第106話 継承

※ 話の流れ的に東方編134話がやや先になります。



×××



 雨が惨劇の痕跡を洗い流していく。

 大介は一足早く病院に到着し、手術室の前で待つ。

 医師から受けた説明であると、弾丸を除去する手術になるらしい。

 出血がかなりあるので、危険な状態だと言われた。


 警察とボディガードがやってきて、前後の状況を説明する。

 犯人の動機などは、まだ分かっていない。

 だが身元自体は判明しているので、これから調べていくことになる。

 あとはボディガードが説明したが、念のために弁護士を呼んだ方がいいらしい。

 ツインズのどちらかは日本の法曹資格を得ているが、それはアメリカでも通用するものではない。

 ニューヨークの弁護士はその資格が全米で通用するのだとか、大介はただ頷いた。


「大介君!」

「バカ! 走るな!」

 廊下の向こうから駆けて来る桜を見て、大介は慌てる。

 動揺しているのは分かるが、妊婦が走るべきではない。

 大介の懐に飛び込んだ桜は、頬に濡れた跡があった。

「イリヤが死んだの」

「……ああ……」

 大介はかける言葉を持たない。


 大介にとってイリヤとはどんな存在だったのか。

 よく野球部を見に来ては、直史や武史を楽しそうに見つめ、大介にはたびたび辛辣な言葉を浴びせていた。

 大介のバッティングは、芸術と呼ぶにはあまりにも破壊的だと。

「芸術は爆発だろ」

 大介も言い返していたが。


 口論というか口喧嘩と言うよりは、掛け合いのようなものであった。

 そしてツインズの親友。世界的に見れば、極上のミュージシャン。

 彼女がその偉大なる友人たちを集めたのも、この北米大陸であった。


 大介はイリヤの遺体を見てはいない。

 彼女の所属する事務所の人間が来て、確認をしていた。

 今日出かけなければ、もしくは今日でも少し時間が違えば。

 未来はいくらでも変わっていたのかもしれない。

 無意味なことであり、自虐的なものではあるが、自分が何かを言っていただけでも、こんな未来は来なかったはずだ。

 それは逆算して言えることであり、あの時点ではむしろ危険なのは、大介やツインズであったのだ。

「どうしてだろうな……」

 イリヤは死ぬべき人間ではなかった、と大介は思う。

 多くの人々にその音楽だけで、涙を流させることが出来る人間。

 1000年の後にも伝わるものを残す、ごく限られた一部の人間。

 それがこんな形で失われてしまったのだ。

 世界は間違っていて、そして間違っているからこそ世界なのである。




 手術が終わって、医師が出てくる。

 とりあえず処置したのは、足の血管。

 動脈に食い込んだ銃弾が少しずれていたら、失血死の可能性もあった。

 そして肘の弾丸は、また別の医師の仕事。

 砕かれた骨を除去し、可動するようにする。

 だが二ヶ月ほどはギプスで固めたままとなる。


 問題なのは、出血で気絶した時間がそこそこ長かったこと。

 脳波などは問題ないが、目覚めないとそれは即ち出血によって、脳にダメージが残る可能性がある。


 しかしそれは大丈夫だ。

 運び出された椿は、まだ輸血を続けている。

 もう一方の手を桜が握ると、うっすらと目を開けた。

「椿ちゃん」

 呼びかける桜に対して、椿は薄く涙を浮かべた。

「守れなかった……」

 お前の責任じゃない、と言うのは簡単だろう。

 だがそれで納得しないというのが分かる程度には、大介は三人の関係を知っている。

「奥さん、貴女は赤ん坊を助けましたよ」

 医師がそう言って、大介は椿のもう一つの手を握る。

「しばらく眠るんだ。今はとにかく」

 頷くように顎が動いて、椿は瞼を閉じる。

 そしてまた、深い眠りの中に落ちていった。


 それと同時に、桜がうずくまる。

「どうした?」

「いや、さっきから腰が痛いんだけど、これってひょっとして陣痛かなって」

「は? まだ予定日には早いんじゃ」

「産まれそう……」

「ええ~!?」

 そして実際に、その日のうちに、白石家には第二子が誕生したのであった。




 事態は大介の処理できるキャパシティを超えた。

 イリヤを失った芸能会社、そして大介の所属する球団と、そちらに対応しようにもまず桜である。

 椿がとりあえず命の危険はないと分かったが、今度は桜の出産。

 当然ながら野球をやっている場合ではない。

 またマスコミもこの大事件を大きく取り上げ始め、大介との関連も明らかにしている。

 もちろん大介もまた被害者なので、悪意のある論調なのではないのだが。


 やがて分娩室から赤ん坊の泣き声が聞こえ、母体も問題ないと聞いて、ようやく大介はホッと一息をつく。

 何を言われているのかわからなかった、弁護士などからの話にも、ようやく頭が働き始める。

 イリヤの会社は記者会見をし、まずイリヤが死亡したことを公式に認めた。

 その犯人は椿にも発砲し、正当防衛で死亡していることも。

 椿の容態に関しては、大介が知らない間に頷いていたらしく、簡単に説明はした。


 正当防衛の方は問題はない。問題なのはその後、イリヤの腹を裂いて、胎児を取り出したことだ。

 その時点でイリヤが死亡していたことは、ボディガードも証言していて、実は殺人になるのでは、という心配はいらないらしい。

 ただ遺体損壊と、無茶な医療行為が疑われるが、母体が死亡していたのだから、緊急避難の理屈と一緒で罪にはならないだろうし、なったとしてもすぐ保釈される程度であろう。

 本人がしばらく入院しなければいけないという状態を考えれば、それすらも考えすぎであるかもしれない。


 とりあえず大介は代理人がいないので、球団広報からは、妻が撃たれたことや、またショックで家族が出産したことなどから、大介はとても会見できる状態ではないと発表された。

 それは事実であり、大介としてはこの状況を受け入れることが難しい。

 連絡をして誰か身内を呼べないか、と言われたときに真っ先に思いついたのが直史であった。

 ツインズの兄であり、イリヤとも友人関係にはある。

 武史の顔は全く思い浮かばなかったが。


 日本の実家の方には、とりあえず命に別状はないということだけを知らせた。

 球団が弁護士を手配し、椿のやった行為を正当化すると大介には話した。

 イリヤの子供を、さすがに医療の心得がない人間が、既に死んでいたとはいえ無理やり引き出した。

 その行為は確かに問題だが、前後の事情とボディガードの証言で、問題にはしないと請け負ってくれた。

 とにかく今は、大介は自分の代わりに考えてくれる人を必要としていたのだ。


 それでも産まれた子供には、会いに行かなければいけない。

 女の子だ。また名前をつけなければいけないだろう。

「そういえば、イリヤの子供は?」

「丁度、あの隣のベッドの赤ちゃんですよ」

「命に別状は?」

「少し早産になっただけですから……」

 状況だけを見れば、帝王切開で産まれたのと同じようなものになるのだろう。

 椿のナイフ捌きは、イリヤの遺体を大きく傷つけたが、その分子供は繊細に扱ったのだ。




 大介の周りに集まってきたのは、ニューヨークでイリヤから紹介された、彼女の友人たちであった。

 その中には目を真っ赤に腫らしたケイティなどもいて、全てが沈うつな表情を浮かべている。

「ダイスケ、貴方は大丈夫なの?」

 日本語の上達したケイティは、そんな風に尋ねてくる。

「俺は、心が痛い。でも妻たちは苦しんでいる」

 通訳をしてくれる杉村は、大介の代わりに日本語の分からない人間と話してくれている。

 それでも判断が出来ないときは、こちらに来るのだが。


 イリヤという存在は、失われてはいけないものであったのだ。

 この先にもまだまだ作品を生み出し続けるはずの存在が、もう永遠に失われてしまった。

 彼女が生み出した最後のものは、己の娘であった。


 イリヤにももちろん肉親はいるが、あまり最近が交渉がなかった。

 それでもヨーロッパから、こちらには向かっているだろう。

「君も少し休んだらどうか、って言われてる」

「……家に帰りたくない」

 今は家に帰っても、誰もいない。昇馬もシッターに預けてあるのだ。

 誰もいないあの部屋は、平穏の象徴であった。

 そこで一人でいるのは、精神的に辛い。


 直史を呼んだ。

 当然呼ぶべき人間ではあったが、大介が一番頼りに出来ると思ったものだ。

「少し球団に話してくるから」

 杉村はそう言って、しばらく大介を一人にする。

 だがわずかの後に、ケイティたちに囲まれることになるのだった。




 のろのろと、それでもどうにか動いて、ツインズの着替えなどを用意する大介。

 昨日はここで、イリヤが普通に生きていたのだ。

「白石さん」

「ああ」

 杉村に促されて、大介は荷物をまとめる。


 杉村としてはもちろん、大介に早く試合に復帰はしてほしい。

 だがそれは戦力となる状態だと、ちゃんと分かった状態でだ。

 おそらく今の大介をグラウンドに連れて行っても、なんの役にも立たないだろう。

 あまりにもショッキングなことが続きすぎた。


 友人が死んで、妻が大怪我をして、子供が生まれた。

 子供が生まれたことだけは、一応喜ばしいことだろう。

 早産だが機械につながれるということもなく、桜は母乳を与えていた。

 そしてついでというわけでもないが、イリヤの娘にも。


 イリヤの音楽関連の友人たちは、その死を悼んでいる。

 大介もそれは確かに悲しいが、今後はどうすればいいのだろうと、呆然としていた。

 それがようやく動き出したのは、日本から直史が来てくれてからであった。

 当人にとっては死はそこで終わりだが、残された者にとってはここからがまた一つの物語の始まりだ。

 ツインズの病室はVIPルームであったため、そこにヨーロッパからやってきたイリヤの父、そして彼女の資産の管財人などが集まる。

 もしも自分が死んだら、というイリヤの言葉は、以前に大介も聞いたことがあった。

 しかし本気で遺言書に残してあるとは。

 あいつはなんだかんだ言って、殺しても死なないと思っていたのに。


 子供の親権については、あちらが要求してきた。

 確かに常識的に考えれば、血縁関係のある向こうが、それを主張するのは当然だろう。

 だがイリヤは、それに関しても考えていたらしい。

 まるで本当に、自分がすぐに死んでしまうのが、分かっていたかのように。

 ただそれでも、下手をすれば赤ん坊ごと死んでいたのだ。


 直史から渡された紙には、父親のことについて書かれてあった。

 なるほどだから、頼むわけか、と大介には分かった。

 あちらの父親にとっては衝撃的だったらしいが、大介にとっても衝撃的だ。

 しかしイリヤなら、やってもおかしくないというものであった。




 一通りの話が終わって、病室には三人が残る。

 直史やセイバーは赤ん坊を見に行っているが、この三人で話し合うことがあるのだ。

「大介君、赤ちゃん引き取っていいかな?」

 そう言ったのは、同じ日に子供を産むことになった桜であった。

 同じ日に産まれてしまった、亡き親友の娘。

 引き取りたいというのは、二人にとっては自然なことなのだろう。

 それにわざわざ指定されていたわけだし。


 大介としては、イリヤの子供版が育つなら大変だろうが、娘だからといってイリヤのようになるとは限らない。

「そうだな。双子を育てるつもりで育てれば、問題はないか」

 イリヤは大介にとって、対決する人間であった。

 だが感情的には全く、憎みあってなどいなかったのだ。

 彼女の作った応援曲に乗って、白富東は甲子園を制覇した。

 イリヤはある部分では大介の対決する相手であり、同時に仲間でもあった。


 自分にとっては友人の娘だが、ツインズにとってはもっと身近な存在だ。

 彼女の遺産を育てるのに、二人が躊躇するわけもない。

 ならば二人を共に妻にした自分は、その妻たちの意思を尊重するべきだろう。

「これで三人目っていうのは、なんというか予定よりも早いけどな」

 もうちょっと二三年ほど間を置いて、また三人目は作ろうと思っていたのだが。


 最低でも四人はほしいかな、と思っていた。

 まさかイリヤが、こんな風にプレゼントをくれるとは思っていなかった。

「父親は俺にしておいていいのかな?」

「う~ん、それはやめておいた方がいいと思う」

 ずきずきと痛む怪我だが、意識ははっきりしてきた椿がそう言う。

「なんでだ?」

「どうしてイリヤが狙われたのか分からないし」

「……俺の子供にすると、狙われる危険が増えるのか?」

「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「まあ、どのみち書類の上でのことか」

 血縁はないが、縁はある。

 シーズン中は忙しい大介だが、子供が一人増えて大変なのは、ツインズの方なのだ。


 現実に引き戻されたようだ。

 ここ最近の熱狂、特にニューヨークにおいては、大介は英雄であった。

 だがこれほどバットを振らず、振ろうとも思えないことは、今までになかった。

 祖父が死んだ時も、それを振り払うように、素振りは続けていたのに。


 ただ、荷物と一緒に持ってきてしまったバット。

 広いVIPルームの中では、充分に素振りが出来る。

 大介が泊まるためのベッドも用意され、しばらくはここにいることになるだろう。

 色々なことが解決しないと、とてもグラウンドには戻れそうにない。




 イリヤの娘の父親は、人工授精による妊娠であった。

 なので当人の責任を問うわけにはいかないし、問うつもりもない。

 そもそもそんなものはどうでもよく、イリヤの娘なら自分たちが育てるべきだろう。

 ツインズはそう思っていたし、大介ならそれを許容するのも分かっていた。

 ただ大介の子供ではない。それは確かなのだ。

 もっとも一緒に育っていけば、そんなことは関係なくなるだろうが。


 書類上の面倒な手続きはあるだろう。

 それに桜と椿、それぞれが回復するのにも時間がかかる。

 特に椿は一部を人工関節にしてしまったため、動きが制限される。

 リハビリは必須だと言われている。


 死者は二人出たが、もう少し異なればあと二人も死んでいたはずなのだ。

 それが生きているということは、何かの縁があると思った方がいい。

「じゃあちゃんと育てるためにも、稼がないといけないな」

 そうは言った大介であるが、自分の中から野球が完全に消えてしまっている。

 祖父の病気の折でさえ、野球が彼を動かしていたというのに。


 人は誰もが、やがては死ぬものだ。

 だけどもう少しだけ、その人生を見ていたかった。 

 そう思えるような人間は、なかなかいない。

(騒がしい女だったよ、お前は)

 悲しみに満ちながらも同時に、大介はイリヤの記憶が、暖かいもので満ちていくのを感じていた。

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