第3話 鏡

結論から言えば、兎の少女は猫の事はなにも知らなかった。

彼女が知っていたのは、猫がこの場所、この屋敷に居る経緯だけだ。

「貴方は庭に倒れていたの。ひどい怪我を負っていたわ…」

怪我、という言葉を聞き猫は納得した。身体の痛みの原因はその所為か…記憶が曖昧なのも、頭部に外傷があったのだろう。そう解釈した。

しかし、同時に疑問も抱く。

ひどい怪我という割に、目につく範囲の自分の身体には、傷跡はないように見える。

「…それは本当か?」

疑心暗鬼の残滓がつい口に出る。

怪我など嘘で、どこかで自分を攫い、ここに閉じ込めたのでは。

怪我をしていたと言いながら、「怪我をさせた」が真実なのではないか。

傷跡を消す力を持っている可能性もあり得る。

繰り返し、何度も悪い想像をしながら少女を見る。

長い廊下を歩き、ひとつの部屋の前で立ち止まった彼女は猫に振り返り、苦しげな表情を向けた。

「えぇ、本当よ。本当に…」

苦しげな。

まるで自分が怪我を負ったかのように。

猫には訳がわからない。

だが、嘘ではない…と思った。もし「怪我をさせた」のだとしても、事故なのかもしれない。傷跡がないのも、適切な処置を行われたから…。

繰り返し、何度も少女を信用しようと自分に言い聞かせる…だが、どうしても信じきれない。

それが猫の表情にあらわれていたから、少女は猫に何度目かの微笑みを向け、部屋のドアを開けた。


中に入ると、さまざまな強い香りが鼻腔を刺激し、猫は軽く咽せる。

少女から香る甘い花の香りよりも強く。

爽やかな草葉の香りは刺すようにきつく。

それから、苦い香り。酸っぱい香り。部屋中に並べられた植物の香りが混ざり合っていた。

「けほ、けほっ…」

「ああ、ごめんなさい。慣れていないと、ちょっときついわよね」

猫が特別なわけではないが、追われて傷つき、追いかけて殺し…と過酷な生活をしてきた彼は、五感がひと一倍優れていた。不快ではないが、部屋にこもる強い花の香りに耐えるのは、少しつらい。

少女は素早く窓を開けた。

冷たい風が部屋を巡る。草花がゆれ、さやさやと音を鳴らし、いくつか花弁が舞う。いくらか香りはマシになった。

「…花を集めるのが趣味なのか」

猫は鼻を擦りながら少女を見る。

「いいえ。集めているのではなくて、育てているのよ」

少女は、植木鉢の植物をひとつずつ手のひらに乗せ、観察し、選んだものを丁寧に摘み取り、籠に詰める。

「私は花売り。草花を育てて、それを必要としているひとに届けに行くおしごとをしているの」

「花売り」

猫は呟く。

耳慣れない言葉だが、懐かしい響きだ。ぼんやりとした記憶で、だれかがその言葉を口にしていた気がする。ついさっきまで、そいつの顔を覚えていたはずなのに。

思い出せない。

花売りになりたい…そう言っただれか。

思い出せない。

それすらも偽の記憶かもしれない。

「ここにある草花はふつうではないの。少しだけ、魔法が込められている…貴方ならわかるはずよね、猫くん。貴方───」


この世界は歪だ。

『ひと』と、そうでないものの区別が曖昧だった。

少女、花売りは兎。純血の兎。

ただの、ふつうの『純血ひと』だ。

だが猫は、猫であり、猫ではない。

「見たんだな」

「えぇ」

猫は一見、ただの猫に見える。純血の、ただの『ひと』に見える。

だが彼の尻尾は、尾骶骨に付いていない。

尾骶骨部分に尾は浮遊する。

猫はそこに魔力を仕込んでいる。

猫はその身に魔力を纏っている。

猫は全身に魔力を秘めている。


猫は、魔物。

ひとではないもの。

ふつうではないもの。

忌み嫌われるもの。


「紛らわしい見た目だろ。尻を見ないと、魔物かどうかわからないなんて、笑い種だ」

「そんなことないわ。貴方は、瞳も少し特殊ね」

「見たことないから知らねーよ…」

鏡なんて高価な物など持ったことがない。水面を覗いても歪んで認識できないか、或いは濁っていて何も映さない。

自分の頰に触れる。

他者が言うに、まるでこどものような顔立ちらしい。だから、その呪いを振りまくような、地を這う低い声が似つかわしくなく、不気味だと、多くの奴らが忌避した。

「それでもあんた、よく俺をここに置いてくれてるな。呪われたバケモノだぞ。何で見殺しにしなかった」

「バケモノではないわ。貴方は…貴方たちは、とくべつなひとなのよ。悪いものだとは少しも思わない」

「お目出度い考えだ…」

「それに…見捨てられるわけないじゃない」

少女の声がふるえた。

猫が見ると、手に取った花を今にも握りつぶしそうなほど体を強張らせ、また苦しげな表情をしていた。

「…俺はそんなにひどい怪我だったのか?」

思ったことを問いかける。

えぇ、と頷いた少女は俯く。

「思い出したくもないほど」

「そんな傷跡はどこにもないぞ。あんたは残酷なのが苦手な質か」

「…私は花売り。魔法の花を育てているの。だから、それで貴方を治療した」

…なるほど。傷跡を消す力を持っている、という憶測は、強ち間違いではなかったらしい。


「でも、すべてを治しきれなかったの」

少女は植木の陰の棚から、少し大きめの鏡を引き出した…古く見えるが、高価な物に違いない。

猫は目を丸くする。初めて見る高価な物に興味を持ち、よく見ようと数歩前に出る。

だから忘れていた。

少女との会話で動く感情、初めて見る景色や物、さまざまな刺激…目が覚めたとき、自分は何を思っていた。

あの柔らかいソファに包まれ、身体の痛みを感じ、恐ろしいほどの心地よさの中で。

視覚と聴覚が。

「本当に申し訳ないと思っているわ。けど、どうすることもできなかったの…」

どうすることもできなかったの。

猫は初めて鏡を覗いた。


そこに映る自分は、自分が思っていたよりも幼い顔立ちだった。

鋭い牙が唇の隙間から少し食み出る。

それと、死角で気付かなかった。首には赤黒い傷跡があり、衣服が酸化した血液で錆色に汚れている…少女はこれを恐れていたのか?

自分の髪は、尻尾と同じ紅色をしていた。

そこから生えるのは、紅の毛に覆われたもふもふの小さな耳だ。

少女が言った、瞳は…『猫のひと』は瞳孔が縦に裂けているのが見られる。

猫もその通り、縦に裂けた瞳孔だが、そこも妖しく光る紅色をしていた。猫の青い目にはよく映える。

待て。ちがう。おかしい。

耳は。

目は。

「あ……」

思わず少女を見た。

彼女には、若草色の毛に覆われた、垂れた耳がふたつある。同じ色をした目がふたつある。

ふたつ。

だが、猫には。

耳も、目も、

左耳がない。右目がない。

鏡に映るのは、ぼろぼろにちぎられた左耳が、断面から内側を生々しく表皮から透かし、半端に残されている。

鏡に映るのは、赤黒く変色した皮膚に、窪むように閉じた瞼。それを引き裂くように、額から頰にかける、薄らと白が覗く真っ赤な深い傷。

「あ、ぁ……」

あるべきものがない。奪われた傷。

項垂れた腕の先で、猫の爪は宙を引っ掻く。

鏡に映る猫は牙を伸ばす。左目の瞳孔が開く。髪が逆立つ。右耳がふるえる。

ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。

うばわれた。だれに。だれかに。だれが。


「猫くん!」

少女が鏡を投げ出す。

恐ろしい形相で立ち尽くす猫を抱きしめる。

猫は少女に比べてとても小さい。

「ごめんなさい、猫くん。ごめんなさい」

猫が錯乱すれば、少女を切り裂くこともあり得た。だが構わず、少女は強く猫を抱きしめる。

宥めるのではなく、ただ謝りたかった。

「私が、もっと早く見つけていれば。もっと早く助けていれば…!」

血だらけで、必死に息を続け、まだ生きようとしていた。助けたかった。だから、よくできた花を全て摘み取り、必ず助けると言ったのに。


猫はもう息をしていなかった。


「…なに、泣いてんだ」

…猫が低く言う。抱きしめる少女の背に手を回し、ゆっくり撫で下ろす。

少女は頰に涙を伝わせながら、腕を解き、猫の顔を見つめた。

猫の表情から狂気は消え、少女を不思議そうな目で見ている。

「何、泣いてんだ、あんた」

「なぜって…」

「あんたはどこも痛くないだろ。何も失っていない。泣きたいのは俺なのに…」

「ごめんなさい…」

「だから、何であんたが泣くんだよ」

猫は少し困ったように、にまりと笑う。

「あんたが代わりに泣いてくれたお陰で、泣けなくなっちまった」

伏せた目で自分の爪を見た猫は、指を折り、人差し指の関節で少女の頰の雫を掬う。

少女は胸の痛みに耐えながら、ぼうっと猫を見つめていた。

片耳がない、片目がない猫。治しきれなかった無残な姿。失ったものがあるなんて、教えなければよかったのだろうか…でも、教える事で、錯乱して───自分が殺されてしまえば、償いになるのでは、と望んでいた。

だがそれでもこの猫は、ましな姿なんだ。

「ずっとこんなザマの俺を相手にしていたのか…」

「え…」

猫が潰れた片目を、小さな手で隠す。

「気持ち悪かっただろ」

「そんなことないわ。ただ…」

少女は改めて目をそらす。

魔物である猫の治癒力を信じ、包帯などで圧迫するのを避けたのは失敗だった。やはり一度『ああなった』のでは、自力で治すことなど不可能だったのだ…頭の隅では理解していたのに。

「後で、ちゃんと隠してあげるわね」

「そうしてくれ。頼むよ」


猫の声色は、数分前に比べて随分と穏やかだ…少女は気づき、もう一度猫を見る。

片耳のない、片目のない、

一度死んだ、

猫の男が、ふっと笑う。

「まあ、少しは魔物らしい見た目になったんじゃないか?」

呪いを振りまくと噂される猫の低い声は、少女に安らぎを与えた。

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