第8話 病院
痛む体を、柔らかなものが包んでいる。
デジャビュ…いや、確かな記憶だ。
猫の頭がぼんやりと覚醒する。
戻らないと言ったあの場所に戻ってきてしまったのか。またあの女に助けられたのか。
…だが明らかに違ったのは、甘い花の香りではなく、嗅ぎ慣れない奇妙なにおいだった。
鼻腔に入り込むだけで口の中が苦くなる。少女に渡されたアンプルの風味と似ている…猫は舌を突き出し、苦い息を咳にして吐き出す。
…今度はどこにいるのだろう。今度こそ悪い者や魔物退治の連中に捕まったのか。
思案はするが、猫は体を動かそうとはしなかった。鈍い痛みが続き、意識は未だ朦朧としている。逃げ出す体力も気力もない。
…それに、鼻をつくにおいは違えど、花売りの屋敷を思い出す柔らかいクッションと布の感触は、猫を安堵させた。
やっぱり土や石の上はいやだ。温かいところで眠りたい。だからいっそ、この柔らかなものの上で死ぬことになるのなら、幸福かもしれない。
猫は、ごろんと寝返りをうった。
「いっ…」
途端、ぎち、と左手に痛みがはしる。
猫は目を開けた。
白い部屋だった。
見上げる天井、灯り、周囲を囲むカーテン、猫を包むベッドや布団も、すべてが清潔に真っ白だった。
色覚がおかしくなったのか、と猫は自分の体を見る。
…花売りの少女に着せられた衣服ではなかった。猫もまた、真っ白な、薄い一枚の衣服に全身を包んでいる。
だが肌にはちゃんと色があった。
色覚は正常だ。
猫は痛みがはしった左手を見る。手の甲に細い管が刺さっていた。長い管を辿れば、高い所に、透明な液体が入った袋が吊るされている。
…猫の髪が逆立つ。
毒を注がれている?
どこで自分を拾ったのかは知らないが、こんな心地の良い場所に寝かせ、微量ずつ毒を流し込んで殺そうとするなど、なかなか趣味の悪い奴だ。
前言撤回。されるがままにくたばるもんか…猫は牙を伸ばし、左手に刺さる管に噛み付こうとした。
そこへ。
「何をしようとしてるの!」
シャッ、と勢いよくカーテンが開かれた。
猫はビクリとふるえ上がり、勢いよく体を起こし、ベッドの上に膝立ちになる。繋がる管から点滴スタンドがゆらされ、ぐらりと傾く。
───空色の髪の少女が素早く入り込み、猫の頭を乱暴に押さえつけながら、点滴スタンドを支え、立て直した。
押さえつけられた猫は暴れる。体格差もあるが、少女の力は思ったより強く、動けない。猫はぎいぎいと呻き身を捩る。
「こら、大人しくしなさい!」
キン、と甲高い声で一喝した少女が、猫の頭を拳で一発叩く。
痛みに続く新たな痛みに、くらりと猫は耐えられず、再度ベッドに倒れた。
…何が起きている。
こいつは誰だ。ここはどこだ。
何をされている。
「おー、ようやく起きたか」
…また別の声が聞こえた。
猫はまだ押さえつけられている。
「イチゴ先生。このひと、病み上がりのくせに暴れようとしたんですよ」
「いや、その病み上がりに手荒なことをしたのはどこの誰だ、アケビ」
イチゴ。
アケビ。
ふたりが呼び合うそれは、『名前』だ。
猫の脳裏に花売りの姿が過ぎる。あの女の名前は、結局聞かず終いだった。その必要もなかったから…しかしどうしてか、後悔に似た感情に、心臓がモヤモヤしだした。
…ようやく強い力の手は退けられ、猫の頭は解放される。猫は不快感を振り払うように頭を振り、見知らぬふたりを睨みつけた。
「…聞きたいことがある」
昨日と同じように問いかける。
しかし昨日とちがうのは、猫は自分が何者であるか、少しだけ明確になっていること。
「あんたらは何者だ」
「随分と上から目線ね。瀕死の貴方を助けたひとに対して….」
髪の長い、アケビと呼ばれていた犬の少女は、腰に手を当て、不機嫌そうに猫を見下ろす。
助けた。瀕死の俺を?
猫は思い出す…今もなお全身を苛む痛み、少しの息苦しさ、吐き気もある。恐らく今朝のこと…花売りが忠告したように、苦しさの発作が起こり、血まみれになりながら助けを求めた。
「あんたが助けてくれたのか?」
猫は犬の少女、アケビに問いかける。
すると、きっと睨み返された。
「恩人の顔も思い出せないの。助けたのはイチゴ先生よ!」
アケビは腕を広げ、子豚の少年、イチゴに、猫の視線を導く。
長い横髪を結い白衣をだらしなく羽織り、気怠げな顔をしている小さな少年。猫は疑う。こんな小さなこどもに助けられただと。
「イチゴ先生はお医者様なの。先生が貴方を見つけなければ、貴方は死んでいたのよ。ちゃんと感謝しなさい!」
「…こんなガキに何ができたってんだ」
「案外上手くいったぜえ」
猫の言葉に怒るのもめんどくさそうにあくびをしながら、イチゴはアケビの横に立ち、猫に緑のアンプルを見せた。
花売りから貰った薬だ。
「それ…どこで拾った」
「お前のポケットに入ってたぞ、二本…いや、三本だったか」
…猫は後悔する。
ポケットに残っていたなんて気がつかなかった…それを探す余裕もなかった。服用していれば、こんなことにはなってなかったはずだ。
こんな得体の知れない場所に。
こんな柔らかいベッドの上に。
また来ることになるなどなかったはず。
「これはお前の持病の薬か。初めて見たものだったが、何にせよオリジナルがあって助かったよ…僕も、お前もな」
持病、と言っていいものか。
花売りに救われたこの体は、治療され、自由になったことの方が多いが、薬がなければ長く生きられないという不便も増えた。
持病というよりは、魔法の花の副作用。
猫はそう思った。
「成分を調べた」
イチゴはアンプルを掲げ、電灯にかざす。半透明のアンプルは光に当たり、中の液体の影を透かした。
「こいつは、色んな草花の蜜や露、ミミズ、その排泄物などを混ぜ合わせた薬だ。だがほとんどは真水。一部、知らない成分もあったが…大体は模造したよ」
…猫は目をぱちぱちさせる。
頭がぐるぐるする。この子豚の少年が言う話についていけない…花の蜜、露、真水、それから、ミミズとその排泄物?
あのアンプルの中身がそんなものでできていたのか。それを飲んだのか…。
ぐる、と猫の喉が唸る。ミミズだって食べたことはあるが、踊り食いだったから、腹の中でうぞうぞとうごめいて気持ち悪かったことを思い出す。気持ちが悪い。
「それがその点滴だよ」
「あ…?」
猫はもう一度、自分の左手の甲に刺さる管を伝い、点滴スタンドに吊るされる袋を見る。
透明な液体。アンプルの中身の模造。
毒ではなかった。
「全てを真似できたわけじゃないが、どうだ。痛みも呼吸も、少しは楽になったろ」
イチゴはにまりと笑う。
…確かに、気を失う前と比べれば、会話も普通にできるほど体は楽だ。痛みも息苦しさも、少しは無視できる。
…本当に、この小さな少年が自分を助けたと言うのか。
にわかには信じられないが、アンプルの中身をすらすらと説明した様子からして…。
「……すまん。疑って」
「もう。謝るじゃなくて、まずは、ありがとう、でしょ!」
きいっ、とアケビが、猫の頭を無理矢理下げさせ…猫が膝立ちの状態だったため、土下座の形になってしまう。
「ありがとうございます、イチゴ先生…ほら、言いなさい‼︎」
「あ、ありが…痛ぇ…」
「アケビ、やめろ。そいつは一応患者だぞ」
「ダメです。最近はどいつもこいつも、ありがとうのひとつも言えません。悪かったとか、すまないとかがかっこいいと思って、謝ってばっかりです!」
「痛い、わかったよ…ありがとう、イチゴ」
「イチゴ先生!」
「先、生…」
「よし!」
ばっ、とアケビが手を離した。
再び解放されたが、圧迫された頭が痛く、猫はそのままベッドに突っ伏す…受け止めるのは柔らかいベッドのクッション。ツン、と薬のにおいが鼻をつくが、今は心地良い。
…こいつらも、きっと悪い奴らじゃない。
イチゴという少年は、この薬をわざわざ模造してまで自分を助けてくれた。
アケビという少女は、乱暴なことはしてくるが、自分よりも常識のある性格だ。
「イチゴ、と…アケビ、だったか」
「ん」
猫は乱れたシーツに顔を埋めながら、二人ににまりと笑ってみせた。
「助けてくれてありがとよ」
「…別に、僕は医者として当然のことをしたまで───」
「まずは姿勢を正しなさい!」
今度は首根っこを掴まれ、無理矢理体を起こされた。
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