不安があった。

敵が見えないこと。

時刻を確認できないこと。

野良の生活と比べ、ひとの生活は安全なのだろうが…大きな死角があると反射的に警戒してしまう。

頰を掻くステラをヨツバは見つめ…その紅色の尻尾が、本人の無意識で逆立っていることに気づき、引いたカーテンをもう一度畳んだ。

「そうね。たまには、お空が時間をかけて夜になるところを眺めるのもいいわね。それに、お花を食べに来る魔物が現れても、すぐに止めに行けるもの」

「ああ…すまん」

ステラの気持ちを汲んだことは、ステラ自身にも伝わった。

低く謝罪したステラは…少し息苦しさを感じていた。カーテンを閉めるのを想像したから?

いや…。

「ステラ、そろそろこれを」

「…ああ」

タイミングよく、ヨツバが緑のアンプルを差し出した。ステラは少し渋りながら受け取る。

口に咥えれば…体は楽になるが、気分は最悪だ。

「なあ…味のことなんだが」

「ええ。なるべく早めに改善するわ」

真剣な声を返された。そうしてほしい。

良薬なんたら…飲まずに死ぬより、薬の不味さで死にそうだ…。

窓の向こうの空は、ゆっくりと暗くなっていった。

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