第4話 新しい自分

少女の手で、片目と片耳を包帯で覆い隠される…猫は少女に身を任せていた。

疑いが全て晴れたわけではないが、きっとこの女は、自分を陥れようとするような奴ではない。

他人の痛みに泣くなんて、どうしたら出来るのだろう。猫にはその感情がわからなかった。

だから、そんな難しいことが出来る少女を、猫はようやく信じられた。

「それから、猫くん」

包帯を巻き終えた少女は、猫に緑色のアンプルを差し出した。

猫はぞわりと毛を逆立たせる…一瞬だったが、ついさっき同じ物を見た。自分の身体を楽にさせてくれた、とても美味しくないあの液体。

「そりゃ、ひとが飲むモンじゃねーだろ」

魔物だが。

「植物の活力剤とは違うわ。魔法の花を使った貴方の身体には、必要なお薬なの」

「…まじかよ」

「えぇ。きっとまた、痛くなったり、苦しくなったりすると思うの…ううん、必ずそうなるわ。だから、それを抑えるために、定期的に飲んでほしいの」

正直言って、嫌だ。

毒ではないとはわかっている。良薬口に苦しとも言う。確かに効き目は良く、即効性で助かった。

だが味は最悪だ。昔、飲み水が見つからず、止むを得ず雨水溜まりを飲んだ時を思い出す…その時ほどではないが、不味いものは嫌だ。

多少痛かろうが苦しかろうが耐えられる、と強情張って拒否したいが、事実さっきはそのまま床に突っ伏してしまった。耐えられない。どうあがいても耐えられない。息が苦しくて死ぬかと思った。

死ぬかと思った。

猫が少女を見ると、有無を言わせない強い眼差しが向けられている。絶対に飲め、と訴えていた。

猫はうう、と呻き、差し出されたアンプルを受け取る。

「…飲みゃいいんだろ」

「そうしてちょうだい。予備も数本渡しておくわね。なるべくなら、飲み終えて四時間以内には、新しいのを飲んで」

「いつまで?」

「今後永遠」

永遠…ふつうに聞く言葉じゃない。

だが間をあけても、一向に少女は『冗談だ』と言うことはなかった。

猫は顔をしかめ、仕方なくアンプルを口に咥える。プラスチック製で柔らかく、吸い出せば少しずつ液体が出てくる…そんな行為から赤子の頃を想像するが、記憶と違って甘くない。とても苦い、渋い、不味い。

「う…なあ、次回からは、味の改善を要求するぜ」

「わかったわ。予備がなくなる前に、新しいのを受け取りに来てちょうだい」

「あんた、今後永遠と言ったが…あんたに何かあったらどうすりゃいいんだ。あんたは純血だろ。魔物の俺とは寿命の差も…うぇっ」

舌を突き出し、えずきながら猫はたずねる。やはり不味い。耐えられない。

…何気なく問いかけた事だが、少女の返答がない。

妙だ。どこか別の所でも手に入る物だとか、いやむしろ、縁起でもないことを言うなと怒るものだと思っていたが、少女の沈黙は少し重苦しい。

「どうした?」

なんだか寒気を感じ、猫は少女を睨む。

少女は、どこか暗い笑みを浮かべた。

「心配はいらないわ。健康管理はちゃんとしているもの」

「ああ…魔法の花を使うのか?」

「……そうね」

返答に奇妙な間があったが、猫は無視した。


×


それから、少女は猫を、また別の部屋に移動させる。

ぺたぺたと廊下を歩く。猫の裸足に、床は硬く冷たい。だが、今まで歩いた泥や混凝土の上よりはましだ。ぐちゃりとした気色悪い泥濘みも、小石や硝子片の痛みもない。

そういえば、足はきれいに洗われていた。

床もきれいだ。ぺたぺた。とても気持ちがいい。


少女が猫の衣服を新しく取り替える。

猫が着ていた衣服は古く、ぼろぼろで酷く汚れていた。

住む場所なんて持っていない。自然が作った洞穴や、最悪木の陰を転々とし、魔物を嫌う者たちから逃げ惑いながら過ごしてきた。

何度か得られた衣服も、贅沢な者がきれいなまま捨てたそれらを、ゴミ捨て場から漁って手に入れた物だ。それを大切に、自分が耐えられなくなるほど汚れるまで着古した。

今となっては、泥や血の汚れもまったく気にしなくなっていた。

だから、少女に真新しい衣服を着せられ、その慣れない新品の匂いにくしゃみをする。

「ここは何でもかんでも花のにおいがしてくすぐったいな…」

「嫌かしら」

「悪くはねーが、慣れるには時間がかかりそうだ…」

猫は鼻を擦り、むず痒さを振り払うように頭を振る。

新しく着せられたのは、青いシャツと黒いズボンに、ベルトというものを初めて付けてもらった。

それから靴下と靴。裸足に慣れていた足が少し窮屈になったが…他人が履いている物を見ては羨んでいた頃もあった…それを手に入れた…隠せない喜びに片耳がぴくりと跳ねる。

しかし疑問だ。

「サイズがぴったりだな…あんた、こどもでも居るのか?」

「いないわよ」

…当然か。相手は大人びた雰囲気だがまだ少女だ。こどもはもとい、この屋敷には相手が居る形跡もない…いや、逆にこれほど美しい女なのに異性が居ないのも不思議だが。

…というか、とても失礼な事を聞いた気がする。

「わりぃ…」

「ふふ…その服は、えーと…母がお友だちのお子さんの為に買っていた物なの。思ったより大きくなるのが早くて、結局、渡せなくなってしまったのよ。貴方が着てくれるなら、無駄にならずに済むわね」

少女の弟などではなく、母親の友人のこども、か…少しややこしい。

少女がこうして、母親が残した不用品を捨てずにとって置いている事に猫は感心する…捨てた物を拝借していたとはいえ、やはり、まだきれいなものを簡単に捨てていた奴らは、汚らしい贅沢者だ。

「ああ、なら有り難く頂くよ」

「たくさんあるから、着替えをしたかったらいつでもうちに来て」

そう言いながら、少女はまたクローゼットを漁る…ちらりとひよこの『原種』が描かれているシャツが見えた。

明らかな子供服。

今こうして着せられた服は、自分好みのデザインだが…流石にアレは差し出されても着るものか、と猫はこっそり顔を顰めた。

「あと、これも着ていくといいわ」

少女が取り出したのは、紺色の長いコートだった。

「まだ寒い季節でしょう…それに、貴方がここに来た時もコートを着ていたから、必要だと思って」

…猫はコートなんて着ていない。

少女がコートだと言う物は、ゴミ捨て場で拾ったゴミ袋をそれっぽい形にして防寒対策に纏っていた物だ。

…それは自分で作った物だったか?

そんな器用なことが自分に出来るとは思えないが。

…少女はそれをコートと言ってくれているが、きっと捨てただろう。結局はただのゴミ袋。だが愛着はあった。捨てられてしまったのは少し悲しく思える。

猫は本物のコートに腕を通す。しかし。

「あ…」

少女が声を漏らす。

ロングコートを知らない猫もすぐに気付く。

思ったより大きかった。裾は足首まで届き、袖は掌を覆い隠すほど長い。

「ごめんなさい、すぐに直すわ」

「いや、いい」

猫はコートを脱ぐ。

「自分で調節する…下がっててくれ」

「え?」

小さな手で少女に離れるよう促す。

それから、尾骶骨部分に浮遊する自分の尻尾を掴み、すっと引き抜く。

紅色の尻尾から現れたのは、大きな刈込鋏。

猫の魔力。魔物猫の武器。

「それが貴方の力なのね」

「ああ。本来は剪定の道具だったか…植物を扱うあんたとは縁があったのかもな」

猫はコートを放り投げ…刈込鋏を開いて大きく振り翳す。

一瞬の青い閃きの後…ひらひら、斬られた裾と袖が舞う。

猫はゆっくりと落ちてくるコートを抱え、もう一度身に纏った。

「…なかなか、いいじゃねーか」

丈は膝辺りまで短くなり、袖から掌も出せる…猫は満足そうににまりとするが、少女は少し気に入らない様子で、唇に手を当てる。

「ちゃんと整えましょうか?」

「何故だ?」

刈込鋏を尾骶骨部分に仕舞いながら、猫はきょとんと少女を見る。

短くしたのはいいが、切り目はあまりにも雑だった。ギザギザとバランスの悪い切れ目から、糸が数本ぶら下がりゆれる。

「そこからほつれてしまうでしょう」

「…こういうのが、かっこいいんじゃないのか?」

きょとん。

何も知らない猫の、純粋な疑問の眼差しに、少女はそれ以上何も言わないことにした。

本当は直したくて仕方がなかった。


×


最後に、衣服の上から右腕に包帯を巻かれ…また鏡を見せられる。

全身が映る、とても大きな鏡だ。

汚れていた衣服は真新しい物に替えられ、醜い傷は包帯に覆い隠され、さっきまでの自分とはまるで別人だ。

「これも魔法の鏡じゃないだろうな。俺がこんなまともな格好をしてるとは思えない」

「ただの鏡よ。映っているのは、本当の貴方で間違いないわ」

「…けど、これは要らねーんじゃ」

「いいじゃない。可愛いわよ」

折角の勇ましい装いも、失った左耳部分と腕の包帯に、少女が包帯留めに使った花飾りに打ち消されてしまっていた。

可愛いものは嫌いではないが、自分が可愛いと言われるのは好かない…が、猫はその花飾りを取ろうとは思わなかった。

可愛い花飾りだからだ。

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