第123話 絶対零度
メトロズのベンチに、ようやく悲壮感が満ちてくる。
レックス側のブルペンが、動き始めたからだ。
ブルペンが見えるようになっているのがこのスタジアムの特徴だが、頭がおかしくなりそうな音が聞こえてくる。
球速105マイル。
現在のMLBの最高速であり、これを投げられるのは一人しかいない。
しかし日本には同じく、105マイルが投げられる者がいるのだという。
実際にはそれよりもさらに上の、109マイルが投げられているという。
さすがにそれはと思ったが、杉村以外にも日本に行っていたスカウトが、本当だと証言した。
ただ、そのピッチャーは失われてしまった。
肩を壊したピッチャーが、前のように投げられることはありえない。
技巧を身に付けまたピッチャーとして投げることはあるが、それでも失敗する場合は多い。
かつての自分の姿とのギャップに、耐えられないからだという。
ただその一人を除いても、105マイルを投げるピッチャーはいる。
サトー。
この今投げている、パーフェクトを続けているサトーの弟だという。
兄はザ・パーフェクトとも呼ばれ、弟は奪三振王。
この変化球のコンビネーションの後に、105マイルが投げられたら。
クローザーのスピードにはもう対応できない。
実際のところ直史が考えていたのは、継投ではない。
選択肢はまだあるぞと教えることによって、メトロズの集中力を武史にも割いてほしかったのだ。
少しでもこちらへの集中力が途切れれば、それだけ抑えるのも簡単になる。
スピードのあるピッチャーというのは、ブルペンに置いておくだけで戦力となるのだ。
「スギムラ、あいつはメジャーに来る気はあるのか?」
「いや、彼もないと思うよ。東京以外の球団だったら、プロ入りしないって言ってたはずから」
MLBの選手たちは不思議そうな顔をする。
基本的に最初に入る球団など、選べないのがMLBだからだ。
一番多いパターンは、奨学金をもらって大学に行きながら、三年時にドラフト指名を受ける。
そして中退してプロ入りするが、まずはマイナーのルーキーリーグから。
そこから早くても二年、平均して三~四年でメジャーに上がってくる。
もちろん高卒からマイナーに行く選手もいるが、基本的にはそれがスタンダードだ。
ただ外国人選手はちょっと違うが。
契約金などはかなり日本よりも高いが、マイナーの環境は改善された今も日本の二軍よりも悪い。
なので3Aあたりまで上がったもののメジャー昇格は出来なかった選手などは、日本にやってきたりする。
もっともそういった選手たちも、昔ほどは日本への来日をマイナスには捉えない。
いい契約が取れなければ、日本で一年ぐらいは我慢するか、ということになる。
そんな舐めくさった選手は、だいたい日本でも通じなかったりするが。
大介を見れば分かる。
日本時代から既に化け物であったが、アメリカでは日本時代よりさらに成績を伸ばしている。
シーズンの序盤で甘く見ていたということはあるだろうが、かなり休んだ試合もあったのだ。
メンタルにかなりのショックを受けたが、それでも打席に立ち続けた。
終盤に近づくにつれ、OPSは徐々に下がっていったが、それは敬遠が多くなっていったからだ。
出塁率と打率のうち出塁率など、ひどい月には六割を超えていた。
長打率が10割を超えるという悪魔のような記録。
そんなモンスターが、幼少期から見ていたMLBにおける最大のモンスターが、勝てなかったという相手。
さすがにそろそろ認めるしかない。
大介が打てないのならば、この試合はもう負けだ。
確かに最初から本気でやっていたわけではないし、コンディションもシーズン中とは違う。
だがシーズン中のコンディションで対決しても、勝てるとはとても思えない。
大介としてはもう、試合の勝敗はどうでもいい。
正確に言えば諦めている。
(メトロズはもう勝てないかもしれない)
ここにきて大介は、野球というスポーツにおける、チームスポーツではない面を思い出す。
(だが俺は負けないぞ)
バッターとして、ピッチャーを打つ。
そのシンプルな一点のみに、大介は集中する。
今日の直史があまり使ってきていないのは、割合的にはカーブだろう。
ストレートの球質は増しているが、それはコンビネーションの中で使うから。
大介ならばストレートは打てるし、カーブもカットしていける。
(やっぱりスルーを使ってくるか)
カットしたとしても、ファールで逃げるのは難しい。
だからといってウイニングショットに使われれば、空振り三振となる。
そんなところへ投げられた、初球のカーブ。
大介はこれを見逃す。
打てるかと思った瞬間に、必要以上の力が入っているのを感じた。
打ちにいったらおそらく、ファールか内野フライになっていた。
ここで初球から遅い球を投げてくるあたり、本当にこのバッテリーの相性はいい。
(それもここで見納めか)
たとえ直史が日本に戻っても、もうそれはプロ野球選手として戻るのではない。
樋口にしても次が見えている人間だけに、体を壊してまでプロにしがみつきはしないだろう。
二人の選手生命は、それほど長くはないはずだ。
大介の目標は、一つある。
50歳までプレイをしたいというものだ。
常識的に考えて、動体視力の衰えを、その年齢まではカバー出来ない。
MLBはもちろんNPBであっても、その肉体では不可能だ。
50歳のプロ野球選手がいたのは、あれはピッチャーであったからだ。
MLBでのバッターの選手寿命は、ドーピングをしなければそれほど長くはない。
超一流の選手でも、限界は40歳ぐらいなのだろう。
まだずっと先の話だ。
だが一度それを思ってからは、一打席を大切にすることにした。
二球目に投げられたのはスルー。
打てるかと思ったが、想像を上回る変化量だった。
バットの下で打ったボールは、右方向にファール。
ふと大きく息をつく。
追い込まれた。
大介を相手に、ゾーンの中に二球を投げて追い込む。
心理的な死角を突くのと、鋭く大きく曲がる速い変化球。
普通なら空振りであるが、どうにか当てるところまではついていった。
三球目は外へ明らかにボール球のスルー。
沈む球を投げたということは、内角インハイへのストレートがあるかもしれない。
まだボール球を二つ投げることが出来る。
低めのバウンドするぐらいのボールを、投げられてしまったらどうするか。
いや直史の球種の中で、そんなに沈むフォークはない。
投げてないだけで使える可能性は高いが、どのみちそんなボールなら、見極めることが出来る。
四球目は内角。
(ツーシーム!?)
変化してくることを加味して、スイングを行う。
思ったほどには変化しなかったので、打球は右方向に切れていく。
(騒がなくていい)
今のは別に惜しかったわけではない。
思ったように捉え切れなかったボールが、偶然に飛んでいっただけだ。
内角を攻めたところで、次はやはり外角か。
そう思ったところへの五球目は、内角に食い込むカットボール。
反応しかけたがわずかなボールのスピンが、それは外れると告げていた。
大介は見送って、これで平行カウントとする。
内角を連続で攻めてきた。
ここからアウトローにしっかりと決めれば、普通ならば打てないところだ。
だがそれはしてこないだろう。
なぜなら、樋口であれば打てるからだ。
(アウトローから外に逃げていくボールを投げるか?)
それなら確かに空振りするかもしれないが、そこまで大きく変化するボールなら見極められる。
そして投げられたのはインハイのストレート。
やや高めのボールは、打ってもおそらくゴロになるだけ。
フルカウントになった。
ここまで内角を攻めてきたら、外で勝負するという予想はつく。
(アウトローか)
分かりやすいコースだが、それでも普通ならそこに投げる。
この普通でないバッテリーがどこへ投げてくるのか。
大介は大きく息を吐いて、バットを握り直す。
シンプルに考える。
打てる球を、打つ。
ゾーン内に入ってこなかったら、その時はその時。
カット出来るならカットしてしまえばいい。
直史は逃げないだろう。
この舞台で大介を相手にしては、逃げようとは思わないだろう。
樋口のサインに一発で頷く。
やはりもっと以前、この打席の最初から、配球は組み立ててあるのだ。
途中の大介のスイングから、調整してくることはあるだろう。
だがバッテリー間の認識は共通している。
セットポジションから足が上がり、ゆっくりと動く。
速い球が来るな、と大介には予想が出来た。
もしも遅い球なら、おそらくはスルーチェンジ。
それならば意地でも体を残して、またカットしてやる。
この一瞬、スルーチェンジが頭に浮かんだのが悪かったのか。
大介に投げられたボールは、アウトハイのストレート。
(引きつけて左に!)
スイングの始動から、わずかなボールへの違和感。
速いのだ。おそらくこれは打っても、左方向へのファールにしかならない。
それならそれでいいのだが。
ボールが変化した。
インハイのボールを見て、大介の目はホップ量の高いストレートに慣れていた。
スイングも半ばまでいって、ようやくそれがツーシーム回転だと気づく。
しかもスピードがある。
カット。
間に合わない。
ボールがバットの下を通り過ぎる。
スルーではないが、ツーシーム。
大介の空振りの後に、ボールは樋口のミットに収まった。
フルカウントからの空振り三振。
ピッチャーとバッターの決着の仕方としては、とても分かりやすいものであった。
大介は球速表示を見る。
(153……ツーシームが?)
そうは思ったがMLBでも、ツーシームがフォーシームより速いピッチャーは存在する。
直史は違うと思っていたが、違わなかったのか。
あるいはMLBのボールだけに、そんなツーシームが投げられたのか。
変化の度合いを見れば、あれは振らなければボール球だった。
大介の心理までも見通して、振ってくるという確信があったのか。
(一応最速で154までは出るとか言ってたけど……)
凄まじくキレるツーシームだった。
MLB用の、直史の新しい武器だったのか。
ベンチに戻ってきた大介はバットを置くと、そのまま座って直史のピッチングを見つめる。
なんだかんだと粘ることは粘った。
フルカウントというのはピッチャーにとっても、追い込まれた状態のはずだ。
いや、追い込まれたからこそ、あのボール球を振らせることが出来たのか。
不利な状況をむしろ利用してしまう。
それがあのバッテリーなのかもしれない。
続くカーペンターとシュミットが、三振で打ち取られる。
大介を相手にした後も、全く不安定になるところがない。
この絶対的な安定感が、直史の武器だ。
そしてカーペンターたちも、ツーシームについて話をしている。
ツーシームは一時期、MLBを席巻した変化球であった。
そしてこれに対応できないバッターは、消えていった。
今でももちろん有効な球ではあるが、あそこまで変化するとは。
(いや、変化としてはスプリームに近いのか?)
ただスピードは間違いなく、ツーシームであったはずだが。
大介に対して投げたよりは、スピードは落ちている。
つまりあの一球だけが、本当の本気ではあったのだろう。
特別扱いはしてもらったが、それで負けたらどうしようもない。
頑張ってはみたが掌の上、といったところか。
(あとはチームメイトを信じて、もう一度回ってくることを祈るしかないか)
そう思いながら大介はグラブを持って、ショートの守備位置へと向かう。
あの時もそうだった。
WBCの壮行試合で、直史は大介との勝負を求めた。
ただあれは、大介との最後の勝負になると思ったからだ。
今とは状況が違う、と思う。
来年になればアメリカのMLBで、公式戦で対決することが出来るのだ。
大介は直史を認めている。
わざわざもう一度、ここで対決してプライドをへし折る必要は感じられない。
八回は代わったライトマンが、ヒットは打たれたものの失点は防ぐ。
しかし樋口のやる気のないスイングは笑えた。
もう自分のやることを、完全にキャッチャーだけとしてしまっている。
そこまでキャッチャーに専念した樋口から、メトロズの打線は点が取れるものか。
おそらくペレスとシュレンプが駄目なら、他のバッターでは無理だろう。
代打を出していっても、メトロズにはそこまで強力な代打はいない。
この八回の裏にヒットで出て欲しい。
得点までは望まないし、それはおそろしく絶望的な確率だと思う。
マウンドに向かう直史を見ていると、自然とそう感じる。
さっきはらしくもなく、三者三振を奪っていった。
この回はどう投げるのか。
残りのイニングからいって、もう全力で投げていっても問題はないだろう。
そもそもブルペンで他のピッチャーを準備させているのはなんなのか。
(あ~、威嚇か?)
ここまで直史が投げたのは、77球。
90球で交代することもあるMLBを考えれば、最終回はあれがやってくると考えるのか。
確かにMLBにおいても、大介は武史ほどのパワーピッチャーとは対戦していない。
いることはいるのだが、リーグが違って対戦しなかったのだ。
そのあたりを気にして、直史に集中できなければ意味がないだろう。
シュレンプもペレスも、ワールドシリーズに優勝したチームの主力であるのに。
こういった細かい削り方は、樋口によるものだろうか。
直史はマウンドの上で、そこが己の居場所であるとでも言うように、鎮座している。
本当に自分が、もう一度打順が回ってくるのを祈っているのか、大介は分からなくなってきた。
直史があえてそんな場面を演出するならともかく、チームメイトがヒットを打つなりしてくれれば。
それは自分に出来なかったことを、他の人間がやるということ。
率直に言えば、腹が立つ。
そんなことを考えるのは、間違っているはずなのだが。
投球練習をする直史は、相変わらずそのボールには力がない。
だが確実に調整は出来ているのだろう。
敗北が近づいてくる。
粛々とそれを受け止めるべきか。
MLBの選手たちには、間違いなくハングリー精神がある。
だがそのハングリー精神というのは、成功するためのものだ。
金さえ手に入れば、それでいいのだと考えているのがほとんどの選手だ。
これがベテランになってくると、一度ぐらいはチャンピオンリングが欲しいと思うようになるらしいが。
大介はもう、今年のシーズンで名誉だのなんだのは、手に入れてしまった。
あとは実現しなかった対決を夢見て、そして来年のシーズンを考える。
記録をどんどんと更新していくということは、モチベーションになるだろうか。
大介の精神は、まだ高校野球の中にあると言っていいだろう。
日本時代には色々と記録の上書きをしていったが、それはあの甲子園での試合があったからだ。
単純なプロとしてならば、どこまでモチベーションを保てていたか。
そう思うと直史は不思議だ。
あれはモチベーションとかどうとかではなく、とにかく職人的なのだ。
効率よく試合に勝つための機械。
ただその機械が、日本シリーズで四先発すれば、熱量は充分すぎるほど感じるのだが。
とにかく、あと一打席。
ここで回ってこなかったら、もう来年までそれを待たなければいけなくなる。
それをワクワクしながら待つのもいいのかもしれないが、やはり対決の場は多い方がいい。
(もしも九回の裏に誰かが出て、勝負することが出来たら)
ホームランを打てば、一気に同点にまで追いつける。
大介は祈る。
神を信じない大介であるが、野球の神様は信じている。
ひどく気まぐれなその存在は、ある場所によってはマモノなどとも呼ばれているが。
四打席目を、大介は切望する。
そんな神をも畏れぬ、とんでもないことを次々としでかすのが、直史だとは分かっているのだが。
悪魔のような樋口もいるので、むしろ人間の希望にはそちらが応えてくれるのだろう。
一般的に神よりも、悪魔の方が人間の欲望を果たすには、優れているとさえ言われているのだから。
祈りは、呪いに似ている。
大介の呪いは、果たしてどう作用するのか。
全く関心などなく、直史は自分の仕事に集中していく。
神も悪魔もどうでもよく、ただひたすら機械的に。
本当にあれは人間なのかと、たびたび言われてきたのである。
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