お風呂で呼んでいます


 俺は俺が生まれて早くに母親が死んでいて、父親と兄が二人の計四人で賃貸のアパートに暮らしている。

 これは今年の五月の半ば、梅雨真っ只中にそのアパートで起きたものだ。

 その日は天気予報で晴れと言っていたが昼頃から霧雨が降り出し、部活が終わって帰る頃には、大粒の豪雨になった。


「あるあるだねー」


 俺の置き傘は誰かに使われていて、傘無しで六時頃の薄暗い雨の中を走って帰った。


「悲しいあるある……」


 家に入るなり帰宅中に靴紐が切れた靴を脱ぎ、部活で濡れたユニフォームを鞄から出し、鞄を玄関に置き、風呂に入りに脱衣所に向かう。

 そしたら、その声が家の中で響いた。

 お風呂で呼んでいます、と。

 それは浴室にリモコンが付いていて、そこの呼び出しボタンを押す事で、キッチンのパネルから流れる音声だ。

 それが、俺が帰ったタイミングで、鳴った。

 それにこれは通常、明るい呼び出し音の後に音声となる。

 だが、今の音声の前にはそれがない。

 玄関の靴を見れば、俺以外はみんな外出中だ。

 さて、ここで少し話をしたい。それは、俺の家にある一つの決まりについて。

 今の音声が誰も風呂場にいない時に鳴ったなら、風呂場に行ってはいけない。

 これが、俺が住んでから四年間続く決まりだ。

 大家さん曰く、前の住人はこれを理由にすぐに引っ越してしまったらしい。

 ただ、今までは深夜や早朝の風呂に入らない時間帯ばかりだったから、まるで気にしていなかったし、あまり重要視していなかった。


「え、四年間の重みは?」


 正直なところ、濡れたまま過ごして風邪を引くなんて事があった時の方が、怖かった。

 ユニフォームを洗面台に置き、服を脱ぎ、洗濯機に入れ、風呂に入る。

 プラスチックの座椅子と洗面器、滑り止めと水捌けに考慮された床、縦長の鏡、二人程度なら並んで入れる風呂、変わらぬ風呂場だ。

 栓を捻り、シャワーを頭から浴びる。

 まだ水だったが、雨で濡れた体では心地が良いくらいだった。

 座椅子に座り、全身を洗っていく。

 泡を流した所で、一度ユニフォームの泥を落とそうと、俺は顔を上げた。

 その時、風呂場の磨りガラスの扉が、叩かれたんだ。

 ゴンゴンゴンと拳で三回。

 誰かが帰って来たのかと、俺は扉へと顔を向けた。

 すると、磨りガラス越しに、おそらく赤い服を着た背の高い女が見えたんだ。


「うっわ」


 顔は長い髪なのか、黒くて見えなかった。

 その女が、次第にその黒い顔の部分を磨りガラスに近づけていく。

 髪を退けたのか肌色が見えたと思えば、次には黒い目と赤い口が見え、笑っているのがよくわかった。

 俺は、その日初めて覗きというものに遭遇した。


「は?」


 鍵を日常的に閉めていないとは言え、まさか自宅で覗かれるとは、思いもしなかった。

 あの呼び出し音は、俺を風呂に入れさせて、覗くための罠だったんだ。

 俺は女を問い詰めようと、扉を開けた。

 すると、そこには、誰もいなかった。何処かへ逃げたんだ。

 玄関の扉の音が聞こえていない事から、まだ家の中にいるはず。

 そう思い、俺はタオルを腰に巻き、家中を探した。

 と言っても、風呂場を含めて部屋は四つ。それ程時間は掛からない。

 だが、何処にもあの女の姿は無かった。

 ならば警察に連絡をしようと、俺は電話に向かった。

 玄関の扉が開いた音が聞こえ、視線を玄関へ続く廊下へと向けると、急いで来たのか息を切らせた俺の彼女の……そうだな、K子だった。

 K子にどうしたのか、と聞かれ、すぐに説明しようとしたが、念のため服を着て、家の外に出てから、今までの事を話した。

 すると俺が帰宅してから誰も俺の家に出入りしていなかった、とK子は言った。


「え?」


 ならばやはり家の中に潜伏していたかと思えば、俺が入浴中も、誰も家の中にいなかったらしい。

 これは俺たちの手に余ると判断し、父親に電話した。

 二度目の電話で父親に繋がり経緯を説明すると、警察を呼び、家の中を捜索してもらう事になった。

 警察が捜索を始めてから一時間程経っただろうか。

 急に家の中から警察と思われる怒号が響き、静かになる。

 警察に両側を抑えられて家の中から出て来たのは、黒い革のジャケットを着た不敵な笑みを浮かべる男だった。


「ちょ……」


 後から警察に聞いたのだが、あの男は殺人事件の重要参考人として捜索中だったらしい。

 押入れから上った天井に潜伏していて、衣類や食料、それと凶器がその場で発見されたとの事だ。

 これで、俺の話は終わりだ。

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