第11話 帰り路

イチゴの点滴と、花売りのアンプルのお陰で、猫はすっかり回復した。痛みや吐き気、息苦しさなどは嘘のように感じない。

それでも胸に何かが痞える感覚がある気がするのは…自分の本当の姿が『死にかけ』であるという事実を知ってしまったからだ。

花売りが治療のために使った魔法の花の効果が完全になれば、自分は死にかけではなくなるのだろうか…希望を抱くも、昨日花売りは『薬は今後永遠飲め』と言った。本当の自分の姿が死でなくなることは…ないのかもしれない。

花売りの少女が花売りらしく、イチゴと売り買いのやり取りをしている間に、猫はアケビから衣服を渡された。花売りから渡された衣服…出血と血反吐にまみれていたと聞いたが、汚れは付着していなかった。

「まったく…貴方が魔物だったのなら、こんなもの触りたくなかったのに」

「あんたは荒っぽい性格の割に、生真面目だな…ありがとよ」

「褒められても嬉しくないわよ。貴方は魔物なんだから」

嫌悪の目で睨み返されるが、猫は嫌な気分にはならない。猫を魔物だと忌避しても、アケビが心底から軽蔑し、差別することはないと、この短い時間で知った。

鼻で笑えば、またきゃんきゃんと騒がれるだろうから、猫はシャツを被り、布の内側で小さく笑う…が、鼻腔に洗剤の甘い香りが入り込み、大きくくしゃみをした。

花売りの周りは甘い香りばかりだ。猫には縁がない優しいにおい。

湿気や汚水の、生温くべたつくような重い空気しか知らなかった。

世界はこんなに甘ったるかったのか。


───…いや、初めてではない。

いつか、どこかで、この甘い香りを知っていたはずだ。それは夢で見た見知らぬひとが纏っていた香りだったか。

思い出せない。


「では、また何か必要なものがあったら、連絡をください」

「ああ。まあ、これだけあれば、ひと月は持つがな」

仕事が終わり、花売りは猫の側へ来る。

猫はコートを羽織りながら、複雑な眼差しを花売りに向ける…目を見ようにも見られない。彼女が何を言い出すか予想できた。

「猫くん」

「……」

「もう一度、私のお家に来てくれないかしら…」

猫は答えない。

本当はすぐに頷きたかった。

だが、どうしてか恐ろしかった。

また、あの温かい場所へ戻ることができる機会を得ていること。甘い香りに包まれて、柔らかい場所で眠ることができる夢が叶う…しかし、そこへ行ってしまったのなら、もう野良としての生活は不可能だ。戻れない。戻ってこれない。

猫は呻き…必死に自分へ抵抗し、夢に甘える心を捩じ伏せた。

「…言っただろ。俺はもう、戻ることは」

「いい加減にしなさい!」

きゃんっ、とアケビが吠え、猫の肩を掴む。

驚いて目を見開く猫の顔に迫るアケビの手。

猫が思わず体を強張らせると…。

アケビの手は、猫の包帯留めの花飾りに優しく触れた。

「貴方は、本当は温かい場所に居たいんでしょ…嫌でもわかっちゃうわよ。まったく」

犬の種族は、他者の心を理解する力がひと一倍優れているという。

観念しろ、とイチゴが笑う。

アケビに頭と右腕の花飾りを直されながら、猫は葛藤する。

素直に甘えたい。だが素直になれば、今までの自分が崩れてしまう気がして怖い。

「イチゴ先生に手当をしてもらって、ここで眠っていた貴方は、とても安らいだ顔をしていたのよ。でもここは病院。ここのベッドは、具合が悪いひとの為のもの…魔物の貴方の眠る場所ではないの」

その言葉には矛盾点がある気もしたが…アケビもイチゴも、猫が花売りに同行することをすすめてくる。猫にはわからない。

「何であんたらが急かしてくるんだ」

「だー、また何故かよ!」

イチゴが頭を掻き回し、猫の背後に回り、その背中を花売りに向けて思い切り押した。

よろけた猫の体を花売りが支える。

「お前が羨ましいよ! 僕の憧れのそのひとの家に招かれてんだぞ。断る理由があんのかよ。つべこべ言ってねーで、そのひとについて行け!」

ほっぺを真っ赤にして喚くイチゴの隣で、アケビも猫を睨みつけ…だが、花売りには、柔らかく微笑んだ。

猫もつられて花売りを見上げる。

見下ろす若草色の目と目が合った。

「…猫くん、一緒に行きましょう」

静かに囁かれる。

優しさに隠された寂しげな声音。

鈍感な猫はそれに気づくことはないが。

イチゴとアケビに、なんだか凶暴な目で見られていては、もう断ることはできなかった。

それでも素直には頷かず。

「…いいのか」

卑怯な問いかけで答えると。

「ええ」

花売りは頷いた。


荷物を纏めた花売りが、病院の玄関先で一度、イチゴに振り返る。

「イチゴ先生…遠慮せずに、いつでもうちにいらしていいんですよ」

「あー…ああ。そのうちな」

羨ましいと言っていた割には、イチゴの返答はぎこちないものだった。

猫はそれを聞きながら、さっきイチゴから聞いた話を思い出す。

花売りは、自分をこうして助けたように、純血も魔物も差別なく助ける変わり者だ。だから、ひとびとから『魔女』と呼ばれている。

イチゴたちはそれでも良いのだろうが、周囲から見れば、魔法の花の購入は許されても、花売りの元へ行くのだけは許されないことなのだろう。

それを察してか、花売りも薄い笑みを浮かべていた。

「じゃあ、また」

「はい、また」

「お前さんも、今度はただ遊びに来ても良いんだぞ。そっちのチビ猫もな」

チビ猫…同じくらいの身長だというのに。

耳をふるわせた猫はイチゴを睨み返そうとしたが、病院のドアはすぐに閉ざされた。


外は夕方。

昨日、花売りと会った時のような、橙色の空。街中に並ぶ建物が夕日に照らされ眩しい。その下で、たくさんの純血のひとびとが、買い物をしたり、会話を楽しんでいたりする。

純血ひとの世界。こんなに明るく、温かく、賑やかな世界で純血は生きているのか。

猫は唇を噛んだ。ここは魔物自分が居ていい場所ではない。魔物の世界はもっと薄暗く、寒く、汚れ、孤独で殺伐とした所だ。ここに居たらおかしくなる。

コートを纏った猫は尻尾を隠した。誰も猫を魔物だと気づくことはない。

だが、この異様な怪我に注目が集まれば、きっと疑われる。いっそそのまま、この賑やかな街から追い出してほしい。それとも、そんな生易しさもないままに、討伐されてしまうのだろうか。

猫がぶるぶると頭を振ると、小さな手を花売りが握った。

「大丈夫よ。みんな良いひとたちだから」

「…別に、怯えてなんかいない」

嘘だ。とても怖い。

花売りがクス、と笑う。

「そうね…今日はお買い物の必要はないわ。まっすぐお家に帰りましょうか」

「…帰る、って何だ」

帰る場所なんてない。

猫には『帰る』場所はない。

だから『帰る』を知らない。

これから向かう花売りの屋敷は、訪れるだけの場所だ。嫌でも『戻ってしまう』場所だ。

だが、花売りは猫に微笑んだ。

「帰るのよ、猫くん。貴方は、私のお家に住むの…それは嫌?」

「……別に」

嫌ではない。

と、ぶっきらぼうに答えを返しながら、猫はコートの下で、嬉しさに尻尾を振る。

さっきイチゴが言った…断る理由などない。それを言い訳にして、自分の甘い夢に、素直に喜んだ。


そういえば、と…猫の頭に、病院のふたりの姿が過ぎる。猫は花売りを見上げた。

「なあ、あんた…」

「なに?」

「なまえ…何て言うんだ」

イチゴとアケビが、お互いを呼び合っていた固有の言葉。しかし、あのふたりが猫の前で花売りの名を出すことはなかった。

だから、興味本位でたずねる。

花売りは、ああ、と唇に手を当ててから、やがてまた、にこりと笑った。

「改めて自己紹介するわね。私はヨツバよ。花売りのヨツバ。よろしくね」

「よ、つ、ば…」

ヨツバ。

ヨツバ。

猫は低く何度も繰り返し、指を折りながら呟き、記憶する。ヨツバ。大切な名前。花売りの名前。ヨツバ。

…なんだか懐かしい響きのような気がする。

「猫くんには」

「あ?」

「猫くんには、お名前はあるのかしら」

「俺の名前…」


問われて、フラッシュバックする記憶。

いや、夢だろうか。

知らない少女が空を指差す。暗い夜空にちらちらと輝く小さな粒。あいつはそれを俺の名だと言った。俺に、その名を付けてくれた。


「ステラ…」

「ステラ?」

「ああ。俺の名前は、ステラだ」

初めて名乗った自分の名は、どうもしっくりこない。まるで他人の名前を声に出したかのように、意識と言葉が一致しない。

ステラ、と呟いた花売り、ヨツバが頷く。

「ステラ…良い名前だわ」

その言葉に嘘はない。

しかしヨツバは、どこか期待外れのような目をしていた。

ステラはやはり、そんなことには気づかず、ただ、夕の日差しに照らされ、風に髪や衣服を靡かせる彼女が美しいと思っていた。


夕空の下を歩き、街を出る。

整備された煉瓦の道は少しずつ形を崩しながらも、なんとか標になる。そこを進めば帰る場所にたどり着く。

ふたりは森の中へ入っていった。

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