異形


 先に言っておく。オレはここのOBだ。

 ここは家が近くて楽だったが、卒業後は都内の高校。

 当然、電車での移動が必須になるし、登校時間はだいたい混んでいる。

 アレはこの世の地獄だ。狭い箱の中に詰め込められて、体に纏わりつく湿気と熱気を我慢しながら、不快な圧迫感と閉塞感に耐えるんだぜ?

 自分が選んだ学校だから行ってるけどさ……愚痴になるから割愛するわ。

 んで。そんな炎天下の登校中の話だ。

 電車の入り口辺りに立って、スマホをいじってたら、すげー勢いで男が乗り込んで来たんだ。所謂、駆け込み乗車ってやつだな。

 雨に降られたのかってくらいワイシャツが汗でずぶ濡れでよ。

 電車に乗るなりその場で顔をハンカチで拭き始めたが、拭き終わる前にハンカチが音を上げた。

 それくらいならまあ、どうしたって暑いんだからお互い様だ。

 ふぅ~とか言って吐いた口が生臭いのは正直イラついたけどな。

 ま、その程度で声を上げるなんて狭量でもねえし。

 トラブルを起こす気力もなかったから、スマホに視線を戻して、停止させていた動画の再生ボタンを押した。

 軽快な音楽がオレの鼓膜を震わせる。

 画面では、剣を持ったキャラクターが溶岩の中を泳ぐ鰻みたいなモンスターと戦っていたっけな。

 その動画のお蔭で、オレはあいつを倒せたんだ。

 まあ、それも後の話なんだけどな。

 わざとらしい咳払いの不快な音が聞こえたが、画面から目は逸らさないでやった。

 じっと画面だけを見続けた。右手に流れる景色にも目もくれず。

 窓を流れる景色も毎日だと流石に見飽きていた。

 次は■■■駅、次は■■■駅、お降りの方は右です。

 って感じで、オレが降りる駅のアナウンスが流れる。あ、今の上手かったか?

 まあ、オレはそれを聞くと安心するんだ。やっとここから解放されるってな。

 ブレーキに備えていつものように足先に力を籠める。

 キキィーと甲高い音を立てて電車が停まる。

 オレが体勢を整えてすぐ右隣の扉へと体を向けると、ピンポーンピンポーンと機械音と共に壁が開き、人でごった返したホームからカラッとした熱気が顔面に叩きつけられた。

 それに顔をしかめながらも、オレは後ろから押されるように電車から降りた。

 人の流れに身を任せ、いつも通りホームの端を歩く。

 電車は扉を閉めると、次の駅へ向かって走り出した。

 すこし近づけば、その勢いに体を持っていかれる。

 だが、それでもオレは手の平の画面から目を離さなかった。

 画面をすこし前に出しておけば、多少前が見えるから問題ないってな。

 イアホンももちろん外さない。

 意味のない騒音なんか聞いても仕方がないと思っていたし、聞きたくなかった。

 いつも通りの慣れた通学路。なんでもない登校風景。

 今歩いているのは特に何も起きない退屈な道で、スマホを見ながら歩いても何も起きない。

 思った通り、何事もなく電車は通り過ぎた。

 危なくない。オレがそうタカを括っていたからだろう。

 前から右肩に衝撃を覚えた時には、既に体が回っていた。

 上半身の動きに足が追いつかず、体勢を崩し、ホームの外。

 このままだと線路に落ちる。頭の中に最悪な光景がよぎる。

 湧き出した恐怖が心臓を瞬時に鷲掴みにする。

 四肢に電気のような痛みが奔り、脳が上から押し潰されるような不快感を覚える。

 だが、その感覚が今の状況を鮮明にしてくれていた。

 オレはその瞬間が今までの人生で一番、自分の体を支配出来たんだ。

 右足に意識を集中させ、半歩後ろに退く。咄嗟に出来る唯一の抵抗。

 そのおかげで線路に落ちる事だけは避けられた。次に湧き出したのは怒り。

 人の流れに逆らって来たクセに、ぶつかってきやがったそいつがまだいるであろう後ろへと振り向いて、オレは語気を強めて言い放った。

 おいっ! ってな。だが、その声はオレ以外の誰かに届く事はなかった。

 これから訳わかんねえと思うが、全てオレの体験した事実だ。

 お前らがどんだけ胡散臭えと納得しなくてもいいが、そういうもんだと理解してくれ。

 いいか? じゃあ続けるぞ。オレは変わらずホームに立っていた。

 だがな、色々とおかしいんだ。雲一つない快晴だった空がうっすらと暗い。

 いつも目の前にある階段はなく、走っても数分かかりそうな遠くに。

 イアホンから流れていた音楽もなぜかピタリと止まっていた。

 だが、そんな事どうでもいいくらいに、より大きな変化があった。

 人が、いないんだ。オレ以外の誰一人。

 さっきまで溢れる程いた人はどこにも見当たらない。

 まるで元からオレ一人しかいなかったかのように喧騒はどこかに消え、ホームのスピーカーから流れる耳障りな不協和音だけが辺りに響いていた。

 ふと手に握っていたものを思い出し、縋る思いでスマホの画面を見た。

 画面は電源が切れたかのように真っ黒で、ホームボタンも固くなり、電源ボタンを何度長押ししても、電源が点く事はなかった。

 顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。

 追い打ちをかけるように、遠くからなにかが聞こえてくる。

 えほこ、みすか。

 こぢす、きみみ、きみむ。

 子ども中性的な声。かなり小さな声。

 それが音楽が流れていないとは言え、イアホンを付けている状態で聞こえた。

 周囲を見渡すが誰もいない。だが、次第に気味の悪い騒めきが近づいて来る。

 遊んでいるような子どもの声に、バタバタと大人の足音が混ざってるんだ。

 この場にいちゃいけない気がして階段へと走ろうとするが、足の裏が地面に張りついたように動かない。

 両手で膝の上を握り、どうにか足を上げようとしてたら――

 うきえほこぢすかけみすかけむ。

 うきえほこぢすかきみみすかきみむ。

 イアホンなんて関係ない。耳元で聞こえた。

 マジで何を言っているのかわからなくてうろ覚えだが、そんな文字列だったはずだ。

 それが少しもせずに増え、輪唱を始めた。足は上がらない。

 だからずーっとその声を聞かされていたらさ、声が大人の男のそれになって。

 うきえほこぢすかけみすかけ目隠し目隠し何処へ行く。

 急に。うきえほこぢすかきみみすかきみ耳隠し耳隠し何処へ行く。

 なにを言っているのか、わかるようになった。

 こういうのって、変だよな。この時になってやっと、足が上がった。

 無我夢中で階段に向かって走り出した。

 そんなオレを耳元の声が笑うんだ。無邪気な子どもの声で。

 後ろから足音も追いかけてくる。

 火事場の馬鹿力って本当にあるんだな。

 オレはあの時が人生で一番速く走れたし、階段に着くなり疲れも忘れて一気に駆け上がった。

 人がいないのはホームだけで、この先の改札口には人がいるかも、いや、いないはずが無い。間違いなくこの先には人がいる。

 なんてうっすい希望を持ってな。

 階段を上り切った先は、元から何も無かった様に、壁になっていた。

 そびえ立つ壁と低い天井が影を作り、言い得ぬ圧迫感がそこで居座っていた。

 階段の下から、笑い声と足音が近づいて来る。

 焦りの矛先を失ったオレは、壁へと拳を叩きつけた。

 鈍い音。拳の痛みなんて気にならない。

 この状況をどうにかしないといけないのに、打開策が出て来ない。

 そこで気がつく。あの笑い声が、足音が聞こえない。

 一度振り返ろうとしたが、すぐに止めた。

 こういう時って、振り返ったらいる事が多いだろ?

 だから止めた。でもさ、気になるんだ。

 怖い物見たさって言うよりは、首が、顔が、目が勝手にそっちに向くみたいだった。

 それを振り払うように悪態を吐いた。かなり息も上がっていた。

 熱気と湿気が籠っているのか、息を吸うのがきついんだ。

 まるで周りの空気全てが接着剤の様に粘性を持ち、それを無理矢理飲み込んでいるような不快感って言えばわかるか? わからないか。

 まあ、それでも何とか息を整え、頭を動かそうとする。

 だけどな、わからないんだ。記憶がぶっ飛んだのかってくらいに。

 オレがなんで・・・ここにいるのか・・・・・・・すら、わからなくなっていた。

 いや、登校のために電車に乗っていた事を忘れていた、と言った方が、わかりやすいか。

 とにかく、オレは胸の奥底から湧き出る焦燥感の中で、思考がまるで定まらない状態に陥っていた。

 そんな時だ。その音が聞こえたのは。

 トンネルを風が吹き抜ける不気味な音のようにも聞こえれば、女性の歌声のようにも聞こえる音。

 それが、階段の下から聞こえていた。

 心臓が破裂するのではないかと思うほど早打ちをし始める。

 貧血のように頭がぼんやりとし、整いつつあった呼吸が乱れ、重たい空気が腹から逆流しそうな気持ち悪さを感じる。

 そしてなによりも、早くここから離れないといけない。

 そうなにかが訴えてくる。ぴったりと地面と接着していた足をむりやり持ち上げ、階段を下りようと意を決して振り返る。

 そしてそれを見た。それは階段の下から俺を見上げていた。

 オレは腰を抜かし、壁に倒れ込んだ。

 だが視線だけは、それがいる階段から外す事が出来ない。

 木材が擦れ合うような音で、一歩ずつ近づいて来る。

 オレはとにかく立ち上がろうと腕に力を入れ――わからなくなった。

 訳わからないだろ? オレもそう思う。だけどマジでわからなくなった。

 今までどうやって立っていたんだ? ってな。

 逃げる理由も。背中に背負っている物も。指の動かし方すら、わからない。

 まばたきも忘れたオレの目に、左右に体を揺らしながら階段を上って来たその異形の姿が映った。

 うす暗いにも拘わらず、いやに鮮明に見えた。

 百八十センチはある細い木の枝を何本も束ねて捻じったみたいな歪なヒトガタ。

 顔の部分に目や鼻はなく、まるで木のウロの様にぽっかりと闇が開いていたことだけ覚えている。

 その闇の中から音がする。それが何を言っているのかわからない。

 どうすればいいかもわからない。

 むせ返りそうな程に胸の中で沸き上がるものもわからない。

 背中と額に流れる液体も、目から滲み出る液体もわからない。

 空気を求めて、まるで陸に上げられた魚の様にぱくぱくと口を開閉させる。

 心臓は最早痙攣しているのではないかと思うほど速く拍動していた。

 オレの側に辿り着いたそれは、音もなく倒れ込むように顔を近づけてきた。

 ねっとりとした息が顔に纏わりつく。

 ツンとした刺激臭の中のあらゆる腐臭を凝縮させたような臭いが頭の中を侵す。

 両腕で顔を挟まれると、あらゆる音がなくなってしまったように、オレの呼吸音も、心臓の音も、なにもかもが聞こえなくなった。

 目の前のそれの顔に開いた闇が大きくなっている気がした。

 まるでゆっくりと口を開けているようだった。

 オレはただじっとそれを見ていた。

 ぐぐぐとヒトガタが首を反らす。

 突然異形の動きが止まり、次には大きく開けられた闇が迫って。

 あぶねえだろうが気を付けろ! 耳に飛び込んできた男の怒号で我に返った。

 軽快な音楽と聞き慣れた男性の声を耳にしながら振り向くと、ガラの悪そうな男が俺の背中を支えていた。

 その後ろでは迷惑そうな顔をした人達が俺達を避けて通っていた。

 ぼっとしてんじゃねえぞ! と背中を叩かれる。

 去って行く男の背中を、しばらくオレは呆然と見つめていた。

 ふと、スマホの画面を見る。

 後十数分でホームルームが始まる時刻だった。

 オレはスマホを見ながら、また歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る