第5話 魔物
広い玄関から外へ出る。
夕方の日差しと、冬の気配が残る冷たい風が当たる…猫は不思議に思った。たった数時間ぶりのはずなのに、日差しの明るさや暖かさ、風の冷たさや心地よさが、懐かしいと思うより、初めてのように感じた。
「身なりが整うと、見える世界も変わるな」
「そうかしら。私は毎日着替えをしても、自分の庭は飽きていく一方よ」
「花が増えようとも、か?」
風に絡み運ばれる様々な草花の香り。
少女の屋敷の庭には、たくさんの花が咲き乱れ、低木には小さな実も成っている。
「そうね…植物たちは日々姿を変えるわね」
「見飽きたのか」
「ふふ…」
少女が困ったように笑う。
「貴方を見習った方がいいみたい。小さな変化も楽しむことができないなんて、つまらないわよね」
「俺を見習う必要はねーが…あんたの庭は特別だと思うぜ。他人が見たら羨むぞ」
「えぇ。大切にするわ」
広く大きな庭のすぐ側は森だ。少女の屋敷は、外の世界と隔てるように、鬱蒼とした森に囲まれている。まるで別世界のように。
自分はこの森から来たのだろう。怪我を負っていたのなら、何かに襲われて、逃げついた先がこの庭。そこで力尽きた…と、猫は想像した。
思い出したのではなく、想像した。
思い出せなかった。
頭がぼんやりした。
「ねえ、猫くん」
少女が猫を見る。
「貴方、どこか行く宛はあるの? お家や、お友達や、食べる物はあるのかしら」
「…何もねーよ。俺は野良だ。食う物も寝る所もないし、頼れる奴も居ねーな」
「だったら、無理に出て行く必要はないのよ。私の家に住みなさい。お部屋なら余っているわ」
少女は屈み、猫の肩に触れる。
猫はびくりと耳をふるわせ、その手を払う。
「要らない」
「どうして。食事も、お風呂も、温かい寝床も、ちゃんと用意するわ。それに必要な時に、すぐにお薬も渡せるもの」
「そういう問題じゃない。あんたは
「呪われた魔物だ。あんたを殺すかもしれねーんだぞ」
猫はギラリと少女を睨みつける。
暗く青い瞳に、真紅の瞳孔が妖しく光る。
少女は払われた手を引っ込めるも、猫の目をじっと見つめた。
「…貴方は呪われてなんかいないわ」
「どうだろうな。あんたはお目出度い頭だ…魔物が本来どんなモノなのか、何も知らないだろ」
にたり。
牙を見せつけ、爪を伸ばし、猫は歪んだ邪悪な笑みを向ける。
…必死な拒絶だった。
優しい少女に対する拒絶。
その好意に甘えたい自分への拒絶。
新しく与えられた衣服は、とても気持ちが良かった。痛む身体を包んでいたソファの温かさを、もう一度感じたかった。
きっとこの服も、今晩には泥と血に塗れるだろう。夜は冷えるだろう。寒い中眠る場所はきっと、硬い石を枕にした洞穴の中。
今後永遠に飲めと言われた薬だが、もう二度と、ここへ訪れる気にはならない。
もう一度ここへ来てしまったら…。
「短い間に色々尽くしてくれてありがとよ。何も礼なんて出来ないが、あんたのことは、今後一生…」
「だめ!」
だめ。
それは、自分に向けられた言葉だと思った。
猫の心がゆらぐ。
止められた。少女がなおも自分を引き止めてくれる…これからも、幸せな場所に居ることを許してくれている。
そうなのか?
そう思った。
しかし。
しかし違った。
猫の尻尾や髪の毛が、ざわっと逆立つ。
止めてくれたと思った少女が、猫の横をぱたぱたと走り去って行く。
彼女を目で追えば。
大きな庭の花壇を、巨大な魔物が荒らしていた。
「やめて。だめ。食べないで!」
少女は、水道横に置いていた箒を握り、魔物の方へ走って行く。
巨大な魔物は、幼虫のような身体に、蝶の羽を付けた異形の魔物だ。頭部から胴体へかけて裂けた大きな口で、花壇の草花をぐちゃぐちゃに貪り、唾液と花びらを撒き散らす。
理性のない魔物だ。
猫は尻尾を掴み、刈込鋏を取り出す。
少女が箒を振り上げ、勢いよく魔物を叩くが…魔物は少しも動じず、大きなニセモノの目で、少女をじとりと見下ろした。
「あ……」
少女の足元にぼたぼたと魔物のよだれが滴り落ちる。甘酸っぱい花の香りが混ざったよだれは、反吐のように饐えた悪臭を放つ…少女は箒を握ったまま、少しずつ後退る。
食事を邪魔されたからか、それとも単に少女が気になるだけか…じりじりと少女に顔を近づけた魔物は、ガパッと身体の半分が裂けるほど、大きな口を開けた。
「いやっ」
少女は目を閉じる。
「いいぜ、そのまま目ぇ閉じてろ」
少女の肩を、小さく冷たい手が一瞬、トンと押した。少女は数歩後ろによろけた後、その場に尻餅をつく。
…それから、閉じた瞼の向こうから、ぐちゃり、ぐちゃりと、泥を踏んだような粘着質な水の音が聞こえた…一体何が起こっているのだろう、けれども、少女は目を閉じたままでいた。
…ごくり、と音が聞こえ後、猫の低い声が、『目を開けて良い』と少女に言った。
少女は恐る恐る瞼を開く。
目の前には、泥とよだれの細かな飛沫を浴びた猫が、刈込鋏を片手に、澄ました顔で立っていた。
魔物の姿はどこにもなかった。
ただ、地面一面に黒い泥が広がっていた。
「魔物は」
「ああ。食ったよ」
猫が鋏の刃を舐めながら呟く。
「その鋏で」
「ああ。食った」
掌の泥も舐める…猫は、猫がそうするように、顔を洗うように、泥を、魔物の血を舐めとり、飲み込む。
少女はぞわりと耳をふるわせ、座りこんだまま、後ずさろうとした。
目の前の小さな猫。
目の前の魔物の男。
せっかく身体をきれいにし、着替えもしたのに、全身を汚してしまっている。
もう一度、身体を洗ってあげましょうか。
その一言は、とても口には出せなかった。
こわい。
猫がギラリと少女を見下ろす。
「…わかっただろ。魔物ってのはこんなもんだ。俺も、今の芋虫野郎と何も変わらない。魔物は魔物。バケモノなんだ」
「そんなこと…」
そんなことない。
さっきは言えた言葉が、喉に痞え声にならない。
こわい。
思わず箒を持つ手に力が入る。少女の無意識の拒絶が、防衛本能で猫を攻撃する構えを行う。
猫はそれを見ると、ふ、と低く笑う。
「安心しろ。今後あんたを尋ねることは一切ないさ。俺のことは忘れて、平穏に暮らせ」
「でも、お薬は…」
「死ぬわけじゃねーだろ。その頃には痛みにも慣れてるはずさ」
背を向ける猫を止めようと、少女は手を伸ばす───体は一切動かなかった。
引き止める動作も、言葉も、恐怖で何もうまくいかなかった。
だめ。行ってはだめ。せめてあの薬だけはちゃんと続けないと、貴方は───!
「じゃあな、花売り」
目の前に居たはずの猫は、まばたきの合間に、ひゅんと姿を消した。
泥まみれの地面と、散らされた花びらだけが残った。
少女はひとり夕方に取り残される。
助けたのに、無駄だった。
近いうちに、きっとあの猫はどこかで土にかえる。
元の姿に戻るだろう。
なんてひどい仕打ちだ。
恩を仇で返された。
…いや、これが当然の報いだろうか。
少女は、胸に手を当て俯いた。
猫に嘘をついた。
治せたものを、治せないと言った。
ひとつだけ、彼から物を盗んだんだ。
とても、悪いことをした。
少女の髪を、闇夜を呼び込む冷たい風がゆらした。
×
理性のない魔物の声が、そこら中から聞こえる。
猫は新しいアンプルを開封し、口に咥えて思考する。
あの花売りの少女の場所へ行くことは、二度とないだろう。
だが、いくらなんでもひどい突き放し方をしてしまった気がする。唐突に現れた魔物にこじつけて逃走するなど、ひどい恩返しだ。
そうだ。恩返しなんてしていない。
花売りは助けてくれた。傷の手当てをされた挙句、きれいな衣服というおまけまでくれた。
なのに何の礼もせず、恐喝して去るなど最低じゃないか。
猫は後悔で眠れなかった。
…本当は、温かいソファの感覚が惜しくて、眠ることができなかった。
あの屋敷へ戻ることはできない。
しかし、花売りの顔が頭から離れない。
柔らかな微笑み。他人の痛みへの涙。最後に見た、怯えた青い顔。
「……ぅ」
薬の苦味に呻く。
猫はアンプルを口から離し、顔を手で覆う。
自分には何もない。礼の品を買える金銭もなければ、招く住処もない。
だが、やはりちゃんと礼がしたい。
無理矢理突き放した事を謝罪したい。
頭から花売りの顔が離れない。
薬の苦味に耐えられず、猫は舌打ちをしてアンプルを投げ捨て、土から盛り上がった木の根を枕に寝転がる。
夢なんか見るもんか。
二度とあの女には、あの場所には行かないと決めたんだ。
俺は、ひとりで生きられる。
生きられるんだ。
ざらざらと、身体が痛み出した。
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