第107話 再び

 大介が試合を休んだのは、およそ二週間。

 妻の出産などに付き添うため、メジャーリーガーの中でも試合を休む者はいる。

 だが大介の場合はそれに加えて、妻が銃撃で重傷だったのだ。

 さすがにそんな選手をグラウンドに引きずり出して、いつものようにプレイしろとは言えない。

 むしろ二週間ほどで、よくも戻ってきたなと思う同僚の方が多かった。


 マネージャーなどはもちろん、GMであるビーンズや、オーナーのコールにFMのディバッツまで、一回以上は大介を訪れた。

 ずっと大介は病院に寝泊りしていたのだが、日本から母と、そして佐藤家の義母もやってきたため、ようやく一度は家に戻ることとなった。

 もっとも英語の会話の出来ない二人は、大介の代わりに何かをするということも難しい。

 銃撃でイリヤが死んだ後だけに、ニューヨーク全体がぴりぴりしている。

 そんな中で来られてもと思ったのだが、知っている顔が多いだけでも、安心は出来るのだ。


 実際にはハウスキーパーなどを呼んだりして、様々な準備をする。

 大介のメンタルを別にすれば、とりあえずツインズの容態も落ち着いた。

 これを見て、直史も帰国することを決めた。

 大介としては直史こそが、一番頼りになる存在であったのだが、直史にしてもただ落ち着いているというだけで、具体的に何かが出来るわけではない。


 今、自分が出来ることをするしかない。

 大介にとってそれは、妻たちの傍にいることだと思えた。

 だがツインズはそうは思わなかったらしい。

「大介君、もう私たちは大丈夫だから」

「野球を頑張って」

 二人は大介のことを、ちゃんと理解したつもりでいる。


 レギュラーシーズン終了まで、あと10試合ちょっと。

 メトロズはポストシーズン出場は決めているが、それとは別に大介の記録更新も注目されている。

 現時点でこのまま試合に出なくても、大介は規定打席には到達している。

 それに少し試合から離れていた以上、すぐに感覚が戻るかは分からない。

「大介君は、試合に戻って」

「あたしたちは、お互いがいるから」

 大介がいなくても、それまではお互いがいたのだ。

 たとえ傷ついていても、お互いに支えあうことが出来る。

 そして二人は、大介の姿をスタジアムで見たい。


 正直なところ大介は、まだ心の整理がつかない。

 だが無理やりにでも、自分で自分を鼓舞するしかないのだ。

 直史も、とりあえず二人に命の心配はないし、桜が立ち上がれるようになるのを見てから、日本に戻ると告げた。

 来年には、アメリカに渡ってくる直史。

 今は日本は日本でも、シーズンの終盤に入っている。


 イリヤの死は、NPBとMLBにおける、大記録達成を止めてしまうことにもなったのか。

 直史は冷静に状況を見て判断したらしいが、大介はまだ混乱している。

 人のここまでの悪意を受けたのは、大介は初めてであった。

 もちろん大介本人ではなく、イリヤやツインズこそが、その悪意の犠牲者なのだが。




 直史がアメリカを発った日、大介もチームに合流した。

 ただ遠征中のチームの合流するのではなく、練習に復帰したのだ。

 調整用のマイナーのチームに合流し、練習を重ねる。

 その間にチームも、大介をまたロースターに戻す手続きを取る。


 久しぶりに振るバットは、ひどく重かった。

 そしてそれを振るう自分の肉体も、バットの重さに振り回される。

「下手糞になってやがんなあ」

 自嘲の笑みを浮かべながらも、まずは大介は素振りを始める。


 バットが、空気を切り裂く音が聞こえない。

 休み休み、一気にバットを振りぬく。

 空間にボールを思い浮かべ、それを渾身の力で打つのだ。

 だが変な力みがあって、思ったようなスイングにはならない。


 10日ほども空けただけで、こんなにも技術は劣化するのか。

 ひたすらに大介は、バットを振り続けた。

 やがて体のブレがなくなると、ダッシュなどを始める。

 そしてマイナーの試合で調整を始めた。


 ボールのスピードが、思っていたよりも速い。

 単純に期間を空けるだけなら、シーズンオフにはもっと長く離れていたこともあったはずだ。

 だが肉体が完全に、戦闘態勢を解いていた。

 順序付けてメンタルをシーズンオフ状態にしていたわけでもないので、全体的に調整出来ていないのは当たり前だ。

 だがレギュラーシーズンはともかくポストシーズンまでには、なんとかしてチームに合流しなければいけない。


 マイナーの試合を重ねていくと、段々と体の中に力が戻ってくるのを感じた。

 それは同時に、怒りももたらしてくれた。

 その激情の開放を意識して、バットを振る。

 すると空気を切り裂く音が、はっきりと聞こえた。


 大介は自分が、どうやって野球をやっているのか、この時やっと分かったと言っていい。

 感情で大介は、野球をやっている。

 それは技術を無視しているとか、そういうことではない。

 怒りや不条理、鬱憤を晴らすことが、大介のバッティングにつながっている。

(俺は、ずっと野球を続けるぞ)

 大介のバッティングを破壊的と言い、芸術の欠片も感じないと言ったイリヤ。

 彼女がもういないというのが、とても不思議なことに感じる。

 どこか、ものすごく遠くで生きているような、そんな感覚。

 イリヤの音楽を聴くたびに、そんな気持ちになってしまう。




 大介がメジャーに戻った時点で、残りの試合七試合となっていた。

 マイアミ・シャークスとの四連戦と、アトランタ・ブレイバーズとの三連戦。

 それでレギュラーシーズンは終わる。


 ブレイバーズもこの時点で、地区二位ではあるが、勝率で劣る。

 ポストシーズンにナ・リーグ東地区から進むのは、メトロズだけとなっていた。

 試合の前のロッカールームで大介はチームメイトたちから声をかけられる。

 言葉の全てが分かるわけではないが、そこには同情や励ましの意味があるとは、声音からでも分かった。


 アメリカは個人主義で、同じチームでもドライな関係が多い。

 それはFAなどでの移籍の多さから考えても、ごく当たり前のものだ。

 しかし銃社会であるアメリカは、殺人などへの関連が、日本よりもずっと身近なのだ。

 タダで済む励ましの言葉などを、惜しむ必要はない。


 ポストシーズンまでに、元の通りに打ってくれればいい。

 それにあと七試合あれば、大介ならば記録の更新も、まだ不可能ではないと思うのだ。

(優勝か)

 どちらかというとチームのことより、自分の個人成績が注目されていた大介。

 だがポストシーズンを前にして、チームはまとまってきている。

 皮肉なことにこれは、大介が不幸に見舞われて、チームメイトの同情が集まったからだが。


 これならいけるだろう、とFMのディバッツは思った。

 そして復帰後の初戦、大介はシャークスから三安打。

 打点を稼いで、リーグの最多打点記録に並んだ。




 イリヤという天才が残したものは大きい。

 そして彼女の死によって、失われたものも大きい。

 悲しみに暮れたニューヨークの街の中で、大介はバットを振るう。

 バッティングの天才、スーパースターが帰ってきた。

 ただそれでも大介は、胸の中に空いてしまった部分を感じる。


 ツインズと共に、何度か試合観戦に来ていたイリヤ。

 だがもう、彼女の姿がスタジアムで見られることはないのだ。

 まだどこか、彼女の生きている空気を感じる。

 それは街を歩いていても、やたらと流される彼女の、病気で歌えなくなるまでの歌によるものだ。


 いなくなってからさらに、その存在の巨大さを感じさせる。

 彼女のような人間を、どうしてたった一人の銃弾が、この世から消し去ることが可能だったのか。

 だが彼女の魂は、まだこの世界に生きている。


 人間は二度の死を迎えると言ったのは誰だったろうか。

 一度目は肉体の死。

 そしてもう一度は、人々の記憶から消え去った時。

 だがイリヤの場合は特に、その音楽が失われたときも含まれるだろう。

 ここまで多くの曲を残し、そして影響を与えてきた彼女。

 イリヤは死んだが、おそらく人間が存在する限り、彼女の音楽が失われることはないのではないか。

 その意味でイリヤは、永遠に生き続けることになる。

 やがて人類が滅亡するその日まで。


 羨ましいと言ってしまえば、語弊があるだろうか。

 大介のようなスポーツのスーパースターも、確かにその記録は多く残る。

 だが人々に鮮烈な印象を残すのは、リアルタイムのプレイだけだ。

 後から振り返ることはあるだろうが、それは単純に数字に残るだけだ。

 それでも直接見ていた人間は、あるいは死ぬまで、その鮮烈なプレイを記憶してくれるかもしれない。

 また大介のプレイを見て、野球を始める人間もいるかもしれない。

 

 人は死んでも、必ず何かを残す。

 イリヤは大介にも、そして他の多くの人間にも、多大な影響を残した。

 彼女は永遠になった。彼女の望んだ形ではなかったかもしれないが。

 そしておそらく、イリヤのように歴史に名を残すような人間でなくても、人間は必ずその痕跡を残す。

 イリヤにしてもその遺伝子は、まだ全く未来の分からない、娘に受け継がれている。




 イリヤの娘は、その親族とも話し合って、母親と同じ名前がつけられることになった。

 区別がしやすいようにミドルネームもつけられたが、おそらくは多くはイリヤと呼ぶことになるのだろう。

 大介としてはどうしても、イリヤという名前には特別な感覚を覚える。

 だが少なくともツインズは、もう彼女をイリヤと呼んでいる。


 大介もまた、野球の歴史に名を残し、世間を大きく騒がせてきた。

 そしてその血統は、息子と娘に受け継がれていく。

 なお娘の命名については、少し葛藤があった。

 女の子が産まれたらどうするか、考えてはいたがゴタゴタで、手続きを忘れるところであったのだ。

 ただツインズが、一つだけ主張した。

 イリヤの名前から一字もらいたいと。


 イリヤは日本語では便宜上、伊里野と書いていた。

 使いやすく分かりやすい里紗という名前をつけることになった。

 リサならアメリカにもある名前で、違和感はないだろう。

 そんな考えがあったのも確かだ。


 二人の娘を育てることになって、改めて大介はその肩に、色々な人間の人生を背負う覚悟を決めた。

 実際のところは育児に関しては、ツインズがいれば充分なのだろうが。

 それに育児にかける金にしても、もう充分に大介は稼いでいる。

 あとはこれが減らないように運用するだけなのだ。


 大介は、自分の成績を誰かのせいにすることはない。

 だが世間の誰かが、誰かのせいにしてしまうのを止めるためには、自らが打ってそれを証明しないといけない。

 既に随分と戦列を離れていたが、メトロズの優勝は決まっていた。

 だからここから大介が戦うのは、ポストシーズンだ。

 そして己にかかった記録への挑戦。


 マイアミ・シャークスとの四連戦。

 いきなり初戦で三打点の大介であったが、ホームランはなかった。

 しかし二戦目は、四打数一安打ながらも、その一打がホームラン。

 累計シーズン本塁打は、これで72本となった。

 そしてシーズン打点記録を更新。

 ホームでの達成であったので、試合が中断されて、花束などが贈られたりもした。




 記録に挑戦することに、意味はあるのか。

 大介としてはただ、己の力を全力でぶつけたいだけだ。

 その結果に勝負を避けられることになっても、それはそれで仕方がない。

 だが記録を残して喜ぶ者がいるなら、挑戦してみるのもいいだろう。


 身近な友人の死を、お祭り騒ぎで塗り替えることは出来ない。

 だがせめて、何かを残したい。

 それが記録になるとしたら、挑戦してみる価値もあるのかもしれない。

 そして実のところその挑戦は、別に無謀なことでもない。


 ホームランに関しては、残り五試合で二本を打てばいい。

 大介のこれまでのバッティングの内容から、それは無理ではないと思う。

 そして実は、打率がまだ今シーズン通算で四割を切っていない。

 ホームラン、打点、打率という三つで、記録を残そうというのだ。

 打率に関しては、昔の記録を抜くというわけではないが。


 事件が起こらなければ、もっと色々な記録が生まれたかもしれない。

 その意味ではあの犯人は、野球の歴史においても、傷を残す存在となったのだ。

 大介としても日本時代、どうしても達成できなかった200安打を、ここでは達成出来るかと思ったのだ。

 だが現在は187安打。

 おそらくは200安打には届かない。


 MLBのファンからは、そんな部分でもブーイングが上がったりした。

 ただアメリカ社会は個人主義がかなり浸透しているので、犯人の身内にまで悪意が及ぶことはなかったが。

 考えてみれば直史がアメリカに来たことで、NPBでの記録もかなり抑えられることになった。

 もちろん来た時点でほとんどのタイトルは確定させていたが、それでもあんな事件が起こらなければ、もっと素晴らしい記録が残ったのだろう。

 後追い自殺の件なども含めて、イリヤの死はアメリカ社会に大きな傷跡を残した。


 せめて、少しでもそれを、喜ばしいことで覆い隠したい。

 そう思った大介だが、第三戦でホームランはなし。

 残りの四試合で、記録の更新に挑戦することになる。


 バットを振っていると、色々なことを忘れることが出来る。

 逆に言うと何かを引きずったまま、バットを振ってもホームランは打てない。

 そんな肉体の現象を感じながら、わずかずつ大介はショックから立ち直っていく。

 本当に深い傷は、癒えたとしてもずっと残るのかもしれないが。

「俺の不調を、あいつのせいにするわけにはいかないしな」

 大介がその心情を吐露したのは、ツインズ相手ぐらいであった。


 残りの四試合。おそらく打席は、多くても20打席まで。

 それだけの間に、何を達成出来るのか。

 大介は初めて意識して、記録の更新を狙う。

 舞台はニューヨークのシティ・スタジアム。

 イリヤの愛したニューヨークで、大介は初めて、挑戦らしい挑戦を始めるのであった。

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