名前を呼ぶこと

第6話 悪夢

悪夢を見た。

真紅の眼を持つ狼から逃げ惑う夢。

相手は同じ魔物。だから猫も加減などせず、必死に刈込鋏で戦ったが…まったく歯が立たなかった。

手を繋ぐ、大切な者を守りながらでは勝てないと思った。

だから、ほんの一瞬だけ彼女から手を離し、刈込鋏を両手で握り、全身の魔力を集中させた。

…その一瞬の間に。

猫の目の前で。

彼女はズタズタに引き裂かれた。

呆然とした猫は魔力の回路が狂い、刈込鋏は姿を保てず消滅し、尻尾は元の位置へ戻る。

目の前に倒れる彼女の遺骸。

わけがわからない。

こんな真っ赤な肉塊が、たった今まで一緒にいた愛らしい彼女だったとは思えない。

でも、わずかに潰されず残った顔は、瞳は、どこか懐かしい色をしている。

わけがわからない。

なにもわからない。

これはなんなんだ。

目の前の真紅の眼の狼が、じっと猫を見ている。なおも殺意を向け、青龍刀を構えている。

面識なんてないのに、何故ここまで執着されている。迷惑をかけた覚えも、何かを奪った覚えも一切ない。なのに。

どうして。

猫が問いかけると、狼は、さも当たり前のように、無表情に答えた。


お前たちに生きている価値はない。


…これは夢だ。悪夢だ。

猫はなんとか狼から逃げ切ったが、呼吸も意識も絶え絶えだった。

頭が痛い、目が痛い、腕が痛い、足が痛い、お腹が痛い、内臓が痛い、喉が痛い、痛くて、痛くて、息が出来ない。

押さえた腹から生温かい物が溢れている。首から勢いのある流血が続き、全身から血が滴り落ち、吐き気が止まらない。

寒い。痛い。苦しい。

意識が朦朧とし、錯乱して、徐々に記憶が曖昧になっていく。

あの狼はなんなんだ。

一緒にいた彼女はどこに行った。

そんなやついたっけか。

あの肉塊はなんだった。

狼なんて知らない。

だれだ。

だれにおそわれた。

だれといた。

なにをされた。

なにをしていた。

なにをしてきた。

痛い。痛い。いたい。たすけて。

猫は口から血のあぶくを溢れさせながら、あてもなく歩く…しにたくない、だれでもいい、たすけて、たのむから。

夢の映像が点滅する。

暗む。眩む。白く。黒く。赤く。暗転する。


そうして、

数秒の暗闇の後に現れたのは、

甘い花の香りを纏う、美しい兎の少女。


「目が覚めたのね、───」


×


…はあ、はあ、はあ。

猫は森の木々に手をつきながら、足を引きずるようにして歩いていた。

今朝の悪夢は、現実にまで侵食してきた。

猫は全身の痛みと息苦しさで目を覚ました。あの兎の少女の警告は本当だった。案の定、激しい痛みと苦しさが猫を襲う。

最初は慌てて、少女から貰った薬を飲もうとしたが、昨晩の苛立ちの衝動で、猫は持っていた予備のアンプルを投げ捨ててしまっていた。

朝露に泥濘んだ土の上を這いずりながら、捨てたアンプルを探したが見つからず、そのうち自分の惨めさに腹が立ち、猫は耐えることにした。

しかし今まさに後悔し、自分を呪う。

痛い。痛い。息が出来ない。

二度とあの少女に会うことがないよう、この痛みと苦しみに慣れなければと必死に堪えていたが、無理だ。

無理なんだ。昨日学んだはずだ。耐えることなんてできない。だから薬を貰ったのに。予備まで渡されたのに。

「は、はあ、はぐ、げ…げえっ」

何度目かの嘔吐をした。びしゃ、と地面に広がったのは、赤黒い泥だった。

血液ではなく、泥。

自分の体内から大量にぶちまけた汚らしい泥、しかし猫は焦ることはなかった。焦ることすらできなかった。痛みと苦しさで埋め尽くされた頭は、血反吐か泥かなど判別がつかない。

焦る余裕などない。

痛む身体が勝手に裂け始め、そこからさらに泥が流れる。

目の前に死が迫っている。

逃げられない。

「げ…が、…は…」

それでも猫は、今際の蛞蝓のように這いずる。口や身体中から溢れる泥の絨毯を敷きながら、助けを求めた。


朦朧とする猫の頭は気づくことはなかった。

そこはいつのまにか森の中ではなく、きれいに整えられた煉瓦の道。

ひとが住む街の近くだった。



「───…なんだこれ?」

遠くで、誰かの声が聞こえた。

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