最終章 契約
第125話 沈黙の季節
メトロズの選手や首脳陣は、大方がこっそりと本土に帰還した。
そしてマスコミから隠れるように、球団との交渉を行う代理人と出会う。
投手陣はまだしもバッターは、まず最初に愚痴のような文句のようなことを言われた。
「シーズンの公式戦以外に出るから」
代理人としても困るのだ。
これでおそらくアメリカはますます、WBCにトップレベルの選手を出すことはなくなる。
MLBとしても下手な選手を出して、決勝などでパーフェクトされることを考えたら、とにかく出したくないのは分かってしまう。
直史はあの試合、たった一度でMLBの価値を破壊してしまったと言っていい。
まだしも三試合ほどをやって、負け越すのでもよかった。
だがたった一度のエキシビションで、ワールドチャンピオンがジャパンチャンピオンに負けるとは。
名ばかりのワールドチャンピオンであると言われるが、そんなメトロズが勝ったのは114勝と歴代でもトップクラス。
間違いなく打撃のチームとして、王座に君臨したのだ。
しかしハワイでのエキシビションマッチが、全てを塗り替えた。
単に負けるだけなら、気合が抜けていたなと笑い話にも出来る。
だがワールドチャンピオンが、パーフェクトで抑えられるなどあってはいけない。
ありえないのではなく、あってはいけないのだ。
別に今までにも、日本人ピッチャーにノーヒットノーランをされたことはあるだろうに。
エキシビションなのだから、気を抜いていたというのも仕方がないとは、あのワールドシリーズを戦った人間なら言えるのだ。
大介がMLBの記録を、蹂躙した後だったというのも大きいだろう。
その大介さえもが封じられたのだから。
大介からしてみると、直史に負けるのは慣れているのだが。
その度に強くなろうという意欲が湧いてくるので、下手な内野安打やポテンヒットなどにならなくてよかったとさえ思える。
そんな大介はメトロズのGMビーンズに呼び出されていた。
来季の契約の話だと聞いている。
セイバーのアドバイスは、ここで目先の金に飛びつくな、というものであった。
乗せられることを憂慮して、大介は同行者を選んでいる。
嫁を二人ほど。
バカにされているのか、とは思わないビーンズであるが、それでも大介の意図がいまいち分からない。
「代理人でもなく、パートナーを連れてきたのか」
「まあうちの財務と法務を管理してるのが、この二人なので」
ビーンズはこの二人のことを知ってはいた。
イリヤの最期に立ち会った人間として。
しかし夫の財産を管理しているとなると、同席するのもおかしくはないのか。
MLBに限らないがスーパースターというのは、女をトロフィーのように考える人間がいる。
女にしてもそこはしたたかに、男を金として見たりする。
離婚して莫大な慰謝料を手に入れる女は、確実に試合で対決する敵よりも、恐ろしいものだろう。
ビーンズも離婚は経験しているだけに、この妻を二人持つという大介の状況は、どちらを誉めるべきか分からなかったりする。
一人の男を成功させるために、二人でいる女の方か。
それとも単なるトロフィーではなく、パートナーとして二人を選んだ男の方か。
とりあえず大介には、女で失敗してほしくないビーンズである。
さて、では契約の話である。
「シライシ、君との来年の契約は、最大で1800万ドルにインセンティブだが、これを破棄して新しく契約を結ぶ気はないかね?」
「……だって」
通訳をしているのは杉村ではなくツインズだった。
いつの間にやら専門用語まで、ほぼ学んでいるツインズである。
事前に聞いていた通りである。
「まあ条件次第だよな」
そしてビーンズは、書面にして大介に条件を提示した。
五年契約で二億ドル。
単年換算すると、MLBでもこれを上回る者は二人しかいない。
ただツインズはそんなところはどうでも良く、付帯している条件を読んでいく。
すぐに分かるのは、インセンティブが減っているというものだ。
ただしこれはインセンティブを入れてさえ、元の契約よりははるかに高い。
今年と同じ結果を出せたとしても、大介の来年の年俸はこの金額を超えない。
さらに以前ほどではないが、インセンティブがついているのだ。
これはいい契約なのだろう。
ビーンズは別ににやけた笑みを浮かべているでもなく、真剣にこちらを見ている。
「あ~、事前の予想通りだから、お前ら説明して」
丸投げする大介であった。そして嬉しそうに丸投げされるツインズである。
「ミスタービーンズ、実は私たちはこういった契約を出されるかとも思っていて、事前に話し合っていました。そしてその予想の範囲内でしたので、ここからは少し私が話させていただきます」
桜はそう前置きして、ずばりと切り込んだ。
「単年4000万ドルで構いません。ただインセンティブの上限を上げてください」
さすがに眉をしかめるビーンズである。
「三年目にオプトアウトの権利があるが、これを見逃しているわけではないのかね?」
「私の愛する人は、情熱的なので一年ごとに厳しい条件で契約をしたいのです」
「おい、お前今、なんか変な呼び方しなかったか?」
「気のせいだよ」
同席していた杉村が、苦笑していた。
ビーンズとしては単年契約を結ぶことの利点が、あまり考え付かない。
確かに今年と同じ成績を来年も残せば、さらに高い単年契約が結ばれることも考えられる。
だが本当に大介は、今年のようなパフォーマンスを残し続けられるのか。
リスクがないとモチベーションにならない。
大介は本質では、ギャンブラーなのかという印象をビーンズは抱いた。
「考慮に値するが、インセンティブの増額までは難しい」
再来年の年俸を、4500万ドルにしたいのかな、とビーンズは想像する。
確かに今の大介なら、それだけを出しても欲しがるところは多いだろう。
「だが単年契約だとそもそも、1800万ドルにしてしまった方が、球団としては出費が少ないのは分かるかな? 複数年で君を拘束できるからこその、この金額だ」
これはその通りで、つまりメトロズは、大介が故障離脱などをしない方に賭けたのだ。
大介をコアにして打線は整備する。
21世紀以降は存在しなかった、王朝を築き上げる。それだけの野心が今のメトロズにはある。
五年というのは長すぎるな、と大介は思うのだ。
しかし確実に戦力を確保したいという、編成側の考えも分かる。
「三年9000万ドルでインセンティブというのはどうでしょう?」
「それなら……多少はオーバーするが、なんとかなるか計算しなおしだな」
「なんなら分割払いでも構いませんよ」
「それなら助かる」
大介の話さないところで、その契約が決まっていく。
なるほどツインズは、大介の代理人であった。
杉村はそれを見ながら、こっそりと大介に囁く。
「尻に敷かれてるね」
「敷かれてやってんだよ、俺が」
精一杯の強がりであったろう。
エキシビションマッチでとんでもないケチがついたが、それはそれとして今年の大介の成績である。
様々なタイトルを獲得し、表彰されることになった。
・新人王
・首位打者・打点王・ホームラン王(打者三冠・日本での俗称)
・盗塁王
このあたりまでは分かりやすいタイトルであるが、次がシルバースラッガー賞。
これは各ポジションの選手の中で、一番優れたバッターに与えられる賞である。
つまりポジションごとに一人いるものなのだ。当然ショートでは大介である。
そして次にハンク・アーロン賞。
リーグから一人ずつ、その年に最も活躍したバッターに与えられる賞であり、当然ナ・リーグでは大介が選ばれることとなった。
打者のサイ・ヤング賞のようなものであるが、走塁や守備といった要素は入っていない。
リーグから一人ずつなのでア・リーグからも一人選ばれるのだが、大介と比べてはいけない。
ベーブ・ルース賞。
ワールド・シリーズで最も活躍した選手に贈られるもので、これは実は負けたチームから選ばれることもある。
だが大介は16打数8安打の4ホームラン、6打点、14得点
打率や出塁率やOPSが恐ろしいことになるので、選ばれないわけがなかった。
そしてシーズンMVP、既に選ばれていたがリーグチャンピオンシップMVP、ワールド・シリーズMVP、ゴールドグラブ、オールMLBチーム。
あとは新聞社などが主催する色々な賞にも選ばれたりして、とにかく今年は大介の年であった。
そう、あのエキシビションマッチまでは。
とりあえず条件を詰めるためと、一度では契約更改を終わらせなかった大介であるが、その間に日本で重大なニュースがあった。
直史のポスティングである。
つい先日、ワールドチャンピオンをパーフェクトに抑えたピッチャーが、MLBの市場に出てくる。
まだMLBの球団は来年の編成の途中であったために、各種の契約の交渉が止まってしまった。
大介の場合もそれは例外ではない。
直史の実力を過小評価するのは、さすがに厳しい。
とにかく先発が足りていないチームは、一斉に食指を伸ばした。
そしてその中で一番、早く手を伸ばしたのがアナハイム・ガーディアンズである。
ロスアンゼルス近郊の都市アナハイムに本拠を置くガーディアンズは、MLBの中でも屈指の人気球団ではある。
また資産価値も高く、ほぼワンマンのオーナーという点では、メトロズと似たようなところがある。
日本からのポスティング選手で、その入札金が5000万ドル。
貧乏球団では手が出せない金額である。
だが、それでもあのエキシビションで見せたパフォーマンス。
それを抜きにしても、プロ入り後の二年で見せた圧巻のピッチング。
今年のNPBの全てを制したといえる能力。
MLBでも対応できそうな、中四日でのピッチング間隔。
動かないはずがなかった。
直史の動きは異常なものであった。
裏事情を知っている大介はともかく、アナハイムの動きも早すぎた。
だがその契約内容が明らかになると、アナハイムも相当に奮発したな、とは思われた。
来年29歳のピッチャーに、三年3000万ドルとインセンティブ。
確かに働き盛りではあるが、日本でのプロ経験でも、二年しか稼動していないのだ。
そのあたりアナハイムには、契約を破棄できる条件もあったりする。
ならば故障で戦力外となることを考えれば、決して悪い条件ではなかったのだろう。
むしろ直史はもっと時間をかければ、さらにいい条件を引き出せたかもしれない。
今年メトロズにぼろ負けに負けたチームなどは、大介を封じるために、直史を必要としただろう。
大介の契約はそれからようやくまとまったのだが、ビーンズは義理の弟である大介に、さすがに問いかけた。
「このこと、君は知っていたのかね?」
「もちろん。俺がこちらに来る前、あいつがプロ入りするときに、俺がMLBに来たら次の年にはあいつも来るように言ってましたんで」
「なんやそれ!」
もちろんビーンズが関西弁で叫んだわけではないが、出身地の訛りが出てしまっていた。
大介は、強いピッチャーと戦いたがりすぎる。
それは承知のビーンズであったが、まさかあんな規格外の存在相手でも、その戦意は失われないのか。
むしろ負けるごとに、よりワクワクてかてかとするのが大介だ。
その大介の横で、嫁二人もニコニコしている。
頭が痛くなるビーンズであったが、考えようによってはまだマシだ。
先発ピッチャーの役割は、シーズンの中ではやや価値が低下する。
どれだけイニングをしっかり投げられるかで、その価値が決まるのだ。
MLBのシーズンの日程で、さすがにあのピッチングが出来るとは思わない。
なおNPBに入るときも、そんなことを言われていたのを、ビーンズは知らない。
それに、リーグも地区も違う。
「まあ当たるとしたらワールドシリーズだけだから、そこは気分が楽と言えば楽か」
「え?」
「ん?」
「いや、当たるとしたらワールドシリーズだけって、インターリーグは?」
「……今の制度だとア・リーグ西地区のチームとは当たらないようになっているが?」
昨年、シアトル、アナハイム、オークランド、テキサスと一度もメトロズは対戦せず、唯一ヒューストンとだけワールドシリーズで対戦した。
つまり、そういうことである。
これからもずっとそういうパターンかは分からないが、リーグも違ってしかも距離がある西地区とは、カードが増える可能性が低い。
たとえ対戦があったとしても、先発相手ならば年に一度程度。
対戦の機会は少ない。
「し、知らなかった……」
「どうして気づいてないんだ……」
呆然とする大介に、愕然とするビーンズである。
ただ、ツインズはけらけらと笑っていた。
「でもこれで、ワールドシリーズで対戦するしかなくなったね」
「まさに世界一決定戦だよ」
なるほど、そういう考え方もあるのか。
年に一度か二度の対戦だと、圧倒的にピッチャーが有利だろいうことは置いておいて。
大介にとって、そして実は直史にとっても、不満であったこと。
それは両者の対決が日本シリーズではなく、クライマックスシリーズにおいてなされたことだ。
正直なところ直史は、去年の日本シリーズは、クライマックスシリーズの搾りかすで戦っていた。
それであのピッチングなのだから、なお恐ろしいことになるが。
ツインズの言葉で、前向きになれる大介である。
メトロズは来年も連覇を狙うべく、戦力補強は積極的なのだとか。
大介が短い契約にしただけに、そこで使える補強の資金が増えたのだ。
特に今年は先発が崩れることが多かったため、そこを補強する必要があるだろう。
もっともそれは共に戦ったチームメイトとの、別れも意味するのであるが。
MLBはビジネスライクだ。
チームの中で一緒に戦っても、今年の友は来年の敵。
下手をすればトレードデッドラインで、昨日の敵は今日の友、という場合さえありえるのだ。
「大丈夫だよ」
「お兄ちゃんとなら」
何が大丈夫なのか、大介は問い返しはしない。
なんとなく、本当に大丈夫だとは思える。
同じチームから道は分かれた。
代表の壮行試合でわずかに対戦することはあった。
だがあれが最後だと思っていた。
しかし実際は野球の神様がそう望んだように、二人の対決ややってきたのだ。
まさかアメリカにまで来るとは思わなかった。
だが野球発祥の地で、二人は対決する。
おそらくワールドシリーズで、対決は実現する。
それはもう、願望ではなく確信であった。
「そのためには俺も頑張らないとな」
これ以上頑張ったらどうなるのか、ビーンズは味方ながら恐ろしくなったが。
その年の最後の対決を、直史との対戦で〆る。
そして勝つ。
大介にとっては、非情に分かりやすい目標だ。
(つーかあいつ、決定的な場面で最後に負けたのいつだ?)
大阪光陰と初めて対戦した、あの天候に負けた試合か。
あとはスタミナ切れで神奈川湘南にも負けたが、あれは自分が投げている間は負けていなかった。
トーチバとの対戦では、既にビハインドの状態であった。
勇名館や春日山との敗北では、他の選手のミスや、直史が登板していなかったりする。
大介が知る前の直史は、負けてばかりであったそうな。
逆に知ってからは、ほとんど負けていない。
つまるところ、直史が負けた試合は、ほとんど映像にも残っていないのではないか。
「燃えてきた」
ふつふつと闘志をたぎらせる大介。
それに対してニコニコと笑うツインズ。
GMのビーンズや同席していた杉村は、どうしてあそこまで完璧に負けて、まだ戦おうという気になれるのか不思議である。
スポーツ選手というのは、徹底的な負けず嫌いであるのと同時に、マゾなのであろう。
でなければそんな、負ける可能性が高い戦いのために、己の肉体を鍛えることなど出来ない。
「来年は五割打ったる!」
それが冗談にならないかもしれないのが、大介の恐ろしい点であるのだった。
×××
※ MLBの年俸についてですが、メジャーに上がって三年はほぼ最低年俸、そこから三年は年俸調停は得られますがそれでもまだ安く、順調にFAを取って七年目からが、天井知らずで上がっていくようになっています。
ただそれも最近は、安上がりな若手を使うことが多し。
他に代えのないほどの選手であれば、確かに莫大な年俸を得ることが出来ています。それでもNPBよりははるかに高い年俸となりますが。
大谷選手は日本で25歳まで、6年間を過ごしてからアメリカに渡れば、今頃はすでに1000万ドルは軽く越える年俸を手にしていたでしょう。
金より舞台を選んだところが、本当にすごいところです。
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