第2話 目が覚めて

猫くん…そう呼んだ兎の少女は、安堵したように笑みを浮かべた。

猫は戸惑った。

知らない女だ。会ったこともない、見知らぬ女。なのに彼女は、心底安心したような微笑みを猫に向ける。

何者だ。

猫は尻尾を逆立てたまま、少女の顔を見つめた。

「あんた…だれだ…」

声がうまく出ない。舌が縺れる。

発声する度に喉に異物感を感じる。

見下ろす兎の少女の表情が少し曇った。

「やっぱり、後遺症が残るのかしら…」

「こういしょう?」

問い返すと、少女は首を横に振る。

「いいえ、何でもないの…」

少女はしばらく顳顬を押さえ、考えるような仕草をしてから、すっと猫の側にしゃがみ、目線を合わせる。

猫はもう一度威嚇の構えをするが、より近くに花の香りを感じて、牙が伸びない。

「落ち着いて。何もしないわ」

「しんよう、できるかよ…」

「信用してちょうだい。敵意はないの」

「てきいがねーなら、さついはあるんじゃ…ごほッゲホッ…」

声を出せば喉が痛む。猫はひどく咳き込み、ついには床に突っ伏した。

痛い。喉も、頭も、目も、腕も。痛い。

目の前の知らない女が猫を見下ろす。

「あんた…おれに、なにをした…ゲホッ」

少女が戸惑う。焦る。

「何も…いいえ、その…」

口ごもる。

猫は悶えながら睨みつけた。

女の挙動は明らかにおかしい。

敵意はなくとも殺意はある…どこかの誰かからそんな科白を聞いた気がする。こいつもそういう奴だ。

こいつが俺に何かしたんだ。俺の違和感のすべてはこいつが元凶だ。

やられる前にやらなければ。

逆立った猫の尻尾が妖しく光る。

やられる前に、やってやる───


「ごめんなさい、これを!」

「がっ⁉︎」

咆哮に開いた猫の口に、

少女が何かを突っ込んだ。

それから無理矢理口を閉ざされ、得体の知れないそれを飲み込むように促される。

「んぐ、ぐ…‼︎」

「お願い、飲み込んで。これでだいぶ楽になるはずだから…」

細い管から、苦くて渋い液体が垂れてくる。

猫は呻いて吐き出そうとしたが、少女に口を押さえつけられ行き場がない。

反射的に、飲み下した。

ごく、と猫の喉から嚥下の音が聞こえると、少女はゆっくりと手を放した。

「かはっ、げはっ、ぅえっ…」

咽せる猫は、飲み込んだものが毒だと判断し、舌を突き出して吐き出そうとする。

「げっ、ぐ…げっ…」

「だめ、吐き出さないで!」

その口を再び少女が塞ごうとする…猫は怒り、その手に噛み付き、少女に吠えた。

「あんたは俺を殺したいのか、俺があんたに何をした、あんたは何者だ、答えろ‼︎」


…怒鳴りつけてから。

猫は、声がすんなり出るようになった、と気がついた。舌の縺れもなくなり、喉の痛みも、体の痛みも、少し和らいだと感じた。

ぱちぱちとまばたきをし、少女の顔を見る。

少女は、怒鳴られたにもかかわらず、穏やかに笑っている。

「どうかしら。楽になった?」

楽になった。

素直にそう思った。

猫は呆然とする。

「わかってもらえたかしら…私は、貴方を傷つけるつもりはないの。私は貴方を…」


「貴方を助けたいの」


猫は呆然とする。

本当はわかっていた。さいしょから。

草花と土の香りを纏うこの兎の女には、はじめから敵意もなければ殺意もない。わかっていた。

けれども信用できなかった。

信用していたが。信用したかったが。

受け入れられなかった。

そんな優しさなど向けられたことがなかったから。

傷つけられ、奪われ、虐げられてばかりいたから…その逆も然り。傷つけた、奪った。殺したこともあった。

だから。

この女も。


だが、この女は。


「俺は、どうしてここにいる…」

猫はぽつりと問いかけた。

不安だった。

どこかまだ少女を信用しきれないのもあるが、最優先に、自分について聞きたいことがたくさんある。

痛む身体。曖昧な記憶。ここに居る経緯。

何もわからない。

猫の目をじっと見つめた少女は、少し複雑そうに唇を閉じてから、ひとり頷いた。

「えぇ。貴方について知っていることはすべて話すわ。ちょっと場所を変えましょうか」

そう言って、少女は猫に手を差し出す。

猫はその手を無視し、自力で立ち上がった。

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