第9話 再会
「ところで…」
アケビに乱された髪や衣服を整える。
点滴の管がささる手の甲を少し不快に思い、ガーゼとテープ越しにぺろぺろと舐めながら、猫は気になっていたことを二人に訊ねた。
「…あんたら、どうしてこんな簡単に俺を助けた。俺を見て何も思わなかったのか」
「…どういう意味よ。まさか、イチゴ先生がしてくれたことを、大きなお世話だって言いたいの?」
「いや…俺は、明らかに妙な奴だろ」
頭の違和感。
花売りが付けた花飾りはそのままだが、包帯は新しいものに取り替えられている…だったらこいつらは見たはずだ。自分の片耳と片目がないことを。
第一印象は最悪だっただろう。
それに加えて外見に似つかわしくないこの声だ。普通なら忌まわしく思って遠ざける。
「あんたらもお目出度い頭なのか」
「失礼な! イチゴ先生はお医者様として、苦しんでいる貴方を助けた。当然のことじゃない。貴方は何もわかってないのね!」
「まったく気難しい猫だな」
きいっと苛立たしげに耳をふるわせるアケビと、心底めんどくさそうに頭を掻くイチゴ。
怒りや呆れを抱かれる理由は、猫にはわからない。
だって当然だろう。
醜い怪我をいくつも負い、血と反吐まみれの奴を容易く助けたなんて、フツウならあり得ない。
外見に合わないこの声も、フツウなら、呪いを振りまく声だと恐れ、嫌うのが当たり前だ。
フツウなら。
だから、フツウならしないことをしたこいつらは、フツウではないはずだ。
あの花売りだって。
「あのなあ…」
イチゴが猫の目をじっと見る。
「その怪我の理由は知らないが、多少なり身体に損傷があっても、何もおかしいとは思わないぜ。生まれつき目の見えない奴、耳の聞こえない奴、腕のない奴、そういうのは幾らでも居るんだよ。お前だけが特別、おかしな姿なわけじゃねーって」
「だったらこの声は」
「それもお前の個性だろ」
「貴方は自分が特別だと思いたいの?」
…特別だなんて思わない。
ただ、フツウではない。異質な奴だと、忌まわしい奴だと、近づくべきではない奴だと、そう思う。そう思われるのがフツウなはず。
猫の暗い顔を見たアケビは、短くため息をついた。
「…貴方、余程ひどい偏見を受けてきたのね。そんなの、見た目や性格をとやかく言うひとなんて、適当に受け流せばいいのよ」
「相手にするのも面倒だろ」
「…ちがう」
ちがうんだ。
猫はきしりと歯を食いしばる。
訊ねたいことはそれではない。怪我だの、声だの、そんな生易しい話ではなく。
こいつらはきっと、自分に大きな見落としをしているはずだ。
「…尻を見なかったのか」
「は?」
…少女にしては低い、低い、低い声で、アケビが唸る。
だが猫は気にせず、当たり前だと思う問いかけをさらに続ける。
「だから、俺の、尻を見なかったのか」
「異常性癖ぃぃぃ‼︎」
牙をむき出しにしたアケビは、ギラリと爪を伸ばした手で猫の身体を掴み、思い切り振り上げる…窓から投げるつもりだ。
猫の視界が逆さになる。魔物のような顔をした純血の犬の少女がぐらりと映る。点滴の管が突っ張り手の甲が痛む。思わぬ凶行に、猫は反撃の体勢もとれない…受け身の構えも整わない。
投げ飛ばされる───
「バカヤロー、アケビ、やめろ!」
…ガシャッ、と点滴スタンドが傾くのを、素早くイチゴが片手で掴み、もう片手は、アケビのふさふさの尻尾を掴んだ。
猫の視界の凶暴な顔は、はっと自我を取り戻したように牙を仕舞い…逆さのまま猫をベッドに落とした。
受け身も取れず、猫は布団に背中を打つ…布団はふかふか柔らかく、重力に従って勢いよく落ちても、ほとんど痛くなかった。木の上から岩場に身体を打った時とは大違いだ…猫は目を回しながら思い出していた。
頭の上で、イチゴがアケビを叱っている。
「こいつは病気と怪我を負った患者だ。悪化させてどうする…それにここは病院だぞ」
「す、すみません! だってこのひと、私たちにセーテキなことを!」
「こいつは言葉が不自由なだけだ」
そう言ってイチゴは、ベッドの上の猫を手荒く転がしうつ伏せにさせ、薄い白い衣服、つなぎのボタンをゆっくり外していく。
猫はびくりと耳をふるわせ、髪を逆だたせる。セーテキの意味は知らないが、今明らかに自分がセーテキなことを受けそうな気が───
だがそんなことはなく…ボタン外しは尾骶骨の辺りで止まった。
「ひっ…」
アケビが短い悲鳴を上げる。
「だから、本当はお前には見せたくなかったんだよ。なのにこの猫野郎」
開いた服の隙間から、ふさ、と現れる紅色の尻尾。それは尾骶骨から直接生えているのではなく、そこに浮いている。
「ま、魔物…だったんですか…」
「ああ。目を見てもわからなかったか?」
…猫はシーツに顔を埋め、視線だけで二人を見る…明らかにアケビに異変が起こっている。
偏見を気にするなと言ったその声は。
「イチゴ先生、どうして魔物なんか!」
───直後、アケビは目を見開き、ふらふらとよろけながら、イチゴと猫を素早く交互に見る。そして。
「す、すみません。す、少し、頭を冷やしてきます!」
「無理するなよ、アケビ」
…悲鳴のような裏返った声を残し、アケビはぱたぱたと病室を去っていった。
猫は体を起こす。
「…あれが正しい反応だぜ」
「かもな」
「あんたは、知った上で俺を助けたのか。『魔物なんか』の俺を…」
「おう。『魔物なんか』のお前をな」
にんまり、とイチゴは気怠げに笑う。
…知らなかったから取り乱した、あのアケビという少女は、思っていたより普通の少女だった。それでも、差別を口にしてしまった自分を責め席を外す…本当に素直で、真面目な性格なんだろう。
だがこのイチゴは、知った上で。
「何故だ」
「…また何故、か。くどいねえ…」
しつこいのは承知している。だが訊ねずにはいられない。
猫は何もわからない。ひとの優しさや温かさを信用できない。だって自分は魔物だ。魔物なのに。
「お前が思っているような、やさしさだの何だのと生ぬるいもんじゃねーよ。アケビが言ったように、僕は医者として、苦しんでる奴を助けただけさ」
「あんたは純血だ」
「
めんどくせえな…とイチゴは大きくあくびをし、カーテンの向こうの、もうひとつのベッドにどさりと大の字で横になった。
「僕にはさ…」
「憧れのひとが居るんだよ」
…唐突に話し出す。
猫はぱち、とまばたきをする。
「僕は医者とは言えまだこども、見習いだ。知識も技術も、堂々と医者と名乗るにはまだ足りない」
「…見習いってんなら、指導者が居るのか」
「早とちりすんな。院長先生も確かに尊敬するが、そうじゃない」
イチゴは、猫のポケットから取った緑のアンプルをじっと眺め、くるくると弄ぶ。
「僕がやってる治療は、院長先生がやるような、化学や手術とかの現実的な治療じゃない…僕は」
「魔法の治療をしている」
「魔法?」
…猫は顔を歪める。
魔物が魔法という単語を使うならわかる。魔物なら魔法の治療もできるだろう。
だがこいつは、イチゴは子豚の純血だ。純血に魔法なんて使えるはずが───
───いや、ひとりだけ知っている。
あの兎の女。美しい女。花売りの女。
魔法の花を育てている、あいつ。
「僕は治療のために、定期的に魔法の花を買うんだが…いつも来てくれるあのひとは、僕よりも花の調合に詳しくてさ。必要な効果の薬をいとも簡単に作ってくれるんだよ」
ぞわり、と猫は背中に寒気に似た違和感を感じた。どく、どく、と心臓が強く脈打つ。頭の中に昨日の記憶がちらつく。
「あのひとは頭も良いし、見た目も美人でさ…女なのに背が高くて…まあ、それは置いといてだな」
若草色の髪と瞳。細身で高い背丈にワンピースがよく似合う。たくさんの花に囲まれたあの姿は、忘れたくとも忘れられない美しさ。
「あのひとは、ひとも魔物も差別なく助ける。多くの奴らはあのひとを魔女なんて呼ぶが、僕はそれでも良い。僕が憧れているのは、そのひとだよ」
猫はぐしゃりと頭を抱えた…左手が触れた包帯留めの花飾り。
「おいイチゴ…そいつは」
「イチゴ先生、お客様ですよ!」
ガチャリとドアが開き、アケビが戻ってきた。何故か頭がびしょ濡れになっている。
「お客様じゃねーだろ、患者って言え」
「いえ、お客様です。いつもの方ですよ」
「つうか、何でびしょ濡れなんだよ」
「頭を冷やしてきました!」
「とりあえず拭け」
イチゴは乱雑に枕カバーを剥ぎ取り、アケビに投げ渡す…アケビは素直にそれで頭を拭き始めた。
それを見てひく、と苦笑いする猫に、ベッドから起き上がり、白衣の裾をひらりと翻しイチゴが振り返る。
にまり。
「ちょうど良かったな、猫。僕が憧れているひとに会わせてやるよ」
「どうぞお入りください」
アケビがドアの向こうに呼びかける。
部屋に流れ込む甘い香り。
くすぐったくて、くしゃみが出そうになる。
猫は耳をぶるりとふるわせ、恐怖とも違う、嬉しいとも違う、奇妙な息苦しさに呻き、目を見開く。
若草色の髪と瞳。
細身で高い背丈にワンピースがよく似合う、
美しい、兎の女。
「こんにちは、イチゴ先生───」
澄んだ瞳に猫を映すと、彼女───花売りの少女もまた息を詰まらせたように、目を見開いた。
「猫くん?」
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